第7話

 夢を叶えるために、今まで以上に勉強に力を入れた。


 杏珠は勉強が苦手らしく、いつも補習組。放課後や昼休みには、美羽が授業や補習の内容を教えてあげた。


 杏珠に教えるために美羽は授業を休むこともなくなり、いつも以上に真剣に聞く。


 1年生の内は兄がいるため、放課後もほとんど残れなかった。


 しかし、兄が卒業して2年生に進級すれば、帰りの時間は自由になる。一般公開の日には放課後すぐに美羽を迎えに来た車に乗り込み、一緒に月光園に向かう。月狼たちに癒されながらクイズのように勉強の復習をするのは楽しかった。


 そうして彼女たちは、無事に高校3年生、受験の年を迎えた。




「み~う」


 3年生になって同じクラスになった杏珠は、美羽の席の前の椅子に座る。その席の主はもう下校済みだ。


「また勉強?」


「えぇ」


 勉強の邪魔をするように机を覆う杏珠に、美羽は気にせず教科書を開く。


「なんかさ、3年になってから、何かにつけて受験受験ってうるさくない?学校でも家でも……。もううんざり」


「事実でしょう。杏珠、勉強は大丈夫なの?」


「ん-?美羽のおかげで2年からは補習組じゃないし、なんとかなるんじゃない?」


 楽観的すぎやしないか。確かに美羽は、補習にならないように勉強を教えているのだが。


「そろそろ過去問で試験対策も始める?」


「え、もう?まだ5月だよ?」


「遅すぎるくらいよ」


 受験対策に始まりも終わりもない。できるだけ早く始めて、その時間を濃くするのが肝心。


「それより、美羽は?家族に話してるの?進路のこととか」


 杏珠からの容赦のない指摘に、美羽は思わず顔をしかめる。


「その感じはまだ話してないね」


「……」


 話せるわけがないではないか。確実に反対されるのに。


「大丈夫?明泉めいせんって私立だし、月狼学科だけ学費バカみたいだし、親に内緒で行ける学校じゃないよ」


「わかってるわよ」


 明泉大学のオープンキャンパスには何度となく行ったし、パンフレットにも目を通した。


 その学費は、普通の私大とは比較にならない。といっても、難しい額でもなかった。問題は、父がそのお金を出してくれるかどうか。


「受験までには話すわ」


「応援してる」


 勉強以上の重要な問題だった。




 どんなに放課後残って勉強しても、月光園に顔を出しても、夕食の時間には戻る。


 それでも父が帰っている日は少なく、兄と2人、その兄さえも大学で忙しい日は一人の夕食だ。それを寂しいと思う気持ちは、もうなくなった。


 家庭から逃げるように仕事に向かう父との時間なんて、簡単には取れない。休日も家にいないし、美羽も杏珠と遊びに行ったり勉強したりという日が増えたせいだ。


 いつもタイミングを逃してばかりだった。




「美羽、今年は受験生だね。進路は考えてる?」


 そんな時、兄から聞いてきた。その日は珍しく父がいる休日。それも、逃げられない昼食の席だった。


 美羽の方も、今日に限って杏珠に遊びを断られ、月光園の一般公開の日でもなかったため、家にいた。


「……どうして?」


 苛立ちを隠せなかった。兄の意図が読み取れたから。


 兄に指示するのは父だけ。兄が高校を卒業してから、それがわかりやすくなった。兄は後継者として父を助けて当然だと思っているようだが、父が娘との対話を避けて息子を介す様子は、良くは見えない。少しは隠す努力をしてほしいと思う。


 娘に関わろうとしない父も、それを間接的に助けている兄にも、腹が立つ。


「どうしてって、気になるだろう?父さんも何も言わないけど、気になってると思うよ」


「お父様は何も言わないわ」


「言わないけどって言っただろう?まぁ、美羽ならどこの大学でも大丈夫だね。成績はいいみたいだし」


 いつも通り明るいだけなのに、能天気に見えてしまう。妹のことはなんでも理解していると思っているのだ。一番の悩みには気づかないくせに。


明泉めいせん大学」


 美羽はナイフを動かしながら、一気に吐き出した。


「へぇ、意外だね。理由は?」


「月狼学科があるから」


 その瞬間、父の手がピタリと止まった。美羽はもちろんそれに気づいたが、口は止まらない。


「わたし、月光園に就職したいの」


「ダメだ」


 初めて娘の夢を聞いた父親は、即座にそれを否定した。


「なぜですか?お父様」


英星えいせい学院大学でいいだろう」


 兄が通う大学。九條家が信頼して後継者を任せてきた大学の名前。これもまた、父のレールの上なのか。


「イヤです。月狼学科は、明泉大にしかありません」


 そんなレールはイヤだと、美羽は初めて言葉にした。


「お前に月光園は無理だ。諦めなさい」


 娘の気持ちをほんの少しも考えない。美羽の怒りは徐々に大きくなっていく。


「なぜお父様が決めるのですか?」


「お前には、いずれグループ企業の1つを任せる。女性スタッフが多い会社もあるだろう。まずは英星大に入学しなさい。その後のことはこれから決めればいい」


「そんなもの、ほしくありません」


 形だけの社長の椅子なんてほしくはない。


「もう子どもではないだろう。わがままを言うな」


 わがままなんて、今まで一度も言ったことがない。わがままを言えない環境を作り出したのは、他でもない、この父親だ。


「お父様はわたしの何をご存知なのでしょうか」


 今にも爆発しそうな怒りをぐっと抑え込み、冷静に、落ち着いて、と言い聞かせながら言葉を紡ぐ。


「……私はお前の父親だ」


 娘と目を合わせることもなく、わずかに考えて、そう答えた父親。


 その瞬間、美羽の怒りは手が付けられなくなった。


「ふざけないで!」


 ガシャン、と食器が大きな音を立てて跳ねる。美羽は勢いよくその場に立ち上がっていた。


「父親? そう言えるだけのことを、あなたはいつしましたか? ただ必要なお金を出しただけでしょう」


 止まらない。心からあふれ出した言葉たちが、口をついて次から次に出てくる。


「わたしを育ててくれたのは、本当に親として見守ってくれたのは、代々の世話係だけです。彼らがいてくれたから、わたしはここまで育ちました。お金だけ出して父親らしいことをひとつもしたことのないあなたが、今さら父親面なんてしないで!」


 ビリビリと細く震える空気が痛い。


「美羽、言いすぎだよ。父さんは」


「お兄様もお兄様よ!」


 止められなくなった怒りは、仲裁に入ろうとした兄にも向けられる。


「いつもいつも、わたしのことは何でも知ってるって顔をして! わたしの本当の気持ちに気づいてくれたことなんて、一度もなかった! お兄様の言葉なんて聞きたくない! どうせお父様に指示された、偽りの言葉だもの!」


 家族を傷つけたいわけではない。それなのに、止められなかった。


 初めて見る美羽の姿に、呆然と固まる家族を置いて、美羽はダイニングを飛び出した。


「お嬢様!」


「来ないで!」


 後を追ってくる世話係たちを拒み、部屋に閉じこもる。


 なぜわかってくれないのだろう。美羽がほしいのは、安定した未来でも、それを保障する言葉でもない。ただ一言、「応援している」と言ってくれれば。「心配だから」と言ってくれれば。それなら美羽だって、一度考え直すこともできなのに。


 考えた上で、父と兄を説得するために、冷静に言葉を選べたのに。


 娘が、妹が、本当に望んでいる言葉を言えもしないで、何が家族だろう。



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