第4話

 どれくらいそうしていただろう。気づくと、外はもう赤くなっていた。


 もう周りに一般客はほとんどおらず、月狼げつろうの世話をする飼育員の姿がぽつぽつと見える。


「美羽さん」


 そこに、久野が歩み寄ってきた。


「もう終わりだよ、ニーナ」


 久野は、美羽の足の上で眠っていた幼獣を抱き上げ、仲間の元へ返してあげる。


「キュー、キュー」


 幼獣は寂しそうに鼻を鳴らすような声をあげ、柵の向こうから美羽を呼んだ。


「楽しんでいただけましたか?」


「……はい」


 名残惜しいが、しかたない。立ち上がろうとした時、足に力が入らないことに気づく。


「……?」


「あぁ、足がしびれてしまいましたね。よくいらっしゃるんですよ。幼獣のかわいさに時間を忘れてしまう方が」


 思えば数時間、同じ体勢だった。痛みもしびれも感じなかった。そんなことよりも、心地よさそうに眠る幼獣を起こさないようにだけ気をつけていたのだから。


「たいしたことありません」


 他人に弱みを見せてはいけない。そう教わった美羽にとって、これはピンチだった。


 慌てて立ち上がろうとして、足に力が入らずバランスを崩す。


「おっと。しばらくそのままで」


「いいえ。そんなわけには」


 だんだんと焦りが出てきた。


 家族に無断で外出している。運転手も呼んでいない。ここから自宅までは1時間弱。今帰って、夕食の時間に間に合うだろうか。軽いパニック状態だ。


「……ったく」


 その様子を見ていた男が、大股で歩み寄ってきた。美羽を軽々と抱き上げる。


「何を……っ」


「黙れ」


 驚いて声を上げた美羽を、ぎろりと睨んだ。


「あんなところでバタバタしてたら、月狼たちが気になって休めねぇだろうが」


「……!」


 こんな乱暴な言葉遣いをされたのは初めて。だから、言い返す言葉がわからなかった。


 呆然としている間にゲートの外のソファに運ばれる。


「閉園時間だ。さっさと迎え呼んで帰れ、お嬢様」


「な……!」


 言われなくてもそうするつもりだった。しかし、そう言われるとムッとしてしまう。


 そんな美羽のことなど気にも留めず、男はゲートの中へ戻ってしまった。


「息子が申し訳ありません、美羽さん」


 ついてきた久野が、丁寧に頭を下げた。


「久野園長の息子さんですか?」


「はい。大学を卒業したばかりなのですが、どうにも不愛想で」


 不愛想、という言葉で収まるのだろうか。ぶっきらぼうにも思えた。


「迎えを呼びます。ご迷惑をおかけしました」


 これ以上ここにいてはいけない。美羽はスマートフォンを取り出した。




 帰宅する頃には19時を回っていた。帰宅ラッシュの混雑から抜け出せなかったせいだ。


「おかえりなさいませ」


 いつも通り出迎える使用人たちの中を、美羽は早足で通り過ぎる。


「美羽!」


 その時、那月が駆け寄ってきた。


「こんな時間まで何をしてたの? 心配したよ。行先も聞いてないし、連絡しても出てくれないし」


「……図書館で本を読んでいただけよ。電源を切っていたから、気づかなかったの」


 面倒くさそうに兄に答える。


「だとしても遅すぎるよ。せめて連絡してくれないと」


「忘れていたの。次は気をつけるわ」


 兄との会話なんて、早く終わらせたかった。月光園にいた時は感じなかった疲れが、一気に押し寄せてきたように、身体がおもだるい。


「あ、父さん……」


 そこへ、父親がエントランスに出てきた。19時を過ぎているとはいえ、いつも父が帰っている時間ではない。今日に限って帰りが早かったのか。


「……何をしていた」


 父親の顔は、いつも以上に厳しかった。


「ただいま戻りました、お父様。図書館でお勉強を」


「遅すぎる」


「夢中になって時間を忘れていました。ご心配をおかけして申し訳ありません。疲れたので、今日は先に休ませていただきます」


 父との会話なんて久しぶりだ。しかし、そんなことを気にする余裕もない。


 美羽は、父と兄を置き去りにして、さっさと部屋に入ってしまう。


「お嬢様、本日のお夕食はいかがいたしますか?」


 世話係が尋ねてきたが、


「いらないわ。今日はもう休みたいの」


 とそっけなく答える。


 夢の世界から一気に現実に引き戻されたかのような不快感が、心の奥にくすぶって消えなかった。




 それから美羽は、月光園の一般公開の日には必ず通うようになった。


 都合よく休日だけになるはずはなく、学校がある日にも一般公開は開かれる。


 そのため、一度兄と登校し、その後学校を抜け出してタクシーで月光園に向かうようになった。


 一般公開では、毎回ふれあいができるわけではない。2回に1回、時には4回に1回程度でしかない。


 だから、一日たりとも欠かすことはできなかった。




 そんな生活が半年間続き、美羽の変化に家族が気づき始めた。


「美羽、最近は授業をお休みすることが増えているそうだね」


 兄に言われた美羽は、思わず顔をしかめる。下校する車の中で聞いてくるのが陰湿だ。どうやったって逃げられない。


「……だから?」


「あ、悪いって言ってるわけじゃないからね。そんなに頻繁ではないし、美羽も疲れて休みたいときもあるだろう?」


 月に二度、それも不定期のため、まさか学校を抜け出しているとは思っていないのだろう。初回の失敗以来、ちゃんと学校が終わるまでには戻ってきている。


「でも、休んでる間はどこにいるの?保健室じゃないよね?」


「どこだっていいでしょう。お兄様に関係ある?」


 学校を休んでいるのは美羽の方なのに、なんとなく口調が強くなってしまう。


「今度、美羽と一緒に僕も休んでみようかなって」


 それに対し、兄はいつも通り穏やかに答えた。


「ひとりでいい」


「そ、そっか……」


 兄が一緒にいては、学校を抜け出せるはずがない。


 対して那月の方は、不安だった。気力がなかった妹に、最近気力が戻っている気がする。それ自体はいいこと。しかしそれと同時に、妹が家族から離れていくような不安が、どうしても拭えなかった。


「ねぇ、美羽。今度2人で出かけてみようか。ほら、前に行きたいって言ってただろう?」


 動物園、水族館、遊園地。若者に人気のショッピングモールに、話題のカフェや高級料理店。どこだっていい。妹の興味があるところなら。妹を繋ぎとめておけるなら。


「行きたくない」


 しかし、妹から返ってきたのは、冷たい言葉だった。



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