第3話

 翌週のことだった。


 部屋で勉強していた那月の耳に、車の音が届く。


 まだ13時。仕事に行った父が帰ってくる時間でもない。


 不思議に思って窓に近づき、玄関を覗き込んでみる。車が一台、エントランスの前に止まっていた。


 客が来たのなら、使用人が知らせに来るはず。しかし、来客以外に考えられない。それなら、父が不在の今は自分が出迎えなければ。


 部屋を出て玄関に向かうと、ちょうど玄関が閉まったところだった。


「島崎、誰か来たの?」


 そこにいた使用人に階段を降りながら尋ねる。


「坊ちゃま」


 島崎は恭しく頭を下げ、


「お嬢様がお出かけになられたのですよ」


 と教えてくれた。


「美羽が?珍しいね。どこに行くって?」


「お聞きしておりません」


 休日に妹が出歩くなんて、普段なら絶対にありえない。しかし、友人ができて休日を楽しむなら、それもいい。妹が以前のようにかわいい笑顔を見せてくれるなら。


「帰ってきたら話を聞けるかな」


 那月はそう微笑んで、部屋に戻った。




 美羽は高鳴る心臓を抑え込むように、そっと胸に手を当てた。


 一人で家を出るなど初めて。学校に行く時は、基本的に兄が一緒だった。


 しかし今、広い車内には1人だけ。ドクン、ドクンと心臓が音を立てる。


「お嬢様、お具合がよろしくないのですか?」


 その時、運転手がバックミラー越しに心配そうな視線を向ける。


 美羽は慌てて手を下ろし、首を振る。


「いいえ。気にしないで」


 冷たい声に、若い運転手は心配そうにしながらも、それ以上何も言わなくなった。




 たった1週間前なのに、その場所は不思議と懐かしい感覚を覚える。


「ここでいいわ。止めて」


 建物から少し離れた場所で車を止め、美羽は新品のように磨かれた靴で土を踏む。


「お、お嬢様、本当にこちらですか?目的地までお送りいたします」


「いらないわ。用事が済んだら呼ぶから、山を下りて近くで待機していて」


「お嬢様……」


 運転手の言葉を遮って、美羽は1人で歩き出した。


 舗装されていない道は、両側を森に挟まれ、ただまっすぐにあの施設へ向かわせる。


 木々の前に並ぶ石碑のように見えたのは、あの場所で亡くなった月狼げつろうたちのお墓だろうか。


 自然を楽しむようにゆっくり歩く。こんなこと、今まで一度もなかった。ゆっくり歩くというのは、こんなにも気持ちのいいものだったのか。


 そうして見えてきた、白い建物。今日は人通りがある。多くはないが、近くの駐車場から歩いてきた一般客だろう。隣にある小さな売店は賑わっていた。


 美羽は迷わず建物に入り、あの受付に歩み寄る。


「チケット一枚ください」


「はい」


 1万円札が数枚消える入場料。危険だということを記す誓約書にサインをし、チケットを受け取る。


 そのチケットを持って、月狼の世界と分けるゲートへ。そこに立っていた職員にチケットを渡して半券を切ってもらう。


「ごゆっくりどうぞ」


 そうして美羽は、初めて月狼たちの世界に足を踏み入れた。


 屋内の広場には柵を立てて道が作られ、順路に沿って進むようになっている。


 まず、入ってすぐのところで足を止めた。視線を感じる。その視線は、広場の一角から向けられるもの。確か、マリーといったか。長だと紹介された月狼からの視線だった。


 マリーは何をするでもなく、ただ青い瞳でじっと美羽を見つめる。美羽もまた、彼女を見つめ返した。やはり、他の月狼よりも一段と気高く、この場の誰よりも圧倒的な存在感だ。


「九條様のお嬢様」


 その時、すぐ後ろから声をかけられ、ハッと振り返った。


「ようこそおいでくださいました。本日はおひとりですか?」


「……先週はお世話になりました。もう一度月狼を見たいと思い、今日はひとりで参りました」


 あの時は一言も喋らなかったため、月光園の久野園長と言葉を交わすのは、これが初めて。


 相変わらず優し気な笑顔は、なんとなく警戒してしまう。


「月狼は美しいですからね。お嬢様もとてもお美しいので、月狼たちがかすんでしまわないか心配です」


「……申し訳ありませんが、お嬢様はやめてください。今日は父もいませんので」


「あぁ、これは失礼しました。お名前は……、美羽様でしたね」


「様はいりません。高校生ですので」


「では、美羽さんとお呼びしますね」


 本来なら、呼び方なんてなんでもいい。大人から敬われるのも慣れている。


 しかし、この場ではそう呼ばれたくなかった。月狼たちを前にするこの場所でだけは、父から離れたかった。


「美羽さん、餌やり体験はしましたか?」


「餌やり体験ですか?」


 魅力的な言葉に、美羽はハッと久野の顔を見る。


「はい。ゲートのところでビスケットを売っています。月狼の、特に幼獣たちのおやつです」


 それを聞いて、美羽はゲートを見る。そのそばで、紙コップのような容器を配っている職員がいた。


「よければ、どうぞ」


 美羽が餌やりをしていないことを知っていたのか、久野はビスケットが入った紙コップを差し出した。


「ありがとうございます」


 久野の好意に甘えて、美羽はそれを受け取る。


 すると、少し離れていた幼獣たちが、ぽつぽつと集まりだした。柵の隙間からビスケットを差し出すだけで、幼獣たちは舌と前足を使って器用に口の中に入れる。


 おやつを求めて甲高い声で鳴く幼獣たちに、美羽は目を細めた。


「幼獣たちは無邪気です。人間が危険だと思いもしない。この子たちの親は、きっと気が気じゃないでしょうね」


「……どういう意味ですか?」


 久野の意味深な言葉に、美羽は彼を見上げて問う。


「人間同士であれば、わかることもあるでしょう。近づいてはいけない人間がいる、ということも。しかし、幼獣たちにはわからない。だから、おやつを持っている人には喜んで近づいていく。そうして近づいてきた幼獣にひどいことをするお客様もいらっしゃるのですよ」


 あの時に聞いた話だろうか。客が幼獣を抱き上げ、月狼たちの敵意を煽ったと言っていた。


「なぜ幼獣を抱き上げてはいけないのですか?」


「子どもを守ろうとする本能が強いんです。もちろんその本能があるのは、月狼だけではありませんがね。月狼は、幼獣を群れで育てるため、幼獣一匹でも危害が及ぶと怒ってしまう成獣は、その子の親だけではないのです」


 群れで幼獣を育てる月狼。産まれた瞬間からたくさんの大人たちに囲まれた美羽と、似たものを感じる。しかし、決定的に違うものがある。


「……愛されているのですね、この子たちは」


 ビスケットに必死でかぶりつく幼獣に視線を落とす。


 少しして、あっと思った。しまった。これは言ってはいけない言葉だった。


「幼獣は全部で何匹いるのですか?」


 慌てて話題を変えた。


「わかっているだけで50匹です」


「わかっているだけ、というのは?」


「以前もお話しましたが、1歳になる前の幼獣は、母親に守られます。特に生まれたばかりだと、母親が警戒してお腹の下に隠してしまうので、産まれているのかわからない場合もあるのです」


 確かに聞いた気がする。モルモットとか子犬とか言っていた。


「なぜお腹の下に?幼獣が母親の重みで苦しまないのですか?」


「モルモット型の幼獣は、空を飛んでいる大きな鳥の餌になりやすいからですね。月狼のお母さんたちは、我が子が苦しまないようにちゃんと加減していますよ」


 鳥の餌になってしまうほど小さい月狼もいるのか。見てみたいが、飼育員でも難しいと言っていたから、きっと美羽が見ることはない。


「美羽さん、もしよかったら、ふれあい体験もしてみませんか?」


 久野の視線を追って広場の奥を見ると、サークルができていた。その中では、月狼におそるおそる触れる人間たちがいる。


 ビスケットもなくなった。体験できることはしておこう。


 そちらの方に歩いていくと、サークルのそばに立っていた職員が、美羽に笑顔を向ける。


「ふれあい体験をしますか?」


「お願いします」


 美羽が頷くと、彼は


「ちょっと待ってくださいね~」


 とサークルを見渡す。そして、


「うん、大丈夫です。まず注意事項をお聞きください」


 と告げた。


「ふれあいができるのは、このサークル内にいる月狼だけです。近づくと逃げていく子は、絶対に追いかけないでください。また、幼獣を抱き上げるといった行為も禁止させていただいています。膝に乗ってきた子は大丈夫ですが、意図的に抱き上げて乗せるような行為は控えてください」


 基本的なものばかり。難しいものはない。


「わかりました」


 と返事をすると、


「では、どうぞ」


 とサークル内に入ることができた。


 きょろきょろと周りを見て、人が少ないところに座る。


 いつの間にか久野は離れていた。この方がいい。ひとりでゆっくり楽しめるから。


 すぐに幼獣が近づいてくる。大きな青い瞳が、楽しそうに輝いていた。まず興味深そうに美羽の周りの匂いを嗅ぎ、そして、美羽の顔を見上げる。


 美羽がふっと小さく微笑んであげると、幼獣は笑うように口を開け、美羽の膝に前足を乗せた。


 ぐいっと首を伸ばして見つめてくる姿に、美羽は笑みがこぼれる。そっとその体に触れてみる。銀色の体毛は柔らかかった。


 さらに幼獣は、美羽の手に頭を押し付けてきた。甘え上手な幼獣だ。


 頭も顔もと、求められるままに撫でていく。すると幼獣はいつの間にか美羽の膝の上に乗っていた。


 ぐるぐると回って落ち着く場所を探すと、ちょこんと座った。


「……いい子ね」


 美羽は幼獣を優しく撫でてあげた。



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