第2話
運転手は当然専属。車は高級車。それも、父と子どもたちは別の車。2台に連なって進む中、
「美羽、今日は楽しみだね。いつもとは少し違うから」
と兄が話しかけてくる。それには答えなかった。
そういえば、身支度をしている時、髪をいじるのが好きな使用人が何か言っていた気がする。特別な動物園の視察だったか。
動物園に投資するなんて、慈善事業のつもりだろうか。父の考えていることはわからない。
やがて2台の車は大通りを抜け、細い山道へ入る。窓の外に並ぶ石碑たちを、美羽はじっと見つめていた。
やがて車が止まり、助手席に乗っていた使用人によって扉が開けられる。
「お待ちしておりました」
先に車から降りていたらしい父に、施設から出てきた人間たちが頭を下げる。
むき出しになった土を踏み、父の少し後ろ、兄の隣に立つ。
「
出迎えの先頭にいた男の言葉に、忠晴は黙って頷く。続いて男の視線は、忠晴の後ろに並んでいた少年少女に向いた。
「初めまして、九條
「これはこれは、ご令息、ご令嬢も同席いただけるとは光栄です。当園の園長をしております
まだ学生とわかるはずなのに、名刺まで渡して丁寧に挨拶してくれる。細い目をさらに細めて、優し気な雰囲気を醸し出す久野という男。
名刺に書かれた『
「では、さっそくですが、ご案内いたします」
挨拶もそこそこに、施設内を案内してくれるらしい。
「ご存知かとは思いますが、月光園で保護している
頷く父の後ろで、自分たちに言われていることを察した那月が、
「わかりました」
と頷いた。
建物の中に入る。まずはロビー。簡単なソファや小さな机がいくつか置いてあり、事務室に繋がる受付のような窓口があるだけのシンプルな場所。
そんな中、壁一面に描かれた大きな絵に目が行く。銀色の獣たちと、銀色に輝く月。今まで見てきたどの芸術作品よりも目を奪われるものだった。
「月光園は月に二度、一般公開があります。その際に窓口となるのがこちらです。入園料は決して安くありませんが、九條様を始めとする多くの方々のご寄付と入園料で月狼たちを保護しているので、これ以上下げることはできません」
窓口に貼られた紙には、大人小人問わず、一律の入園料が記されている。それも万単位。確かに簡単には入れない。
「こちらの絵が気になりますか?」
「……!」
突然話しかけられ、美羽はハッと振り返る。優しい笑顔の久野園長の姿があった。
「ある画家さんが、月狼を描かせてほしいと言われましてね。何年か前に描いていただいたのです」
まだ見ていないからわからない。しかし、芸術に魅せられた画家の心を動かす程の何かが、『月狼』という獣にはあるというのだろうか。
「月狼は、北欧の小さな島国トゥングル王国にのみ生息すると言われる、特別な獣です。この月狼が我が国に渡ってきた約100年前から、月光園では月狼を保護、育成、研究しています」
壁に描かれた大きな絵を前に、久野が丁寧に説明してくれる。
「月狼の体は銀色の体毛に覆われ、月の光を帯びるととても美しく輝きます。そして特徴的なのが、深い青の瞳です。この瞳は、敵を前にすると赤い警戒色になると言われています。赤い瞳になった月狼は、誰にも止められません」
「青い瞳でいる時は止められるのですか?」
そこで那月が尋ねる。
「あくまで当園では、ですが。青い瞳でいる月狼は、機嫌がよければ飼育員の指示に従ってくれます。ですが、以前一般公開の日に、お客様が幼獣を抱き上げられました。これだけでも、群れで幼獣を守る月狼たちの敵意を誘発します」
「どう、なったのですか?」
「大丈夫です。この時は、青い瞳でいる時に飼育員が人間を傷つけてはいけないと言い聞かせていたため、大事には至らずに済みました」
事前に言い聞かせるだけでいいなら、簡単ではないか。美羽はそう思った。
「ひどい方もいるのですね」
「サービス業であれば切り離せない問題です。月狼は基本的に群れで行動し、何百頭といる群れを率いるのはたった一頭、長と呼ばれる月狼です。月光園の群れの長は、マリーという雌です」
「雌が長なんですか?」
「はい」
兄の驚く点に、美羽は静かに眉を寄せる。女性が先頭に立つことが、そんなに驚くのか。
もちろん兄にそんな気はないとわかっていても、やっぱり気になってしまう。
「それでは、こちらに」
建物内の奥へと進む。
「こちらがゲートです。このゲートの先は、月狼たちの世界となります。本日はゲートが開けられませんので、興味がおありでしたら、ぜひ一般公開の日にいらしてください」
いくら多額の寄付者であっても、月狼たちの生活を一番に考える。これが、月光園という奇妙な施設の責任者なのか。
ゲートの前まで着てようやく、その中が見えた。ゲートといっても、大人の腰ほどまでしかない鉄の塊だ。
「……!」
その美しさに、美羽は目を見開いていた。
広々とした室内には、たくさんの月狼たちがそれぞれの時間を過ごしている。飼育員と遊ぶ幼獣から、のんびり日向ぼっこをしている成獣まで。銀色の体毛が、陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「これは……。月狼は初めて見ましたが、綺麗ですね」
素直な感想を伝える兄の言葉が、どこか遠くに響く。
「大きな狼のように見えるのが成獣で、小さい子たちは幼獣です。幼獣は年齢によって体格に大きな差があり、産まれたばかりの子はモルモットのように小さく、床を這うように移動します。この頃は母親の下から出てこないので、園の飼育員でもほとんど見られません。親から離れて遊んでいるのは1歳を過ぎて子犬くらいの大きさになった子たちですね」
飼育員や仲間たちとじゃれるように遊んでいる、子犬のような月狼の幼獣たち。楽しそうだと思った。
「あの奥にいるのが長のマリーで、その隣がつがいのリュウです」
室内の片隅でありながら、ひときわ目を引く存在感。威厳あるその佇まいは、他の月狼たちとは一線を画す。
「この広場の奥に屋外広場があります。また、隣には月狼たちの温泉施設も」
「温泉まであるんですか?」
「月狼には綺麗好きな子もいて、一日に何度も水浴びをしますからね。月狼たちの温泉や、事務所の隣の売店は、ご寄付により増設した施設です」
たった数時間。この数時間で、美羽は月狼に心を奪われてしまった。
その日、他にもいくつかの施設を見て回ったが、美羽の心は月光園に置き去りだった。
気になる。あの美しい獣たちの生活が。彼らが見せる世界が。
もう一度、もう一度だけでいい。もう一度だけ、見てみたい。あの圧巻としか言えない美しい光景を。
帰宅してすぐ、美羽は自室に入った。スマートフォンで月光園を検索すると、HPが出てくる。
一般公開は月に二度といっていたが、定期的に開催されているわけではないらしい。
あらかじめ決まっているというわけでもなく、多くはその日突然告知されるという。
月狼の気分や機嫌に合わせているため、となっていた。
情報が発信されるSNSアカウントをフォローし、美羽はスマートフォンを手放してベッドに倒れこんだ。
瞼の裏に焼き付いた、あの光景。高潔とも言える姿。
見てみたい。もう一度。もっと近くで。
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