第2話
アランが目覚めると、視界には見知らぬ天井が映り込んでいた。どうして自分がここに寝ているのか一瞬分からなかった。しかし、記憶は徐々に蘇る。
信じられない。いや、信じたくなかった。自分が五年間も眠っていたこと、魔王国が既に戦争に敗れていたことを。
体を起こそうとするが、長期間眠っていたためか、思うように動かない。しかたなく、筋肉に少しずつ魔力を流しら活性化させる。昨日のように大量に流して、体に負担をかけるような真似はしない。
「っふー、っふー」
手をだらりとベッドの脇に置き、呼吸を整える。水が川を流れるように、風が大地を撫でるように意識しながら体の節々にまで魔力を巡らせた。
そして「っふ!」と意気込んで状態を起こす。上手くいったため、次は足をベッドの上から動かし床につける。
ベッドに預けていた上半身の重みを、足に担わせた。
成功だ。まさかこんな衰えた筋肉を、ここまで使うこができるとは思わなかった。一歩踏み出す。二歩踏みだす。三歩目を踏み出そうとして、無言で目の前に立つエマの存在に気がついた。恐ろしい速度で後退し、再びベッドへ寝転んだ。
「やあ、エマ。素晴らしい朝だね」
口の筋肉を、魔力を使って無理やり動かし、流暢に話す。顔の筋肉を総動員して笑顔をつくるが、既に遅かった。
「無理しないで」
エマの肩が僅かに震えている。
「大丈夫だ。ほら」
アランは足に魔力を集中させ、飛び上がる。そして華麗にベッドに着地・・・できなかった。受け身が取れずに、ミノムシのように体をくねくねさせ、悶絶する。
「っふ」
横でエマの笑い声が聞こえた。想定とは違ったが、これはこれで良いだろう。アランは改めてベッドの上に座り直しエマと向き合った。
「心配をかけた、すまない」
アランが頭を下げると、エマはゆっくりと微笑んだ。
「生きてくれていただけで、嬉しい」
その言葉を聞いたアランは、それだけで救われたような気持ちになった。
「調子はどう?」
エマの質問にアランは正直に返答する。
「筋力は衰えているみたいだが、それ以外には問題ないと思う」
五年間も寝ていれば、床ずれや不自然な体の歪みが起こりそうである。しかし、エマの献身的な介護があったからだろう。筋力以外で、不都合なところはなかった。
「それはよかった。じゃあ、これを着て」
エマは自らの影から人の形をしたカゲを分離させる。そのカゲがアランの体を覆った。不思議なもので真黒なカゲはアランにくっつくと、肌や服の色と同化した。
「これで楽に動けるはず」
エマの能力の一つである影鎧。普段はエマ自身がまとい筋力の増加や防御にあてている。
アランはベッドから降り一歩、また一歩と足を動かしたり
「おお、すごいなこれは」
スムーズに動く体に、心が躍る。
「普段からそれを着て生活をして。強度はこちらで調整する。そのうち補助なしでも、動けるようになるから」
こうしてアランの新たな生活が始まったのだった。
アランの朝は早い。日の出とともに目覚め、家の周囲を走る。住んでいる場所は魔王国の外れにある大きな樹海の中。エマがここを隠れ家に選んだ理由は、一番見つかりにくいからだそうだ。
樹海の中を走る。走る。
熱い、熱い、熱い。
顔からは汗が滴り落ち、しだいに前へ足を動かすことができなくなった。
「はー、きつい」
こんなに走ったのは久しぶりだった。だが、運動によって流す汗は気持ちがいい。気持ちいいのだが・・・、そんなアランに一つ問題が発生していた。
「ここはどこだ?」
周囲には同じような木々が生えており、帰る方向がわからない。
よく見れば種類の異なる木ではあるが、その区別がつかなかった。足跡を辿って戻ろうとすると、追えるような痕跡は残っていなない。
「さて、どうするかな」
大きな石の上に寝そべって考える。遠くで聞こえる川のせせらぎが、鼻腔をくすぐる木々の香りが、心を癒す。
しかし、そんな安らぎをは長く続かなかった。
殺気を感じ首を横に傾ける。体長5mを超える魔獣がいた。全身を黒い毛で覆い、手には鋭い爪を持ったその獣は、おそらく熊が魔素により魔獣化したものだろう。
低い唸り声をあげ、口から涎を垂らしながらゆっくりとこちらへ向かってくる。アランは体を起こしてその光景をじっと観察していた。
今の体でどれだけ戦えるのかを確認するのに、ちょうど良い相手かもしれない。体内の魔力を循環させて、己の肉体を少しずつ強化していく。
アランの変化を感じとったのか、魔獣はビクリと全身を震わすが、近づくことはやめなかった。獣との距離が3mを切る。
最初に動いたのは魔獣であった。それまでの動きが嘘であるかのような速度でこちらへ踏み込んでくる。鉤爪がアランを引き裂こうとしたり
アランは上体をそらし、その一撃を避けた。足で踏み込んできた魔獣の顎を蹴り上げる。
「痛っ!」
ダメージを負ったのはアランだった。まるで鋼鉄を素足で蹴ったかのような衝撃が足を襲う。
魔獣と目が合うと、奴は笑っているような目をしていた。
「上等だ!」
後方へ一度下がり、体制を整える。魔獣がそんな後退を許すまいと距離を詰めてきた。再び振り下ろされる魔獣の右腕。今度は横へ飛んでその攻撃を交わすす。元々いた場所を見ると、そこにあった大木が綺麗に切り倒されていた。
あの爪による攻撃を喰らうのは面白くない。だが、武器もなく遠距離攻撃も使えない現状では、敵の懐に飛び込まなければならない。
魔獣の周囲を高速で移動する。魔獣はアランの位置に合わせて、体を動かし迎撃体制をとる。しかし、アランはどんどん速度をあげていった。早すぎて残像が生まれるほどである。魔獣の目がアランを捉えきれなくなったそのタイミングを見計らって、素早く上空に跳躍する。相手は完全に姿を見失ったようだ。そのまま自由落下に任せて、落ちていく。
「喰らえ!」
相手の頭部に踵落としをお見舞いした。
しかし、負傷したのはアランの足であった。アランの踵落としと魔獣の頭部の激突で軍配が上がったのは魔獣の方であった。おそらく魔力による防御が格別に優れているのだろう。
アランは素早く地面を転がりながら、足の状態を確認する。こちらも魔力を練り込んだ攻撃をしていたので、骨が折れることはなかった。それでも、足に痺れが生じている。
「まいったな」
もっと体が万全になってから外出すべきだったのかもしれない。まだ満足に回復していない体や、扱いきれない魔力では、少し強い魔獣にすら、敗北しそうである。
魔獣が今度は突進をしてくる。それを横にとんで回避するが、少し体を掠めてしまった。その少しがアランを吹き飛ばし、体を大木へと打ちつけた。
頭から生暖かい赤い液体が滴り落ちるのを感じる。その液体は顔を横断し口に入った。鉄の味がした。苦い苦い鉄の味が。
ゆらゆらと立ち上がり、目の前に立っている魔獣と向かい合う。拳を構えて殴り合う姿勢を見せる。
「来い!」
頭を打ってバカになったのだろうか。思考が上手くまとまらない。先日エマから聞いた情報が心をざわつかせる。このざわめきを収めるために、今日は朝から走ったのだ。
アランは、魔王国の顛末をエマより聞いた。
魔王国はアランの失踪により事実上敗北するが、それでも降伏しなかった。徹底抗戦して村が、街が、国が業火の炎に包まれた。そして多くが者が死に、生き残った者も、奴隷として人間の国で、虐げられているらしい。
アランだけの責任でないことは分かっている。侵略戦争を始めたのは人間であり、また敗北の原因も兄達にある。むしろ、自分はよく戦った方ではないか。
だが、心臓が誰かに強く握られているかのように痛い。今更どうしようもないのに。
やりきれない感情を拳にのせて目の前の魔獣を殴る。その一撃は相手の下っ腹に入り、魔獣は少し痛そうな表情をつくる。怒りの咆哮がアランの頭上から聞こえた。相手の右腕がアランを襲う。左手に魔力を集め防御姿勢をとるが、それでは防ぎきれなかった衝撃が体を吹き飛ばそうとした。
「ぁがあああ!」
なんとか気合いでその場に留まり、アランは再び拳で殴る。敵もまた一撃を繰り出してくる。
「くそがぁあああ!!!」
殴り。殴られ。殴り。殴られた。自分の体が真っ赤に染まっていくように感じる。自分の血であるのか相手の血であるのかはわからない。痛みなど感じない。ただひたすらに殴り続けた。
どれほど時間が経過しただろうか。魔獣はいつのまにか大地に倒れ息絶えていた。
「はっはっはっ」
粗い息を整えながら、感情を落ち着かれる。こんなにま心が荒れたことは久しぶりだ。
だが、少しは気持ちの整理ができた。それはよかったのかも知れない。
全身が火照るように熱く、重い。アランは瀕死の体を引きずりながらな森の中を歩いた。視界がぼやけ、歩きにくい。どこへ向かえばよいのか分からなかったが、幸いにも迎えがきてくれた
「アラン!」
驚きと心配の入り混じった顔をしたエマが、アランを見つけ駆け寄ってくる。
「ちょっと精神統一をやっていた」
軽い口調のアランに、エマはため息をつくも、それ以上は追求してこなかった。
「一人で歩ける?」
「肩を貸してもらってもいいか?」
アランはエマに体に手を回し、寄りかかる。エマは小柄で細身ながらも、アランの重さを難なく受け取った。
二人は森の中をゆっくりと歩いた。
「エマ、俺さ・・・」
「・・・」
エマは何も発せず、ただアランが言葉をつぐむまで待っている。
「俺さ、人間の国へ行こうと思う。やりたいことがあるんだ」
「・・・」
「今の自分に何ができるなか分からない。ただ、何ができるかを知るために人間の住んでいる場所へ行きたいんだ」
「貴方が責任を感じる必要はない」
やっと口を開いたエマが優しく告げるが、アランは黙って首を振った。
「流石に魔王だから責任は感じてるよ。本当なら王として殺されておくべきだったのかも知れない。だけれでも・・・」
アランはそこで言葉を止めてエマを見る。彼女は次の言葉をただじっと待っているようだった。
「だけれども、生き残ってしまったのなら、生き残った意味があると思っている。だからこそ、見つけたいんだ、その意味を。」
「分かった」
エマの声に抑揚はなく、何を思っているのか正確に推し量ることはできない。それでもアランの決めたことを応援しているような気がした。
二人はその後、黙って帰路につくのであった。
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