第6話 糸
目がトロンとして参りましたが、いささか飲み過ぎましたか。大丈夫ですかな?
眠気覚ましに変わった話を聞かせろ? うう~ん……では、軽く昔話でも。
私めは、うんと小さい頃は海の側で暮らしていたのですが。
父親の仕事の都合で、間もなく森で暮らすようになりました。
来たばかりの頃は、家の周辺の何もかもが珍しくて。芳しい花や驚くほど柔らかな草に、大きな甲虫。四方に枝を広げた大木のうろに住む小動物。
日が暮れるまで飽きずに探検しておりました。
ある日ですね。落とし穴に落ちたのです。
地元の猟師が獣を獲るために掘り、穴の存在を忘れてしまったのでしょうか。それとも自然のイタズラか。
柔らかい地面の底が私めを受け止めて、怪我はありませんでしたけども。
バンザイをした両腕に明るい外の淵は遠くて、幼い私めが自力で這い上がるには。深過ぎました。
爪を立てると、黒い土の壁がボロボロ崩れ。無理に上ろうとすれば、雪崩打つ土砂で埋められてしまいかねません。
叫んでみましたが、あざ笑う様に賑々しい鳥の返事しか聞こえず。近くに誰もいないのは明白。
遠くに行かないように、との親の言い付けを守らなかった自分を悔いました。
それでも。夜になって私めが帰宅しなければ、探しに来てくれるはず。
無駄に体力を消費すれば危険なのが、本能的に分かっていたのですかねえーー膝を抱えて丸くなり、じっと夕暮を待ちました。
お尻はヒンヤリして、視界に入る生き物も、湿った土から顔を出す蟻やミミズくらい。私めの生涯で数えるほどの、心細い時間。
我慢を重ねた末に、ようやっと太陽が傾いてきたらしく。黄色っぽい明かりが、穴の淵に近い一角を染めました。
銀色に光る細いモノが光に揺らめいています。
きらきらしている。何だろう? 腰を上げて、手を伸ばしました。
細い細い白銀の糸。見た感じは蜘蛛の糸です。私めの側まで緩やかに降りてきます。
蜘蛛の糸というのは、獲物である昆虫を素早く捕らえるために、通常はネバネバしています。
しかし、私めが触れた糸はサラサラと指を滑り、全く粘ついていなくて。絹で出来た極上の刺繍糸のようでした。
見上げても見下ろしても糸の持ち主など見えません。
ふっと見渡せば。
私めを幾本もの銀の糸が取り囲んでおりました。いつの間に。
触れると、やはりサラサラと指先を滑らかに翻弄します。不可思議な糸を一本、また一本と寄り合わせてみますと……太さが麻糸ほどになりました。
何だか、よじ登れそうだ。
その意思に反応したのか、糸の固さが増したように思われました。ぐっと引いても、蜘蛛糸は千切れません。
右手を上げ左手を叱咤しーー糸をつかんで、苦労の末に落とし穴より這い出ました。
草いきれの包む地上に戻れた安堵のあまり、私めが倒れこんでいる間に、指から離れた糸はどこへやら。行方知れずです。
一部始終を母親に喋りましたが、軽くあしらわれて。服を泥まみれにしたことを叱られました。
話は、まだ終わりではありませんぞ。
森に潜む危険に懲りまして。家の側に建てられた父親の仕事場辺りを、チョロチョロするようにしたのですが。
父は宝石や時計やらの細工物をして、私めたち家族を養っていました。この頃は主に、家具の彫刻を請け負っていたようです。
最初は邪魔者扱いしていた父も、暇を見つけて簡単なオモチャを作ってくれたり、また作り方を教えてくれるようになりました。
私めが色々と仕掛けのある物を好きなのは、父親の影響かもしれませんな。
この頃に興味を引かれたのが、ピンホールカメラ。
レンズを必要としない、原始的なカメラです。作り方も至極簡単で、黒く塗った箱に針穴をぽつんと一つ、穿つだけ。
箱の中に専用の用紙を入れまして。穴を通した風景が、三十分ほどかけて用紙に焼きつきます。時間が長ければ、それだけ綺麗に写るようです。
用紙と現像液はしつこく父にねだらないと手に入りませんでしたが、一時は夢中になりました。オモチャの延長といった単純なカメラですが、なかなか奥深い。
写す間は退屈なのですがねえ。決して動かないようカメラを固定して、三十~四十分じっと待つものですから。
まあでも、カメラの試作を繰り返して、あちこち撮影して悦に入っておりましたな。
写真のうち何枚かに。変わったモノが写り込んでいました。
糸です。きらきら輝いて光を放つ白い糸。画面を斜めに、あるいは真っ直ぐに横切って伸びる、蜘蛛の糸。
……落とし穴での出来事が、脳裏を過ぎりました。
カメラの性能の差か日当たりの加減か。最初はそうとも考えていたのですが。
糸の写る写真が増えてきたので、気持ち悪くなりましてねえ。カメラの周りに糸らしき物体など無いのですよ。
興味も徐々に薄れて、ピンホールカメラ本体や写した写真も、何年か後には綺麗サッパリ処分してしまいました。
私めの名前はシュメッターリング。『蝶』の意味を持つ名前ですな。
蜘蛛の糸と蝶の組み合わせ。何だか面白いですね?
何者かが私めを狙い、糸で絡めて捕まえようとしているのか? うふふ。
『シュメッターリング』は使用人として貴族社会に身を置くようになり、頂戴した名前ですが。それ抜きでも面白い。
ーー私事まで、ちょっとお喋りをし過ぎました。いつの間に、こんな本数のワインを空けたのでしょう。
さあさあ。次はあなた様の番。
あなた様の口が世にも珍しい話を語るまで、今宵は帰しませんぞ?
【了】
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