第5話 森での生活がスタート!


エディはいつも同じ夢をみます。

今にも落ちてきそうな星空の下、丘の上に立つ木にもたれ、エディは誰かを待っています。

しばらくすると、遠くからひとりの少女がやって来ました。


「ここだよー!」


エディが手を振ると、遠くにいる少女が手を振り返します。エディは、少女が来るのをずっと待っています。


しかし丘を登り近くまでくると、少女の顔は突然どろどろと溶けだし、体まで蝋燭のように溶けて消えてしまったのです。

エディは怯えて、差し出した手を引っ込めます。


夢は必ずここで終わります。

10年間ものあいだ、ずっとです。






今日はここまでと絵本はパタンと閉じられ、エディは目を覚ましました。


体を起こすと、頭をグルングルンと回します。流石に草のベッドは硬かったようで、腕を伸ばすと、背中と肩からパキパキと音が鳴りました。


エディの左側には、くの字に体を曲げたダルシーが、クークーと寝息を立てながら眠っていました。あまりにも無防備な姿で、幸せそうに眠っています。狼を知らない子猫のようです。

エディは羽織っていたジャケットを脱ぎ、ダルシーにかけてあげました。


膝を抱えたエディは、大好きな絵本の物語を話し始めました。ダルシーが起きないように小さな声で。子供の頃、両親の帰りを待ちながら読んだ、大好きな絵本です。100回以上読んだおかげで、内容は頭に入っています。読み終わる頃には、ちょうど10分が経つのです。



森からは太陽が見えないので、今が何時なのかは分かりません。

絵本を読み終わると、エディはサッと立ち上がり、パンツについた草を払いました。そしてジャケットを取って肩にかけると、ダルシーの前にしゃがみ込み、丸いおでこにデコピンをしました。


指がおでこに当たると、肩が飛び跳ね、ダルシーの目がパカリッと開きました。

それから寝たままの状態で少し考えて、バッと起き上がったダルシーは、周りを確認すると、深く息を吐き肩を落としました。



『はぁぁぁ〜。私寝ちゃったのね‥‥』


「行きますよ。お寝坊さん」


『起こす約束だったのに‥‥今何時かしら』


「さぁ。メルヴィンがお昼ご飯を待ってるかもしれない。早く帰らなくちゃ」


『あなたが作るの?』


「朝ごはんはメルヴィンで、昼ごはんは僕の担当」


『そういえば昨日から何も食べてないわ!私お腹空いちゃった!お肉たっぷりのシチューが食べたい!』


エディは、やれやれ困った娘だと、首を横に振っています。



帰りの道はとても簡単でした。木のトンネルをただ真っ直ぐ進むと、中央の泉に出ることができました。

あれ?さっきも似たような道を通った気がする‥‥とダルシーは思いました。エディが言っていた通り、森の道はとても複雑にできているようで、一度通ったくらいでは覚えることはできません。



家に到着すると、エディは脱いだジャケットをハンガーにかけ、洋服ブラシでついた汚れを取ります。小さな埃も糸屑も、一粒の土だって見逃しません。丁寧にとかれたジャケットは新品さながらにシャンと背筋を伸ばします。

さらにエディは、仕上げに何かを吹きかけました。香水のような何かです。生まれ変わったジャケットは、玄関横のクローゼットに片付けられました。


次に台所に向かったエディは、ササっと手を洗うとポケットからゴムを取り出し咥え、前髪をかきあげ、長い髪を大雑把に結びます。

そして「シチューがいいの?」と、冷蔵庫の中を確認しました。


『え!?牛肉のシチュー?!?』


玄関で土を払いながらダルシーが訊ねます。


「まさか。でも幸い腐りかけの鶏肉がある。こいつはじっくり煮込んで菌を殺したほうがいい」


『うげぇぇ腐りかけって。それに牛肉がよかったわ』


「文句を言うなんていいご身分だね。君はまだ、この家の主人に許可を得てないことをお忘れのようだ」


『メルヴィンさんのこと?あの人ならきっといいって言ってくれるわよ!私の勘がそう言ってる』


「どうだか」



冷蔵庫から鶏肉と人参、籠から玉ねぎとじゃがいもを取り出すと、エディは慣れた手つきでそれらを切っていきます。

ダルシーはエディの近くに立ってその様子を眺めていました。


『うわぁ!このジャガイモ、つるつるしてて綺麗ね!』


鼻に近づけクンクンと匂いを嗅ぎます。


「オレガノを取ってくれるかい。上の棚に入ってる」


ダルシーは三本脚の椅子を持ってきて上に立つと、棚の扉を開きました。


『うわぁ!』


キッチンの上棚には、スパイス瓶がきれいに整列していました。赤、黄、緑、そして小さな黒い粒。小瓶はざっと数えても30個は超えるでしょう。乾燥した葉っぱの詰まった瓶もありました。この茶色の粉はココアパウダーかしら、と匂いを嗅いでみると、木屑のような匂いが鼻を刺激しました。これはナツメグです。

ツンとするスパイシーな匂い、落ち着くハーブの匂い、海の匂い。どれもこれも初めてでした。

匂いを嗅いで遊んでいるダルシーに、エディが横から声をかけます。



「ちょっと、早くしてくれるかい」


『あらすっかり忘れてた!オレガノってどんなの?』


両手に小瓶を抱えながら、ダルシーが訊ねました。


「緑色の小さい葉っぱが詰まってるやつ」



ダルシーは持っていた小瓶を戻すと、ひとつを手に取り、エディに渡します。

エディは切った鶏肉と野菜を鍋に入れ、しんなりするまで炒めると、トマト缶を流し込みました。そこにオレガノとお水、お砂糖少々。そして一煮立ちしてから牛乳とチーズを加え、蓋をします。



「これで10分も煮込めば十分だ。噴き出しそうになったら火を弱めておくれ」



エディは束ねた髪を解き、ガシガシと乱暴に頭を掻きながら自分の部屋へ入っていきました。


ダルシーはまだ、スパイスに心を奪われていました。赤い小さな粒の入った小瓶と、鮮やか黄色のスパイスを見つけました。その他にもいくつかの気になる小瓶を手に取り、椅子からそっと降りました。


そして部屋からエディが出てこないのを確認すると、鍋の蓋を開けます。もくもくと白い湯気、酸味の混ざったシチューの香りがキッチン中に広がりました。

ダルシーはもう一度エディの不在を確認すると、スパイスたちを手際よく鍋の中へ入れていきます。急いで入れたので、もちろん分量など計っていません。

お玉でかき混ぜると、スパイス特有のいい香りがしてきて、ダルシーは満足そうに蓋をしました。




10分後、メルヴィンが記憶屋から戻ってきました。お昼休憩の時間です。かぶっていた帽子をとると、机の上にポンッと投げ置きました。



『おかえりなさい!』


メルヴィンはキッキンに立つダルシーに気づいていなかったようで、『うわぁ!』と声を上げると後退りし、壁に背中をぶつけました。



『き、き、君は、帰ったんじゃないのかね‥‥』


『私、実は‥‥』



ジャスミンの香りを纏いながら部屋から出てきたエディは、驚くメルヴィンを見て、しょうがないでしょと肩をすくめます。



『エディ、分かっているだろう‥‥我々は』


「森の主の許可は得たよ」


『なんじゃって!?!あの、クスの主がか!』


メルヴィンは頭を抱え『信じられない、クスの主、どうしてしまったんだ』とお経のように繰り返し呟いています。


そんなメルヴィンに向かって、ダルシーは勢いよく頭を下げます。



『お願いしますメルヴィンさん!少しの間ここにいさせてください!もちろんタダでとは言いません!掃除、洗濯、馬を手なづけるのでも、なんでも言ってください!なんでもします!!』



顔を上げると、困った顔のメルヴィンに近づき、続けました。



『そうだ!記憶屋のお手伝いでもいいです!資料をまとめたり、実験の結果を記録したり、私そういうのしてみたかったの!』


『分かった分かった!分かったから少し下がってくれ』と、メルヴィンは両手を前に出しました。


エディとメルヴィンは、目で何か会話をしています。その会話は何往復かして、エディが最後、視線を斜め下に落とし口を窄めると、メルヴィンはやれやれとひどく肩を落としました。


承諾したというよりも、諦めたというのが正しい表現でしょう。しかしそうする他ありません。

いくら人間とは暮らせないと言っても、少女をひとりぼっちで森に帰らせるほど、メルヴィンの心は冷酷ではありませんでした。しかし、ひとつだけ条件を提示しました。



『‥‥分かった。しかし、もし君がここで暮らしたことによって森に異変が起きたら、すぐに森から出て行ってもらう。ワシが知る限りでは、ここ100年は人間がこの森に足を踏み入れたことはない。何が起こるか、ワシらにも分からんのだ』


「でも、もう2日もここにいる。今のところ森に異変はなかったよ」



キッチンに向かいながらエディが言いました。



『まぁ、ならば少し様子をみよう』


メルヴィンは白髪頭を掻きながら、山積みになった本の近くに座りました。



『メルヴィンさん、エディありがとう!!』



ダルシーはうきうきしながら、早速テーブルを拭き、昼食の用意を手伝います。

エディは鍋の蓋を開け、シチューをかき混ぜました。鍋から溢れた湯気がリビングにまでやってきました。


「あれ?おかしいな」


エディは鍋をかき混ぜながら何かの異変を感じましたが、そのまま木の容器に移すと、メルヴィンの前にひとつ、その隣にひとつ、向かい側の真ん中にひとつ、器を置きました。



『ねぇスプーンはどこ?』


「緑の棚の引き出し」



やっとできた自分の居場所に、ダルシーは胸を躍らせました。

棚の端っこで丸まっているランチョンマットを見つけると、3枚取り出し、ピンッと手で伸ばして、その上に器とスプーンをのせます。



『おお、トマトのシチューか、美味しそうだ』


『私も手伝ったんです!』


「隣で遊んでただけでしょ?」



エディはメルヴィンの隣に腰掛け、ダルシーは向かいに座ります。



『それでは、ご一緒に』


「『『いただきます』』」


ダルシーはスプーンいっぱいにシチューを掬い上げ、大きな口で頬張ると、『んん〜美味しい!』と頬を緩ませました。



エディとメルヴィンはというと、スプーンを口に入れたまま動かなくなってしまいました。

ふたりの顔はみるみると青ざめ、スプーンを握る手は小刻みに震えています。

顔をくしゃくしゃに縮めたメルヴィンは、なんとかそれを飲み込むと、大量の水を口へ運びます。

エディは耐えられず、口を抑えたままキッチンへ走って行ってしまいました。



「おえぇぇぇ。なんだこれは!舌が痺れて感覚がない‥‥。今ので麻痺してしまったようだ。目眩と吐き気までやってきたぞ‥‥どうか夢なら覚めてくれ」


キッチンで何やらゼーハーゼーハーしています。

メルヴィンはあまりの衝撃に、故障した車のように動かなくなってしまいました。鍵をさして回せば、キュルキュルと音がするでしょう。



『やだふたりとも大袈裟ねぇ。味見したら刺激がなかったからスパイスを少し加えたの。いい感じでしょ?』



シチューにパンを沈め、ふふんとご機嫌なダルシーに、ふたりの視線が集まります。

そんなことは気にも止めず大きな口を開けると、ひたひたのパンをパクリと頬張りました。






ダルシーは好奇心と探究心を兼ね備えていましたが、器用な方ではありませんでした。

森で暮らし初めて数日たったある日のことです。


ぐっすりと眠ったエディの鼻を、焦げ臭い空気が横切りました。エディは飛び起き、窓の外を見ます。山火事かと思ったからです。

しかし、森から煙が上がっている様子はありません。どうやらその匂いは、キッチンからやってきているようです。


まだ眠たい目を擦りながら部屋を出ると、なんと、コンロの上の鍋から煙が上がっているではありませんか!

エディは駆け寄り火を止めます。鍋の底には真っ黒になった何かがこびりつき、異臭を放っていました。

そこへ、ダルシーが髪をとかしながらやって来ました。



『あら、おはよう』


「おはようじゃないよ君、この家を灰にする気かい?焦げついて煙が上がっているじゃないか!」


『あら!そんな早くに温まるのね!あなたに寝起きのホットミルクを淹れようと思って‥‥。ちょっと顔を洗いに、目を離しただけなんだけど‥‥』


か弱い声を出しながらそう言ったダルシーは、シュンとした顔でエディの方をチラッと見ました。こんな顔をされるとエディは何も言えません。


 


ダルシーの仰天行動は、これだけでは終わりませんでした。

ダルシーがキッチンに立つと、必ず小火が起きます。それを消すのはいつもエディです。

朝食に出てきたのは、白い皿にのった煉瓦色の何かでした。

横にはぷりぷりとしたプチトマトと、新鮮で色鮮やかな葉野菜が添えられていますが、それよりも異彩を放っている煉瓦色の物体について突っ込まざるを得ませんでした。



「君、これは一体なんだね」


フォークにささった煉瓦色の物体について、エディが訊ねます。



『目玉焼きよ!』


「初めて見る色と形の目玉焼きだ。僕が知る限り、目玉焼きは、卵を割って焼くだけなのに。こんな形になることはあるのかな。もはやアート作品だよ」




まだまだ続きます。キッチンにひとりで立たないで!と言われてしまったダルシーは、洗濯物に勤しみました。

てんこ盛りになったシーツやバスタオルを洗濯機にかけ、外に干そうとしたその時でした。

広げたバスタオルの中から、ゴロンゴロンと何かが落ちました。

それは壺でした。それも見事に真っぷたつになった壺です。

ん?どうして壺?しかも割れてる?と、ダルシーにもその理由は分からないのです。

それは、メルヴィンが隣の国から取り寄せた、アンティークの壺でした。

森の見回りから帰ってきたエディは、ダルシーの異変に気がつき近づきました。


「バスタオルも、まさかこんなところで壺に会うとは思わなかっただろうね」





そして、"その日"は、音を立てずに静かにやってきました。

オオルリたちが煙突の上で戯れる、とても穏やかな朝です。

エディは朝早く森の見回りに行きました。メルヴィンもすぐに仕事場に行き、記憶の調合を始めました。


もうじっとしてて!と言われたダルシーは、それでも何か手伝いができればと、雑巾でゆっくりと鏡を拭いたり、床を拭いたりしていました。


拭き掃除を終えたダルシーは、テーブルの上にビーカーがふたつ置いてあるのを見つけました。メルヴィンが実験に使ったあと、置きっ放しにしたままのビーカーです。中にはまだ液体が残っていました。


片方はピンク色、片方は水色で、持ち上げ傾けると、少しトロッとした感じの液体でした。

灯りに近づけると、液体はラメを含んでいるようで、キラキラと輝きました。

ダルシーは、混ぜて紫色にしたらもっと綺麗な色になるわ!と考えました。

ダルシーの好きな色が紫色なのと、昔どこかで見た、星降る夜空の色が紫色だったからです。



ワクワクしながら、ピンク色の入ったビーカーに、水色を流し込みました。トロンとした水色は、初めは分離し二層になっていましたが、ゆっくりと、ピンク色に溶けていきました。

二層の真ん中は薄い紫になりました。本当に、星空のような美しさです。



『きれい‥‥』



うっとり眺めていたダルシーでしたが、混ざった液体は突然、煮込まれたスープのようにボコボコと泡を沸き立て始めました。

ダルシーは怖くなり、ビーカーをテーブルの上に置きました。

ボコボコはどんどん大きくなり、濃い煙をもくもくと出し続けました。

あっという間に部屋の中は真っ白になりました。

ビーカーはひとりでに左右に揺れ、ピキピキと苦しそうな音を立てています。今にも破裂しそうです。

そして次の瞬間。


どっっかーーーーーん!!!と、大きな何かが墜落したような、物凄い音が森中に響き渡りました。



「なに?!!!?!!」


『どうしたんじゃ!!!』



ちょうど帰ってきたエディと、爆発音に駆けつけたメルヴィンが家に入ってきました。


テーブルの真上、屋根の一部は吹っ飛び、穴の下には顔中煤だらけになったダルシーが立っていたのでした。







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