第4話 懐かしい庭
胸の中に灯った小さな火は少しずつ弱まり、ダルシーはエディの後を追いかけました。
実に不思議です。歩く振動で揺れるさらさらの黒い髪、ツンと高い鼻が特徴の横顔、ジャケットを羽織った後ろ姿。見ればやきもちを焼いていた、葉に触れるその姿まで、先ほどとは違って見えるのです。
今ふたりの間に居座っている沈黙には、なぜか嫌な気はしません。もう少し、この甘ったるい静けさのままでもいいとすら思うのです。こんな風に感じるのはなぜなのか、ダルシーには分かりませんでした。
「今から会うのは森の主」
沈黙を断ち切ったのはエディでした。
『人間?それとも動物?』
相変わらず、ダルシーの質問には答えてくれません。
枝垂れて道を塞ぐ木々は、エディにぶつからないようにスルスルと枝を引っ込め、道をあけます。
あなたの方がよっぽど主っぽいけど、とダルシーは心の中で思いました。
森の主のいる所までは、少し険しい道のりでした。
草の茂る傾斜を登っていきます。地面はぼこぼことラクダの背のように盛り上がり、あちらこちらに岩も転がっています。それほどきつい傾斜ではありませんが、道らしい道はありません。それだけでも大変なのに、森中に満ちた霧のせいで足元の草は滑りやすくなっていました。
エディは、踵のすり減った馬皮の革靴で器用に登っていきます。踵を擦って歩くので、棚に並ぶ革靴全てがそうなっています。ダルシーは借りたバレエシューズで、なんとか転ぶことなくその後をついていきました。
どんどん先を行くエディに『待って』と声をかけようとしたその時でした。
『きゃっ!!!』
木の根元に足を引っ掛け、前に転びました。すぐに立ち上がったダルシーでしたが、パンツは破れ、膝からは少量の血が出ていました。
3メートルほど先を歩いていたエディは、引き返してきてその場にしゃがむと、破れた穴からダルシーの膝を覗きました。猫に引っ掻かれたような擦り傷ができています。
『ごめんなさい。あなたの服、汚しちゃった‥‥』
「少し沁みるよ」
エディは人差し指と中指を傷口に当てると、目を瞑り、ボソボソと何かを囁きました。魔法を唱えているのです。ピリリと電気が走るような感覚がダルシーの膝元に訪れました。指先から雫を垂らす魔法で、傷口の土を洗い落としてくれたのです。
「消毒、といってもただの水だけど」
『あなたって、優しいのか意地悪なのか分からないわ』
エディはいつだって、ダルシーの問いにちゃんと答えません。表情を変えずにスッと立ち上がると、歪な道を歩いて行きます。「あと少しだよ」と、あっという間に3メートル前まで行ってしまいました。
歩きながらダルシーは、ありがとうを先に言わなかった事を後悔しました。昔から素直になれず、嫌味っぽく言ってしまうのは悪い癖です。
本当に少し歩いたところで、エディは立ち止まりダルシーの到着を待っていました。
こちらを向くエディの背後には、太い幹をもつ大きな木が立っています。巨大ダコに似た根元でしたが、質感は岩のようにゴツゴツしていました。その足の一本にエディは立っていました。少しして、ダルシーも到着しました。
『うわ〜‥‥すごく大きな木ね‥‥』
木全体には羊歯と苔がびっしりと敷き詰められています。幹の中には、人ひとりが十分眠れるほどの大きさの穴がありました。
所々出っ張った樹皮は、目と鼻そっくりの形をしていて、木が眠っているように見えました。
「遅くなりました。クスの主」
木は微動だにしません。エディは、あれ?と覗き込むと、もう一度名前を呼びました。
「クスのぬ」
その時です。
『うわあぁぁあぁぁあぁあぁぁぁ』
耳を劈く鳴声に、ダルシーは思わず両耳を塞ぎます。
森中の空気がぶるぶると振動し、周りの草木は大きく揺れ、漂っていた霧たちは潮が引くように去っていきました。
エディはというと、またか、と少し呆れた表情でため息をついています。
「今日はどうしましたか?」
木は目覚めのストレッチをするみたいに、頭をグルングルンと回しました。
そしてめきめきと音を立て、樹皮がボロボロと崩れ落ちると、水の中から顔を出すように、人間の顔が現れたのです。
『あ‥‥エディか‥‥怖い夢を見たんだ、この森がなくなる夢だよ。もしかしたら火の悪魔がやってくる日が近いのかもしれない。‥‥エディ、そんな顔して、また私の被害妄想だと思っているんだな!私は予知夢をよくみるんだ。何事も最悪の状況を予測して備えておくことは大切だ!備えすぎて悪いということはないだろう』
クスの主はとても真剣です。心配症な性格で、一度こうなると最後まで話を聞くほかはありません。エディはそれを知っているので、時折相槌を打ちながら主の話を聞き続けました。
泣いたり叫んだり、かと思うと、ひとりでボソボソと呟いたり大忙しです。これはいつ終わるのかしらと、ダルシーもため息をつきながら待ちます。
大きな枝を振り回しながら言いたい事を全部言った主は、『それで、今日は何の用だい』と突然正気を取り戻しました。
「ご挨拶にお伺いしました。新しく入った森の住人です」
『新しい住人だと‥‥』
閉じた目をぱかっと開くと、大きな黄色の瞳がぎょろりと現れ、ぎょろぎょろと一周すると、エディの後ろにいるダルシーを捕らえました。
『そこの娘か‥‥』
カッと目をより大きく開き、ダルシーのことを凝視します。
『娘、お前はどこからきた』
先ほどの鳴声からは想像できないほど、低く落ち着いた声で訊ねます。
ダルシーはその迫力に押されそうになりましたが、ここで負けてはいけない、第一印象が重要よ!と気を引き締めます。そして大きく一歩を踏み出しました。
『そんなのこっちが聞きたいわ。朝起きたらこの人が横に眠ってた。それにね私、お前って呼ばれるの好きじゃないの。ダルシーっていう素敵な名前があるからよ。あなたがどれだけ偉い主なのか知らないけど、人に何かを訊ねるときは、まず自分から自己紹介するのが礼儀だと思うわ』
その後もダルシーは、入る隙間を与えないペラペラ口調で話し続けます。
お父さんが飼っていた馬に蹴られて前歯が2本折れたお話。元カレが誕生日にくれた花の花言葉が"遠くに行きたい"だったお話。その後元カレは刺激を求め、本当に旅立ってしまったお話。たわいもない小話を披露し満足すると、ダルシーはピタリと話を止めました。
目の前の主は、目をパチパチさせて分かりやすく驚いています。この森では主は絶対的な存在であり、こんな風にペラペラと人懐っこくおしゃべりしてきたのは、ダルシーが初めてだったのです。
『ワッハッハッハ!こりゃあ変わった娘だ!エディ、また面白いものを拾ったな』
そして、頭の先から足の先まで舐め回すように往復し凝視したあと『よかろう』と一言残し、目を瞑りました。
「ありがとうございます、クスの主。お心に感謝いたします」
エディは左胸に手を当て頭を下げました。
続けてダルシーもお礼を言いましたが、すぐにもとのクスノキに戻ってしまいましたので、返事はありませんでした。
「よし」
小さく呟いたエディは、でこぼこの道を帰っていきます。ダルシーは、またこの道を行くのかと嘆きたくなりましたが、元いたところまで戻る道はここしかありませんので、渋々ついて行きます。
しかし慣れというのは不思議なもので、帰りは行きよりもすんなりと、そして早く通ることができました。
エディは小川に沿って歩きました。後ろを歩くダラシーは立ち止まり、小川を覗き込みます。星型の葉が水面に浮かび、川底に転がる小さな石まで見えました。腕を後ろに回し、水を掬い上げたい気持ちを抑えます。
『こんなにきれいな小川は初めて見たわ!天の川見たいね!』
「‥‥この森は、僕たち魔法使いが守ってきたんだ。ずっと昔から」
エディはスッとダルシーに近づきました。
『そういえば、私にはもうすっかり慣れたの?』
「僕から近づく分には。突然目の前に現れないで。心臓に悪い」
すぐに一定の距離をあけられてしまいました。また離れてしまったと残念がるところですが、ダルシーは嬉しくて飛び跳ねそうな気持ちでした。初めて自分の問いかけに答えが返ってきたからです。遠い国に恋人がいて、送った手紙の返事が来た時、こんな気持ちになるのかしら、とダルシーは思いました。
ご機嫌のダルシーは、歩き出したエディの後ろをついて行きます。今までよりも少し近い距離で。
『うわぁ、なぁに、ここ』
石畳を歩いていくと、その道は木に囲まれた空き地に続いていました。丸い形の空き地で、木が隠すように周りを囲っています。
ダルシーはこの空き地に見覚えがありました。
一面に生えた黄緑色の柔らかい草は、カーペットの役割を果たしています。メカルドニアが、ダルシーの足をくすぐりました。
『わぁ、かわいい!』
花を摘んで持って帰ろうと手を伸ばしましたが、エディとの約束を思い出し、引っ込めました。
「ここは、僕の大好きな場所」
空を見上げるエディは、風を感じながらそう言いました。
『私に教えていいの?』
「ここまでの道はとても複雑だ。明晰な頭脳をもってしても、一度では覚えられないよ」
『私がどんぐりを落として道を辿っていたら?』
「感心する。謝罪するよ、君をみくびっていたことを。そして女の子という存在が少し怖くなる」
草の上に座ると、「んー、ここじゃないな」と首を傾げます。そして空き地の中をうろうろと歩き回ります。
「君はどこから来たの。そして何者なの。クスの主に認められるのは簡単なことじゃない。僕には、君が投げ飛ばされる未来が見えていた。主は、気に食わない者をあの長い枝でとっ捕まえて森の外へ放り投げてしまうんだ」
『あら、私に質問するなんてどういう風の吹き回しかしら。明日は台風になるかもしれないわね』
「変な冗談はやめてよ。君は、まんまと僕たちの家にまで侵入しようとしている。まさか主が言っていた悪魔ではあるまいな」
『私は、』
そこまで言うと言葉を止め、エディはそんなダルシーを横目で見つめました。
「雷に打たれてこの森の川に落ちた」
『‥‥私が??それで、あなたが私を助けてくれたの?』
エディは指先で草の状態を確かめると「ここがいい」とその場に横になりました。目を閉じて深呼吸をすれば、体は夢の中へ向かいスタートを切ります。
「君を森に帰すようにメルヴィンに言われたんだ。僕たちは人間とは暮らせない」
『でも私、実は‥‥帰る場所が分からないの。歯抜けのパズルみたいに記憶がなくて‥‥。あなたが言っていることが本当なら、雷に打たれた時に記憶がなくなったのかもしれないわ』
「このまま帰ったらメルヴィンに八つ裂きにされちゃうかも」
『あら、あのおじいちゃんそんな人には見えなかったわ。むしろ私に怯えているように見えたけど』
「見た目だけでは分からないよ。君は簡単に人を信じる」
仰向けになっていた体を右向きにすると、くの字型に曲げ、本格的に寝る体勢に入りました。
『ねぇこの森、とても素敵ね。それになんだか懐かしい感じがする。前にも来たことあるみたい。夢の中かしら』
「クスの主みたいなこと言うんだね」
『私はあそこまで想像力豊かじゃないけど』
「そろそろラジオの電源を落としてくれるか。僕は少し眠るよ」
『あなたよく寝るわね』
「僕はずっと眠れなかったんだ。何年もの間ずっと。でも今は、とても眠い」
『何年も?』
「‥‥‥‥」
『いいわよ。20分経ったら起こしてあげる』
寝つきのいいエディは、ものの数分で深い眠りにつきました。
ダルシーは隣に座り、顔にかかった前髪をそっと掬い上げます。
『ごめんなさい、優しくしてなんて言って。あなたは昔から、ずっと優しかったのに』
エディの寝顔を見ながらダルシーが呟きました。
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