第3話 森の住人たち


朝。時計の短針は、8と9のちょうど真ん中にいます。



『ねぇ、ごめんなさい。あなた女の子が苦手なの?』


ダルシーは鏡を覗き込みながら、櫛で髪を解いています。慣れた手つきで結いあげると、きれいな三つ編みがふたつ完成しました。

そして、人差し指で燻んだ鏡の表面を掬い上げると、指先に集まった誇りに『うげぇ』と小さく声を上げました。


長机の端っこは魔法に関する本が山積みになっており、その横にインクのついた羽ペンが無造作に置かれています。全てメルヴィンのものです。

エディはむすっとした表情で、いつもは避ける本の近くに座りました。そしてダルシー用の三本脚の椅子を、対角になるよう、向かい側の端っこに置きました。



『そんなに警戒しなくても、もう急に近づいたりしないから。ねぇ、聞いてる?』


エディはフンっと横を向き、分かりやすくNOを伝えます。


『まるで拗ねた子どもね。その辺の馬の方がよっぽど私のお話を聞いてくれそうだわ』


諦めたダルシーは、手についた埃を払うと大人しく椅子に座り、ホットミルクを口へ運びました。


『ふぅ、落ち着く味ね。この飲み物はあなたが発明したの?』


エディは答えません。ダルシーはしばらくひとりで話し続けましたが、そのうち電源は落とされ、部屋の中はすとんと静かになりました。

ふたりがなにも話さずホットミルクを飲んでいると、メルヴィンが魔法書を取りに店から戻ってきました。



『うわぁっ、君は‥‥意識を取り戻したのかね』


目を見開いて一歩後ろに下がりました。メルヴィンも、人間の少女を見たのは初めてでした。初めてのものを警戒してしまうのは、動物の性なのです。恐る恐るテーブルに近づくと、山の中から1冊の本を掘り当てました。



『は、ははは、年寄りの朝は早くて困りますな』


『こんにちは!ダルシーといいます!』


『お、おぉ、元気な娘さんじゃ。き、傷の具合はどうかね』



メルヴィンの言葉に、マグカップを運んでいたエディの手が止まりました。

初めての人間の少女に気が動転し、傷のことが頭からスポンと抜けていたのです。エディとメルヴィンはゆっくりとダルシーに近づき、袖から伸びる腕を確認しました。



「そんな‥‥」


なんということでしょう。

ダルシーの体には、傷ひとつ残っていませんでした。どれだけ強く消しゴムで擦ったとしても、微かな跡は残るはずです。まるで、初めからなにもありませんでしたというように、傷の線一本見当たらないのです。それどころか、体中についていた泥まできれいになくなり、すべすべの肌へと変わっていたのです。

メルヴィンはハッと何かを思いつき、ダルシーの顔を見ました。



『君は、もしや‥‥』



『‥‥どうしたんですか?』



『あぁ、いや‥‥なんでもない‥‥。ところでエディ、そろそろ森の見回りに行く時間じゃろ。昨日から不思議なことが続いておる。よぉく見てきてくれ』


「うん、分かったよ」



きっと今日の森も寒いだろうと、エディはハンガーにかけていたジャケットを手に取りました。ビーズの刺繍が美しい、青色のベロア生地のジャケットです。

肩に羽織り自分の部屋へ向うと、化粧台に並ぶ小瓶の中から、特に小さいひとつを手に取りました。小瓶に入った薄黄色の液体を、手の甲と首元にふりかけます。



『森の見回り!?』


話を聞いて目を輝かせるダルシーは、散歩を察知した子犬のように、三つ編みをぴんっと踊らせました。



「君は行けないよ」


エディは冷たい口調で突き放します。


『どうして??』


「危険だから」


『大丈夫よ!体だってこの通り!』


「だめ」


しつこいダルシーに、エディの言葉はどんどん短くなっていきます。その諦めの悪さに、少し怒っているのです。

エディの肩に、メルヴィンが軽く手を乗せました。



『エディ、ダルシーさんは元気を取り戻したみたいじゃ。彼女に、私たちの自慢の森を案内してあげなさい』


「えぇーー」


『やったー!そうと決まれば、お洋服を貸してくれるかしら?』


「え?」


『だって、こんなボロボロじゃ探索に行けないでしょ!』


ダルシーは、穴だらけになった自身のワンピースを広げてみせました。

呆れた様子のエディでしたが、このままでは流石に可哀想かと思い、自分の服を貸してあげることにしました。クローゼットから取り出したのは、コーヒーの染みつきブラウスです。

少し大きめの洋服なので、それだけでもワンピースになりました。ブラウス姿のダルシーは、両手を広げくるりと一回転。空気を含んだ裾がふんわりと膨らみました。



『ありがとうエディ!とっても気に入ったわ!センスあるじゃない』


『おぉ、よく似合ってるじゃないか。それではおふたりさん、いってらっしゃい』


『行ってきまーす!』


「はぁ‥‥」


家を出る時、メルヴィンがそっと近づいてきて

『彼女を元の場所に帰してあげなさい』と囁きました。






1日に2回、森の見回りをするのがエディの仕事です。

楽しそうなダルシーとは対照的に、エディの表情は戦地に向かう兵士のように尖っていました。そして、家を出ると小さく息を吐きました。


この森は50年以上の間、大雨に襲われたことはありませんでした。

先人の魔法使いたちは、みなとても優秀でした。気流の変化、温度、動物たちの動きを完璧に把握し、異変が生じないよう魔法の力で守っていたのです。

少しでも油断をすれば、この森の生態系は壊れてしまうのです。


あまりにも平穏な日々で気が緩んでいたのかもしれないと、自分を不甲斐なく思っていました。しかし、切り替えが早いのがエディの長所です。同じ失敗は繰り返さないと、心に水を注ぎます。



『どうしたの?ため息なんてついて』


「別に」


そう言い放つと「そうだ、約束がある」と足を止めました。



『なに?』


「森は本当に危険なんだ。植物たちに手で触れてはいけない」


『分かったわ!』



ダルシーが小指を差し出し、エディはそれを受け入れました。

5分ほど歩いたところでエディは立ち止まり、少し先を指差しました。そこが森の入り口です。キリの葉の門を開くと石の階段が現れ、ふたりは森の中へと消えていきました。





太陽はすっかり昇っている時間ですが、木漏れ日は見当たりません。

広がるのは、向こうから狼がやってきそうな靄のかかった世界。そしてできたばかりの新鮮な空気です。


しっとり冷えた空気が、腕にくっついてきます。

サラサラと揺れる木々の音は、体に溜まった埃を掃いてくれているようです。

川のせせらぎで洗い流すと、ポツポツと滴る雫が、心を充分に潤してくれます。



ふたりを出迎えたのは、水の精霊たちでした。精霊たちは透明ですので、ダルシーには見えませんでした。

エディが人差し指を立て、魔法の言葉を唱えます。



「水の精霊よ、今、霧となる」


すると精霊たちの体は、白色に染まりながら膨らみつづけ、水飛沫をあげながら豪快に弾け飛ぶと、半透明の霧へと姿を変えました。

きらきら光る小さな粒を纏っています。

そして迷子のようにふわふわ彷徨うと、森の奥へと消えていきました。



『すごい!今のエディがしたの?!』



大興奮のダルシーでしたが、エディの顔つきは少し強張っていました。

ダルシーを森に入れたことで、また異変が起きるのではと警戒していたのです。

心の糸をピンと張り、辺りを見渡します。水分を多く含んだ地面は、いつもより少しだけ深く沈みました。


ふたりが森に入り20分ほど経ちましたが、悪化する様子はありません。糸を少し緩め、エディはホッと胸を下ろしました。心配は必要なかったようです。森はあの大雨以降、なにひとつ変わっていませんでした。



ぴとんと、一粒の雫がダルシーの頬を流れます。



『冷たっ!』


「森が歓迎してるんだよ」



『そうなの!?嬉しい!』と、ダルシーが笑ったその時でした。三つ編みの毛先を、誰かがクンクン引っ張りました。



『うわっ、なに?!』


「ふふ。キノコの妖精さん。出ておいで」



エディが声をかけると、ダルシーの背後から、キノコの帽子を被った妖精が姿を現しました。

シュルシュルと円を描き、空高く飛んだかと思えば、すんっとダルシーの鼻の近くまでやってきて、顔をよぉく観察します。


『ふんっ。お肌の手入れがまだまだね』


人差し指ほどの彼女は、くりんと綺麗に上がったまつ毛に、赤い紅をひいていました。



『ねぇエディ。この小娘はだぁれ?』


「僕の友達だよ。それより昨日の大雨は大丈夫だった?」


『もう〜怖かったぁ。エディに早く来て欲しかったわ。赤ちゃんも無事だったのよ』


「ならよかった。そうだ、これからその赤ちゃんを見に行くよ」


『嬉しい!楽しみに待ってるわ!必ず来てね!』


妖精はエディの頬にキスを落とし、横目でダルシーを挑発すると、粉を振り撒きながらどこかへ飛んでいってしまいました。



『なっ!なにあの子!やな感じ!』


「彼女は僕のことが好きなんだ」


『そうみたいねっ』



エディは、植物たちをじっくり観察しながら歩いていきます。ここ最近体調を崩していたアマドコロを見つけると、小さな花をひとつひとつ手にとり様子を見ます。

ダルシーは、こんな大変なこと毎日してるの?と信じられない様子でした。しかしエディは、1度だって、この仕事を面倒だと感じたことはありません。むしろこの時間が、エディの心の平和を保っているのです。



『王女様のご帰還だぁ〜。はぁやくここから逃げてくださいよぉ〜』


一羽のカラスが何かを叫びながら、空を横切りました。


「あれは嘘つきカラス。彼の言うことは信じないように」


『嘘つきカラス!?なぁにそれ!』



「こっち」と、エディが分かれ道の右側を指差しました。自由に伸びた木の枝は、空に弧を描き絡み合い、大きなトンネルを作っていました。


ハート型の葉をぶら下げた木の根元では、王冠を被った小太りのバッタがふんぞり返っていました。6本足を器用に動かしながら、アリたちに説教中のようです。


『いやぁ〜君たち、これっぱかしの砂糖で足りると思っているのかね。あ〜もう、これじゃあ話にならない!上を連れてこい!上を!』


はぁ〜とため息をつき、クローバーの葉を扇子がわりに、だいぶご立腹の様子です。



「あれは殿様バッタ。でも実際は、自分よりも小さい子たちにしか偉そうにできないんだ」


『あーら、それは大変!そのうち部下も友達もいなくなるわね』



トンネルの出口に近づくと、前を歩くエディが立ち止まりました。右腕をそっと出し、ダルシーの進む道を塞ぎます。



「泥棒蔦がいるかもしれない。触れると君の大切なものを奪ってしまう。気をつけて」


『私の大切なもの?なぁにそれ』


「君が、1番よく知っているはずだ」


『なんのこと?』



ダルシーが訊ねました。しかしエディはなにも答えず、泥棒蔦がいないのを確認するとトンネルを抜け、一際目立つ白いキノコに近づいていきました。真っ白な小ぶりのツバは、絵本のキノコにそっくりでした。


『うわぁ、かわいいキノコ!』


すると突然、ボンッという音と共に白い煙を放ち、ダルシーの周りはたちまち煙でいっぱいになりました。


『ケホッケホッ‥‥なにこれ‥‥』


煙が去ると、先ほどまで生えていたキノコたちが姿を消していました。



『あれ!いなくなっちゃった』


「あそこ」



エディが指差す方を見ると、木の枝に座りながらこちらを眺める妖精の姿がありました。



『やだエディ、その小娘も連れてきたの。私まだその子のこと認めたわけじゃないわ』


「ごめんごめん。僕がそちらに向かうよ。赤ちゃん見せてくれるかい」



軽くジャンプをすると、四方に伸びた太い木の枝を掴み、あっという間に上まで登っていってしまいました。エディの姿が見えなくなりました。

ダルシーには、話の内容は聞こえませんでした。楽しそうな笑い声だけが、時々聞こえてきました。


少しすると、降りてくるエディの姿が見えました。キノコの妖精たちは、エディの頬にキスをしたり、洋服の中に潜ったりして悪戯をしました。


「ふふふ。もう、くすぐったいよ。じゃあ、またね」



キノコの妖精に手を振ると、エディはダルシーを気にする様子もなく、どこかへ向かって歩き出しました。



『妖精さんと仲がいいのね。今度私も触ってみたいわ』


「もし君が手で触れれば、爪先から紫色に染まり、30秒もすればタバコの灰同然の粉になって砕け散るよ。彼女たちは、かわいい見た目からは想像できないほどの猛毒を持ってるんだ」



『ふーん。そうですか』



ふたりの間に沈黙が流れます。

植物を見ている時、森の住人たちと話している時だけ、エディは幸せそうに笑いました。

自分の存在は森に漂う霧たちよりも薄いのかと、ダルシーは悲しい気持ちになりました。



『あなた、この森の住人たちには優しいのね。どの子も変わった子ばかりだけど』


「みんな不器用なだけだよ」



少し萎れた葉を撫でながら、エディは柔らかく微笑みました。

ダルシーは、その微笑みを自分にも向けて欲しいと思いました。誰ひとり知り合いのいない街に引っ越してきたような、そんな寂しさが生まれたのです。



『私にも、もう少し優しくしてくれたっていいじゃない』



下を向くと小さく呟き、頬を膨らませました。

エディは振り返り、じっとダルシーを見つめました。


ダルシーの視線は斜め下に移されました。予想外の反応に、自分で言っておきながら恥ずかしくなったのです。


肩を縮めるダルシーに、エディはゆっくりと近づきました。

そして、大きめの服のせいで露わになった鎖骨に手を伸ばすと、ダルシーのつけていた首飾りを、人差し指で掬い上げました。



「君のターコイズきれいだね。僕の好きな色だ」



エディが顔を近づけた瞬間、体温で暖かくなったジャスミンの香りがダルシーを包み込みました。


ダルシーがゆっくりと視線をあげると、暗い茂みの奥からこちらを狙う、グレーの瞳と目が合いました。

ダルシーはハッと驚き、置き場に困った視線をまた下に移動させます。



「はぁー。たとえばこんなふうに?」



すんっと元に戻り体を離したエディは、「次はこっち」と指差しました。何事もなかったかのようです。



ダルシーは動けずにいました。心臓は優しくトクントクンと音を立てています。ダルシーにとって、これはとても大事でした。


もう少しこの心地よさを味わっていたい、そんな気持ちになったのは、生まれて初めてなのですから。





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