第2話 ダルシーと名乗る少女



森を襲った雨雲は、徐々にその力を弱め、雨たちを引き連れ南の方へと移動しました。

星の川はなんとか氾濫することはありませんでしたが、鏡の水面は濁流に支配されてしまいました。


エディは、少女の首と膝裏に腕を回し抱き上げると、川から少し離れた場所に寝かせました。

紺色のワンピースには、縦長の傷穴が数箇所空いていました。

痩せ細った腕と脚には、たくさんの擦り傷が刻まれています。鮮血を伴った傷跡から、少し前につけられたものであることが分かりました。

口元に手を近づけると、微かに風が当たりました。



『おーい、エディ!大丈夫か!なにがあったんだ!』


空からの声に見上げると、仲良く並ぶ杉の夫婦がエディたちを心配そうに眺めていました。


「心配ありがとう!事情はあとで話すよ。君たちも大丈夫だったかい?」


『ひっさしぶりのシャワー最高だったぜー!』


「それはよかった!」


杉の夫婦に手を振り、エディは少女に視線を戻しました。



「あの空で、なにがあったんだ」



本当は、すぐにでもメルヴィンの待つ家に連れて帰りたいのですが、エディは迷っていました。この森には、人間を入れてはいけないという決まりがあったからです。この子を連れて帰れば、メルヴィンは顔面蒼白になり、積み木の城のように倒壊してしまうでしょう。



エディは少しだけ距離をとり、膝を抱えて横に座りました。

風が吹き、水木たちがさらさらと音を立てます。先ほどまでの戦いが嘘かのように、少女も水木と一緒に穏やかに眠っています。


少しだけ近づくと、また膝を抱えて座ります。そして、少女の顔にかかった髪を人差し指でゆっくり避け、中を覗きました。



『‥‥んん"っ』


「っわぁ!」



驚いて後ろに飛び跳ねたエディは、お尻から地面に着地しました。初めて聞いた自分の大声に、思わず口を塞ぎます。こんな声が出るのかと少し恥ずかしくなりました。


少女が意識を取り戻したようです。しかし目は閉じたまま、唸り声と共に苦しそうに体を丸めています。傷が痛むのでしょうか。少しすると動きを止めましたが、また苦しみだしました。


どうしようかと悩みましたが、エディは両手についた土を払って立ち上がります。

鼻で小さく呼吸をすると「失礼するよ」と耳元で囁き、少女の首と膝裏に腕を回し抱き上げました。




今日の森は一段と冷たい空気で満ちています。 大雨が降ったのですから仕方ありませんが、薄手のブラウス1枚では寒い温度まで下がっていました。

泥だらけになったエディを見て、ヒソヒソたちが噂話をしています。

ヒソヒソとは霧の森に住む、お話をするのが好きなアガパンサスの花たちのことです。とにかくおしゃべりで、集まっては人の噂話ばかりしているので、エディがヒソヒソと名付けました。



「人間の子を連れてびっくりしているんだね。事情はあとで話すよ。ごめんね、今は少しだけ急いでいるんだ」


そう言うと、ヒソヒソたちは噂話をやめました。進むたびに、森の住人たちが声をかけてきます。


『エディどうしたの、泥だらけじゃない!その子はだあれ?』


エディは「事情は後で説明するよ」と答えました。エディはどんな状況でも植物たちに優しく接します。怒ったことは1度もありません。




中央の泉に到着すると、女の子を巨大樹の根元にもたれさせます。家に入る前に、メルヴィンに相談する必要があるからです。しかし、メルヴィンがだめだと言っても、傷が治るまでは休ませてあげようとエディは考えていました。


家の灯りは消えていました。その代わりに、月のマークが描かれた記憶屋の看板を、ライトが照らしています。エディは花模様の扉を開きました。



「メルヴィンただいま。ひどくならなくてよかった。泉も大丈夫だったみたいだね」


『おぉエディおかえり。森は大変だったようだな』


「川が少し。それより、相談があるんだ。ちょっといいかな」


エディが手招きをすると、メルヴィンは腰掛けていたロッキングチェアから立ち上がりました。

「驚かないでね」と、メルヴィンの両手を取ります。



『目は閉じたほうがいいのかい』


「どちらでも」



エディの心臓はドクドクとそのスピードを上げていきます。もしかしたら怒られるかもと不安になってきたのです。繋いだ指先から、メルヴィンも緊張しているようでした。


根元に着き、その姿を見たメルヴィンは『なんとっ!』と声を上げました。そして口をパクパクさせながら、震える手で少女を指差しました。エディはというと、しょうがないでしょと、半分開き直っています。

あまりの衝撃にメルヴィンは、そのまま木の根元に座り込んでしまいました。



「拾ったんだ。川の上流から流れてきた」


『ありゃぁ人間か‥‥なんということ‥‥』


「一緒に暮らしてはだめかな?せめてこの傷が治るまで」



エディの言葉に、いつもは細い目をまん丸にしたメルヴィンは、頭を掻きながら少し困った様子でした。


『んん‥‥わしの口からはなんともなぁ。人間が入ればこの森に異変が生じることは、お前さんもよく分かっておるじゃろ』


「じゃあ3日間だけ。ひどい怪我なんだ」


『一体なにがあったんじゃ』


「分からない。空で誰かに襲われているのを見た。そしたら雷が彼女に落ちた」


『空を飛んでいたのか?』


「目覚めた彼女に聞いてみるよ。とにかく、条件成立ということで、僕のベッドを使うね」



メルヴィンは納得はしていないという表情でしたが、傷だらけの女の子を見て、渋々条件をのんでくれました。


エディは軽々と抱き上げ家に入ると、自分のベッドにそっと寝かせました。

汚れた服を脱ぎながら部屋を出ると、洗濯室の籠に丸めて入れ、シャワー室へ入りました。顔にも体にも、土と草が混ざった泥がへばりついています。

エディは、ちょっとの汚れでも肌につくと気になってしまう性格なのですが、今日はそんなことはすっかり忘れていました。

頭から水を浴び、全体を洗い流します。雫は泥を引き連れて、エディの白い体をつたっていきます。



「ふー」


濡れた髪を乱暴に拭き、タオルを腰に巻きました。

そのままエディはキッチンに向かうと、鍋にコップ2杯分のミルクを入れ、火にかけました。


その間にクローゼットにある新しい服を取り出し、ささっと着替えます。同じピエロカラーのブラウスです。袖は鬼灯のように膨らみ、襟には細かなレースがあしらわれています。このゆったりとしたシルエットと細やかなデザインがエディは大好きでした。


ほのかに甘い湯気が立ち込めると、火を止めて、マグカップに注ぎます。最後にスプーン半分の蜂蜜を垂らしてかき混ぜれば完成です。昔エディの母親が、風邪を引いたエディに作ってくれたホットミルクです。


ベッドの横に椅子を置いて、少女の様子を見守りました。

先ほどの苦しそうな表情から、今はとても安心した表情に変わっています。顔に耳を近づけると、小鳥のような寝息が聞こえてきて、エディも同じく安心しました。


ホットミルクを口へ運ぶと、全身の力が抜け、瞼がとろんと重たくなりました。今日は朝から色んなことがあり、少し疲れてしまったようです。

エディはベッドの端っこに横になりました。少女が寝返りを打てば落ちてしまうほどの狭いスペースでしたが、突然やってきた睡魔には勝てませんでした。

そうして瞼を閉じると、ふたつの呼吸は次第に重なり、エディは眠りについたのでした。





どれくらいの時間が過ぎたのでしょう。

誰かに鼻をツンツンと触られた感じがして、エディは目を覚ましました。視界にはまだ少し靄がかかっています。目を擦ると、少しずつ見える世界が鮮明になってきました。

エディの目の前には、こちらを見つめるターコイズの瞳がふたつ並んでいます。その距離は、10センチもありません。



『起きた!』



「っっぎゃああぁあぁああ!!!にんげんんんんっ!!!」



奇声を上げ高く飛び跳ねたエディは、天井に頭をぶつけ、壁をガリガリと手で削りながら逃げようともがいています。ライオンに追い込まれたウサギの姿にそっくりです。地下で暮らすネズミの家族は、突然の衝撃に、荷物をまとめて避難していることでしょう。



『あーら失礼しちゃうわ。女の子は初めしら』



少女は腰に手を当てて、『まったく』と、ため息をつきました。


『叫びたいのはこっちの方よ。目が覚めたら部屋に連れ込まれて、おまけに知らない男が横で寝てるんですもの』



すっかりウサギになってしまったエディは、頭まで毛布にくるまり、小刻みに震えています。



『そんなに怯えなくても!私の名前はダルシー。ねぇあなた、とっても綺麗なお顔してるのね。鼻も高いし、お肌もピカピカ。瞳も宝石みたいだわ。それなのにそんなに前髪伸ばして、なにを隠してるの?』



ぐいっと一瞬で目の前まで近づいたダルシーは、綺麗な長い指でエディの前髪をかき分けてみせました。そしていたずらっ子の笑みを浮かべます。



「ぎゃあぁあああぁぁぁああっ!!!!」



この日、森には2回、エディの叫び声が響き渡りました。






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