【連載小説】フォレスト・オブ・レイン
青いひつじ
第1話 霧の森
そこは、人間がうっかり迷い込んでしまったら溺れて抜け出せなくなる、細小波が漂う森。
葉の先からぽろんとこぼれ落ちる雫は、誰かを想い流れる涙のように美しい。
ここには太陽の光は当たりません。
真珠色の水滴が身を寄せながら日除のスカーフとなり、植物たちを守っているのです。
この森を街の人々は『霧の森』と呼んでいました。
冷たい空気で満ちた森の中に、その少年はいました。
足を止めると周りを見渡し、安心したように優しく微笑みます。
「今日も、いつもと変わらない」
シルク生地のピエロカラーのトップス、袖口はふんわりゆったりとしています。白い太めのパンツに、ピアスや指輪といった装飾品をいくつか身につけていました。
歩くたびに、耳にぶら下がった雫型の宝石が揺れ、きらりと光ってみせます。
伸びた前髪の隙間からは、グレースピネルの瞳が覗きます。茂みに隠れこちらを警戒する動物のように。
少年は立ち止まると、1本の木をよく観察しました。そして何かを見つけると、その顔は雲がかかったように少し暗くなります。
「こっちへおいで」
手のひらを上にすると、白く細長い5本の指を、薬指から順番にゆっくりと折り曲げます。
誘われた植物は、肩を抱き寄せられ、流れるように少年の手元へやってきます。
それは、トゲトゲの葉をたくさんつけた植物でした。手のひらの上で、くったりと横になっています。水のもらいすぎ、日光不足になるとすぐに元気が無くなってしまうのです。
この植物はローズマリーといいますが、少年が昔"泣き虫マリー"と名付けました。水がたくさんになり横たわる姿が、泣き疲れているように見えたからです。
少年はそっと目を閉じ、呪文を唱えます。
「太陽の神よ、ここに天日を宿したまえ」
森の中を風が駆け抜け、黒い髪とピアスを揺らしました。
次の瞬間、手のひらの上には、じんわりと春の朝を思わせる柔らかな光が浮かび上がりました。
現れた、丸く暖かそうな光は、泣き虫マリーを包み込みます。そこに少年が優しく口づけをすると、ふっと息を吹き返し、横になった体を起こしました。
『エディ、ありがとう』
そうして背筋を伸ばすと、するりとローズマリーの木の中へ帰っていきました。
「またね」
最後まで見届けると、視線を前に戻し、木々のトンネルを歩いていきます。垂れてきた雫が、エディの頬に流れました。
森はしんと静かです。今日だけではなく、いつもそうなのです。
ここにいるのは、植物と動物、何匹かの妖精と、彼だけなのですから。
しかし寂しくはありません。その静けさは、色なき風が舞う昼下がり、木陰でひとり本を読む安らぎによく似ていました。
『エディ!エディ!』
どこからか声が聞こえました。
振り返りましたが、姿は見えません。彼女からの挑戦状か、とエディは思いました。そして視線をゆっくり足元へ下ろすと、その場にしゃがみました。
草の絨毯を見渡し、スズランの葉を手でかき分けると、重なり合う葉の奥に、小さな人影と羽が見えました。隠れていたのは、きのこの妖精でした。
「いた」
『きゃっ!見つかっちゃった!さすがだわ』
半透明の羽を広げ、回転しながら一気に空高く舞い上がったかと思うと、すんっとエディの鼻先に戻ってきました。
「それで、今日はどうしたの?」
『新しい三角帽子には気づいてくれないの?』
「とても似合ってる」
『もうっ!エディったら!』
頬を膨らませた妖精は、プイッとそっぽを向きました。
「ふふ。ごめんね」
『昨日ね、きのこの赤ちゃんが産まれたの!2週間ぶりなのよ!白くて小さくてとても可愛い‥‥彼女もいつか、私たちみたいな妖精に生まれ変わるの。エディは触れないかもしれないけれど、見に来て欲しくて』
「どこにいるの?」
『泥棒蔦のいる方よ。だから気をつけて来てね』
「あとで見に行くよ。そうか、とても小さな命なんだね。壊れないように少し水を増やしておくよ」
そう言って右腕を前に伸ばすと、瞳を閉じて、体の中を空っぽにします。
「麗しき水の精よ、この森を守るため、其方は存在する」
呪文を唱えると、人差し指を立てました。どこからやってきたのか、指先には水が集まり、すぐに水の玉になりました。地球儀のようにクルクルとゆっくり回りながら膨らんでいきます。
「今、霧となる」
人差し指がスンッと前に振られると、それと同時に水の玉は森の中へと放たれました。
目の前はみるみると深く、濃い白色の世界に変わっていきます。1分も経てば、視界はほとんど奪われてしまいました。
「少しやりすぎたかな。でも、こうしておくと人間がこの森に入ってこないんだ。これでしばらくは安心だね。水も十分なはずだ」
『ありがとうエディ!また明日も来てね』
エディの頬にキスを落とし、きのこの妖精は霧の中へと消えていきました。
妖精の姿が見えなくなるまで見つめると、森全体をぐるっと見渡しました。
緊張感を持っていた顔が少し和らぎ、エディは緑のベッドに寝転がります。
「なんて気持ちいいんだろう。ずっとここへいてはだめかな」
人差し指でちょんと触れると、黄色い花に訊ねました。返事はしてくれませんでしたが、揺れる花は怠けるエディを見て、微笑んでいるようでした。
「君もかわいいね」
仰向けになると、エディはそっと目を瞑りました。胸が大きく膨らみ、すぐに深く沈みました。
「そろそろ行こうかな。早く帰らないとメルヴィンが心配しちゃうね」
起き上がったエディが向かったのは、森の真ん中です。木々のトンネルに沿ってずっと歩いていくと、そこに辿り着けました。
森の真ん中には大きな泉があり、泉のそばには巨大樹が立っています。
木の根元には、蜂蜜色のレンガでできた家が2軒、根っこに捕まったように絡まりながら建っていました。ひとつはメルヴィンとエディが暮らす家、もうひとつは、メルヴィンが営む記憶屋です。毎朝煙突の上を飛び回っている青い鳥は、今日はまだ夢の中のようです。
石の階段を登り、服についた土を払うと、分厚い木の扉を開きました。ただいまよりも先に、鈴の音がエディの帰りを知らせます。
『おかえりエディ。森はどうだった』
「ただいま。今日も変わりなかったよ。泣き虫マリーが少し、元気がなかったけど」
『彼女には、太陽のような男が必要だ』
「そうだね。僕じゃだめみたい」
『さぁ朝食ができた。パンを切ってくれるか』
『灯りを忘れていた』と、メルヴィンはマッチを擦り、オイルランプに火を灯します。
家の中は、メルヴィンが隣の国で暮らしていた頃に集めたアンティークの家具で溢れていました。
ダルボスレッグのテーブル、窓の木枠には薔薇が描かれたステンドグラスがはめられています。
メルヴィンお気に入りの食器棚の円柱には、細かな植物の彫刻が施されていました。
所々ボタンが押せなくなったタイプレーターとダイヤル式の黒電話は、仕事を終え静かに眠っています。
エディは、チェック柄の布に包まった硬いパンを、まな板の上に乗せました。刃を斜めにして、ノコギリを使うように表面をガリガリと削っていきます。
この時エディは、その日の運勢を占います。今日はすんなりと刃が通り、うまく切れました。これは、何か良い事が起こることを暗示しています。白い皿を2枚手に取り、緑色の木棚の引き出しから、フォークとスプーンを取り出します。
テーブルでは、ジャガイモとベーコンの炒めものがパンの登場を待っていました。
『それでは、ご一緒に』
「『いただきます』」
ジャガイモとベーコンをパンの上に乗せて、がぶりと齧りつきました。じゅわりとした食感とバターの風味が、口いっぱいに広がります。裏庭のミツバチがお裾分けしてくれた蜂蜜を、スプーン1杯分垂らし、ふた口目を齧りつきます。
『最近の森は落ち着いてるようでよかった』
「そうだね。大きな変化はないみたいで僕も安心してる」
『いつもありがとうなエディ』
『あ、ミルクを忘れていた』と、メルヴィンが立ち上がったその時でした。
ヒューっと音を立て、鋭い風が外から入ってきました。ぶつかられた窓辺の花瓶は、床で粉々になってしまいました。
『なんじゃ、変な風じゃな』
「この音は‥‥」
エディは慌てて立ち上がり、窓から空を眺めました。先ほどまで薄い青色だった空が、少しずつ灰色の雲に飲み込まれていくのが見えました。
「これはまずい‥‥だから鳥がいなかったのか‥‥。メルヴィン!もうすぐ大雨になるかもしれない。この泉が氾濫すれば、家も記憶屋も飲み込まれてしまう。こんなこと初めてだ‥‥」
『エディなら止められるじゃろ』
「僕でも自然の自由な動きを封じることはできない。僕は星の川を見てくるよ。あそこが1番氾濫しやすいんだ。メルヴィンは必要なものをリュックに詰めて、森の安全な場所に逃げて」
エディは引き出しから笛を取り出し、家を飛び出しました。ぴとぴとと、雨が降り出していました。
笛を鳴らすと風のタクシーがやってきて、エディは両手を広げます。風はエディを乗せ、星の川へと運びました。
「ありがとう。お礼は後で」
到着した頃には、星の川は、轟々と音を立て奔流していました。透明だった水は、茶色く濁っています。
「どうしたら‥‥」
その時、空の上がごろごろと鳴りました。
「雷だ、まずい‥‥」
ほとんど黒に染まった空を見上げていると、電流を纏った雲中を飛び交う、ふたつの影を見つけました。
「あれは‥‥なんだ」
ひとつの影が、もうひとつの影を執拗に追い回しているようでした。
そして空に光が放たれ、追いかけられていた影を一筋の電光が貫きました。
意識を失ったその影は、ゆっくりと空から堕ちていきました。
エディは、急いでその影が落ちたと思われる場所へ向かいました。
星の川に沿って走っていきます。川は相変わらず唸るように音を立てていました。
前を見て走っていたエディの視界を、一瞬、何かが横切りました。振り返ると、濁流の中、浮いたり沈んだりを繰り返す影が見えました。
水の中に飛び込んだエディは、川の流れに身を任せ、影に近づいていきます。
「まって!」
手を伸ばせば、届きそうな距離まで来ました。しかし、影はまた沈んでしまいます。
「どこにいった」
水嵩が増し、自由が奪われ、体は操られるように飲み込まれていきます。
「まって、お願いだ」
少しずつ霞んでゆく視界の中、5メートルほど先に、浮かぶ人影が見えました。
「見つけた!」
エディは必死に、水をかき分け進みました。腕を伸ばすと、指先に柔らかいものが触れ、エディはそれが人であることに気づきました。
さらにぐっと腕を伸ばすと、服の裾が指先にかかりました。
足を取られないよう、踏み締めながら川岸へ移動すると、右手で近くの岩にしがみつき、一瞬呼吸を整えます。
左手で裾を強く握ったまま、岩を抱きしめていた手を離し、束になった草を引っ張りながら岸へと上がりました。
そしてすぐに空いた右手で腕を掴み、その体を引っ張り上げました。
「これは‥‥」
目を擦り、はっきりと見えたその姿に、エディは言葉を失いました。
川の中から現れたのは、全身傷だらけになった女の子だったのです。
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