第六章―約束―#2


「リゼ…」


 レド様は、腕を解いてその身を離すと───私の左手を優しく握って持ち上げる。


「俺の…、妻となってくれるか?」

「はい、レド様───喜んで」


 レド様が嬉しそうに微笑んでくれたので、私も喜びが溢れるまま笑うと、レド様にまた抱き締められた。


「ありがとう、リゼ」


 ああ、もう───レド様のこういうところが、たまらなく好きだ。


「こちらこそ、ありがとうございます、レド様…」


 私は自分の腕をレド様の背中に回して抱き締め、レド様の胸に額を押し付けて、呟く。レド様の腕に力が籠った気がした。



「レド様…、あの、お腹空きませんか?」


 どれくらい、そうして抱き合っていただろう。


 夕飯を食べていないことに気づいて、私がそう訊ねると、レド様は名残惜しそうに私を放した。


 レド様は、外していた眼帯を着け直しながら、立ち上がる。


「…そうだな。何か食べるか。夜会で何も口に出来なかったからな」

「でも、あの場で食べるより、二人で食事をする方が私はいいです」

「…っそれは、俺だってそうだ」


 レド様が、右眼の下をほんのり赤く染めて言う。


「それでは、何か作りますね」

「待ってくれ、リゼ。その前に、ロウェルダ公爵に連絡を取ってくれるか。出来るだけ早く面会させて欲しいと」

「おじ様に、ですか?」

「ああ。先程、リゼも言っていただろう。この婚約の件は皇妃の差し金だと。俺もそう思う。だから、撤回されたり、余計な横槍を入れられないうちに、正式に婚約を交わしておきたい」

「…確かにそうですね。おじ様に相談しましょう」


 おじ様は、もう夜会から帰られただろうか。



◇◇◇



 翌朝────


 日課の鍛練と朝食を終えたレド様と私は、おじ様の執務室を訪れた。


「朝早くから済まない、ロウェルダ公爵」

「いいえ、殿下。昨日の夜会の時点で予想していましたから」


 おじ様もロヴァルさんも、どこか疲れた感じだ。


「おじ様、ロヴァルさん、お疲れのところ、時間をとってもらって本当にごめんなさい」

「気にしなくていいんだよ、リゼ。───さあ、殿下、リゼ、どうぞこちらへ」


 おじ様に促され、私たちは応接スペースへと移動する。



「ご用件は解っております。殿下とリゼの婚約の件ですね?」


「おじ様は知っていらしたのですか?」

「いや、聞いていなかったよ。あれは、皇妃の独断だろうね。こちらには何も話が通っていなかった。今まで相談がなかったところを見ると、リゼも知らなかったんだろう?」

「はい。おそらく、イルノラド公爵側も知らなかったのではないかと思います」

「そうだろうね。…殿下は知っておられたようですね。いつお知りになられたのですか?」

「初めから───親衛騎士候補がリゼに変更したと知らせが来た時点で、婚約者になると聞かされていた」


「おじ様の方へ話を通していないということは、皇妃は、私たちを正式に婚約させる気はなかったということでしょうか?」

「いや、あの皇妃は、多分、宣言してしまえば婚約が成立すると思っているんじゃないかな。そして、後のことは今の時点では何も考えてないと思うよ」


 おじ様の見解に、私は驚いてしまった。今までの所業から、私は皇妃のことをもっと狡猾な人物のように想像していたからだ。


 それに気づいたおじ様が、引き続き説明してくれる。


「世間では国の中枢を牛耳る狡猾な人物のように考えられているけれどね、あの皇妃はそんなんじゃない。何と言うか…、根幹がないんだ。物事をちゃんと見ていないし、深く考えていないんだよ。

その時の気分や軽い思い付きで物事を推し進める。倫理観も罪悪感も欠如しているから、本当に軽く、その瞬間の自分の感情だけで推し進めることが出来てしまうんだ。

しかも、その下らない思い付きを、ベイラリオ侯爵や取り巻きたちが一々叶えてしまうから手に負えない。

たとえば、見目を気に入って強引に自分の専任にした騎士を、ある日くしゃみをした顔が醜かったという理由で首にしたりするんだ。それも、配置換えをするのでなく、騎士職自体を懲戒免職にしてしまうんだよ。

当然、そんなことをしたらその騎士の将来が完全に断たれてしまうことなど、微塵も考えていない。それ以前に、その騎士が衣食住を必要とする人間だと理解していないのだろうと思うよ」


「…そこまで、酷いのですか」


 唖然とした気持ちで私が呟くと、レド様が悔し気に話を繋げる。


「ああ、あれはそういう女だ。母が命を失うことになったあの件も、別に自分の息子を皇王にしたかったからとかそういう理由じゃない。ただ、自分が生んだ皇子より話題になったのが気に食わなかっただけだそうだ。

爺様の───ファルリエム辺境伯領に隣国ミアトリディニアが攻め入った件だって、公務をし始めた俺が鬱陶しくて、俺の後ろ盾が失くなればいいという軽い気持ちで、手引きをしたのだそうだ」


「そんな───そんなバカげた理由で…?」


 あのとき辺境伯軍が負けていたら、この国は隣国に蹂躙されていたはずだ。皇妃の浅はかさに、ぞっとしてしまう。


「勿論、実際に実行犯を手配した輩はそうではないだろうが、あの皇妃にとってはそうだったと聞いている。どちらの件も堂々と取り巻きにそう宣っていたらしい」


 信じられない…。何でそんな人をのさばらせているの?


「ロウェルダ公爵、俺は、皇妃がまた厄介なことを言い出さないうちに、リゼと正式に婚約を交わしたいと考えている」

「そうでしょうね。殿下はそうお考えになるだろうと思っていました」


 おじ様はそこで言葉を区切って、私へと顔を向ける。


「リゼ───殿下と婚約するということは、いずれ殿下の妃となるということだ。このまま成り行きで、殿下と婚約してしまって────本当にいいのかい?」


 おじ様の心配してくれるその気持ちが嬉しくて、私は微笑む。


「心配してくださって、ありがとうございます───おじ様。

私は───自分の意志で、レド様の親衛騎士となることを選びました。レド様の妻となることも、皇妃の差し金ではなく、自分の意志で────私がなりたいから…、私の意志で決めたんです」


「そうか…。それなら、何も言うことはないよ」


 おじ様は、少し寂し気に笑って───またレド様の方に顔を向ける。


「殿下…、リゼを頼みます」

「…ああ、任せてくれ。絶対に大事にすると誓う」

「信じましょう。───それでは、私が立会いますので、さっさと婚約を済ませましょうか」


「おじ様、もしかして、準備しておいてくださったんですか?」

「勿論だよ。昨日の夜会の時点で予想していたと言っただろう?」


 …さすがは、おじ様です。



◇◇◇



「さてと、これで殿下とリゼの婚約は成立したよ。後の処理はこちらでしておくから。教会への届け出もしておくよ」


「何から何まで申し訳ない。よろしく頼む」

「ありがとうございます、おじ様。よろしくお願いします」


 どうやら、昨日のうちに婚約宣誓書と婚約届を準備しておいてくださったらしい。道理で、おじ様とロヴァルさんがくたびれているわけだ。


 二人には、本当に感謝しかない。



「ああ、一つ忠告が。ジェスレム皇子に気を付けておいた方がいいかもしれない。昨日の夜会で、どうもリゼを気に入ったみたいなんだ」

「ええっ?」


 突拍子もないことを言われ、私は面食らった。


 控えの間で、あんなに私のことも馬鹿にしていたのに?

 それなのに、気に入るなんてことがあるの?


「……ジェスレムが?」


 レド様が地を這うような声音で、聞き返す。


「リゼのことを熱い目で見つめていたんだよ。気づかなかったかい?」

「何だかこっちを凝視しているなとは思いましたけど…、あれは蔑んでいたのではないのですか?」

「リゼ…、それは本気で言っているのかな。────殿下はお気づきにならなかったのですか?」

「…ジェスレムが、リゼに見惚れていたのは気づいていた。もっとも、リゼに見惚れていたのはジェスレムだけではなかったが────」

「ええ、まあ。男どもはこぞって見惚れていましたからね」

「ああ。控えの間でも侍従たちが鬱陶しいくらい、ちらちらとリゼを見ていた」


「え、いや、あれは、早く来た私たちを訝しんでいただけでしょう?他の人たちだって、やっと出てきた出来損ない令嬢が物珍しかっただけではないですか?」


 この二人、絶対、私への欲目が入っている。


「…リゼ、本気で言っているのか?」


 あれ?───レド様やおじ様だけでなく、何でロヴァルさんまでそんな残念な子を見るような目で見るんですか。


「殿下、リゼには忠告しても無駄のようです。殿下がお気を付けてあげてください」

「ああ、勿論だ。他の男など、リゼに近づけさせるつもりはない。それにしても───ジェスレムはどうしてくれようか。あの金ピカ公女で満足していればいいものを」


 舌打ちでもしそうな感じで、凍てついた表情のレド様が吐き捨てた。

 き、金ピカ公女って───もしかしなくてもイルノラド公女のこと?




「さて、次に何かあるとしたら────年度初めかな」


 この世界は、不思議なことに、前世と同様1日は24時間、1年は365日で日数の区切りはほぼ同じだ。太陽と月があって、昼と夜があり、季節があるのも同じ。


 ただし、月は一つではなく三つあり、一つだけは毎日のように昇り、あとの二つはどういう周期なのか不定期に昇るが同時には昇ることはない。


 三つの月が同時に昇る日が年に一度だけあり、しかも、ずれることがないので、この国ではその日を年度初めに制定している。



 次の年度初めは、約3ヵ月後。成人したからには、レド様にも何かしら辞令が下るはずだ。


「やはり、辺境へ行かされる可能性が一番高いか?」

「そうなると思います。本当は公務に戻って欲しいところですが、皇妃一派が許さないでしょう」


 現在は、第三皇子であるゼアルム殿下一人が公務を担っている状態だという。


 ジェスレム皇子は公務などしないし───しても、返って周りの負担になるだけのようだ。


「それでは、そのように準備しておかなくてはなりませんね」


 この3ヵ月で、出来る限りのことはやっておかないと。


「そうだな。────ロウェルダ公爵、頼みがある。この国…いや、この大陸の情勢や経済状況、それから領地経営などを学び直したい。講師を手配してもらえないだろうか」

「ああ、それなら適任者がもうすぐこちらへ到着します。────リゼ、財務管理を学びたいと言っていただろう?実は、ロルスが来てくれることになったんだよ」

「えっ、ロルスさんが?───でも、ロルスさんは領地で隠居していたはずでは────」

「それがねぇ、リゼの先生役になれる者が誰かいないか探してたら、ロルスがどこからか聞きつけて、自分がやるってはりきっちゃってね。すでに向かっているそうなんだ。二日後には着くと思うよ」


 は、早い。


「リゼ、そのロルスというのは?」

「ロヴァルさんとロドムさんのお祖父さまで、先々代ロウェルダ公爵の側近をしていた方なんです」


「それでは、俺もその者に教授願えるということか?」

「ええ。きっと、嬉々として教鞭をとってくれることでしょう」


 おじ様は、何かを含んだ笑顔でそう答えた。


 ロヴァルさんは何だか遠い目をしている。レド様が、それを見て何かを悟ったようで、ロヴァルさんと同じような、遠い目をする。


 ………何だろう、この雰囲気。


「あ、爺は、リゼには甘いから大丈夫だよ」


 おじ様、それ、何のフォローですか?




「殿下とリゼは、この後どうするつもりなのかな?」

「出来れば、街に行きたいと思っています。まだレド様を案内できていないし…」

「それなら、あの魔道具で行くよね。我が公爵邸へも寄っていくのかな?」

「はい、寄らせていただきたいと思っています。シェリアやおば様、シルムにも婚約のことを報告したいですし」

「そうだね。それでは、殿下とリゼが行くことを、こちらの方で連絡しておくよ」

「ありがとうございます、おじ様。お願いします」


 そろそろ、おじ様の業務が始まる時間だ。お暇しなきゃ。


「あ、そうだ。おじ様、これ────」


 私は【遠隔リモート・管理コントロール】で、アイスボックスクッキーが入った間口の大きい瓶を取り寄せる。


「前世の世界で食べられていたお菓子なんです。たくさん作ったので休憩時間にでも」


 どうぞ───と言い終わらないうちに、横からロヴァルさんが差し出した瓶を取り上げた。


「ありがとうございます。大事に食べさせていただきます」


 にこやかに応えて、ロヴァルさんはさっさと瓶を持って行ってしまった。思わず、ぽかんとしてしまった私に、おじ様が苦笑しながら教えてくれる。


「実はロヴァルは甘いものに目がなくてね。…私の分も残しておいてくれるといいけど」


 そ、そうなんだ…。いつもはクールなロヴァルさんの思いがけない一面を知ってしまった…。


「ところで、あれはリゼが作ったのかい?」

「はい。レド様と一緒に」


 昨日の夜、夕飯を一緒に作ってサンルームで食べて、後片付けを終えた後も何だかレド様と離れがたくて────それなら一緒にお菓子でも作ろうと思い立ち、二人でクッキーを作ったのだ。


「え、殿下と?殿下も料理をされるのですか?」

「ああ。リゼに教えてもらって、一緒に作っている」


 すごく幸せそうな表情で、レド様が頷く。


「……そうですか」


 そんな砂でも吐きそうな顔をしないでください、おじ様……。

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