第六章―約束―#1


 夜会から戻ると、まだ午後7時前だった。


 婚約の件についてレド様と話さなければと思っていた私は、エントランスホールに入ると、【換装エクスチェンジ】でドレスをいつもの服装に替えた。


「レド様、お訊ねしたいことがあります。どこかで話せませんか」

「…ああ。それなら、応接間で話そう」




 応接間に入り、ソファに向かい合って座る。


「レド様と私の婚約についてなんですが───レド様は知っておられたのですか?」


「……リゼは知らなかったのか?」

「はい。イルノラド公爵は何も言ってはいませんでした。ただ、レド様の親衛騎士になるようにとだけで」

「…俺は、初めから…、リゼが俺の親衛騎士───そして婚約者になると聞かされていた」


 ああ、何だか腑に落ちたような気がする。


 だから、レド様はセアラ側妃の部屋を使わせてくれたり、ドレスや装身具を下さったんだ。


 私が…、親衛騎士というだけでなく、婚約者だったから────


「俺は…、リゼは───リゼも俺の妃となることを承知の上で来てくれたんだと思っていた……」

「レド様?」


 レド様が、何だか悲愴な表情で呟いた。


 もしかして、私がレド様の妃となることを嫌だと思っていると考えているのだろうか。


 嫌なわけない。私は、むしろ────


「…っ」


 私は慌てて、湧き上がりそうになった想いを押し止める。


 レド様の妃は────私では駄目なのだ。


「…レド様、聞いてください。この婚約は、おそらく皇妃が嫌がらせで決めたことでしょう。正式な書面を交わしてはいないので、ただ皇妃が言っているに過ぎません。従う必要などないんです」


 レド様の今の状況では、縁談は難しいだろう。でも────


「皇妃とベイラリオ侯爵たちが好き勝手しているこの状況は、そんなに長くは続かないはずです。権力があったのは、先代ベイラリオ侯爵であって、彼はもうこの世にはいません。現ベイラリオ侯爵は才覚がなく、今は先代ベイラリオ侯爵が造り上げた箱庭で遊んでいるに過ぎず、反勢力が少しずつそれを壊していっていることにも気づいていない」


 ベイラリオ侯爵は、すでに求心力を失い始めている。


 そうでなければ────おじ様たちの助けを借りたとはとはいえ、ベイラリオ侯爵傘下の悪徳商人からラナ姉さんを助けることなど出来なかっただろう。


 ジェスレム皇子が立太子出来ていないのが、その証拠だ。


 皇族の直系血族は等しく紫色の双眸を持って生まれるのに、ジェスレム皇子の眼の色は緑色で、ベイラリオ侯爵家の権力で表立っては皇子として遇されているものの、暗黙のうちでは皇王の実子ではないと見なされている。


 ベイラリオ侯爵はそれを押し切って、ジェスレム皇子を立太子させようと画策しているらしいが、未だに成功していない。


 そもそも───あのおじ様が、いつまでもこの状況下で手をこまねいているはずがないのだ。


「おそらく、そう遠くない将来に、レド様はお立場を回復されます。だから…、だから───レド様は、私で妥協する必要はないんです……」


 レド様は、長らくこの異様な孤立した環境で過ごしていたから、私しか選択肢がないと錯覚しているのだと思う。


 親衛騎士としてだけなら、私でもいい。私の悪評は返って良い隠れ蓑になり、私の見えない後ろ盾はレド様の助けとなれる。


 だけど、妃は────私では駄目だ。


 この国は長らく実力主義だったこともあって、平民であっても皇子妃になることはできる。


 でも────後ろ盾がないレド様には、力ある婚家が必要なのだ。


 公爵家から除籍されて貴族社会での立場が弱く、悪評がついて回る私では、レド様の役には立てないし、ただ足を引っ張るだけだ。



「妥協とは、どういう意味だ?───俺が妥協して…、リゼを妻にするつもりだと───そう思っているのか?」


「レド様…?」


 レド様の声は、いつもの楽しそうなものからは程遠い、低く唸るようで、怒っているように聞こえた。


 そして、私を大切にしたいと言ってくれた、あの時と同じ───怖いくらいに真剣な表情で続ける。


「リゼは誤解している。おそらく、俺にはリゼしかいないから、リゼを妻にするつもりだと思っているのだろう?

確かに爺様が亡くなってからは、ずっと孤立させられていた。だが、16歳までは俺だって普通に社交界に出ていて、それなりに交流はあったし、孤立してからも皇妃の目を盗んで同情を寄せてくれる女性だっていた」


 それは当然だろう。皇妃が不当に貶めているだけで────レド様は素敵だもの…。


「その気持ちは嬉しかったが、それだけだ。今まで心惹かれる者はいなかった。いなかったんだ…、リゼに会うまでは────」


 私はレド様の言葉に驚いて、俯き加減だった顔を上げる。


「初めて会ったときのことを覚えているか?契約の儀のとき───控室から出て、俺が立ち止まってリゼを見ていたことを」


 私は頷く。立ち止まったレド様に気づいて、どうしたんだろうと不思議に思った。


「あのとき、俺は…、リゼに見惚れていたんだ。その長い黒髪も、澄んだ蒼い瞳も、凛とした立ち姿も、何もかもが綺麗で───そして、何より…、その身に纏う輝きが本当に綺麗で……」


「身に纏う、輝き…?」


「前に言っただろう、この左眼は人の性根を映し出すと。性根が醜いものは、汚く濁った靄を纏っているように見えるんだ。だけど…、リゼが纏っていたのは輝く光の粒で───あんなに綺麗な心根を見たのは初めてだったんだ」


 私の心根が綺麗…?


「そんなはずない……、私の心根が綺麗なんて───そんなはずありません」


 私の心根が奇麗だなんて───あり得ない。


「レド様は…、私を買い被っています。きっと───表面は綺麗に見えていても、奥底は汚く濁っているはずです…」


 レド様の反応を見たくなくて、俯いて固く目を瞑る。そして、そのまま言葉を続ける。


「私────私は…、イルノラド公爵家と絶縁をして、自分の過去を捨てられたと思っていました…。

イルノラド公爵家の所業を知って、レド様も、シェリアも、ラナ姉さんも───皆、私のために怒ってくれた。そのときは、あの人たちのことはもうどうでもいいと、忘れて生きられると、本気で思いました…。

でも───控えの間で…、イルノラド公女の言葉を聞いたとき、思い知りました。私は、あの人たちのことを忘れられていないし、許してなどいないのだと────」


 神託を受けたときのイルノラド公爵の冷たい反応や、イルノラド公爵夫人の心無い言葉と歪めた表情。


 使用人用の屋根裏部屋へ連れて行かれたときのバセドの乱暴な扱い。

 そして───食事のことを訊ねたときの使用人の返答と態度。


 残飯をあさることすら出来なくなったとき、バセドを始めとする使用人たちは、絶望する私を見て愉しそうに笑っていた。


 すべて────はっきりと脳裏に焼き付いてしまっている。


「イルノラド公爵が…、皇妃一派のせいで崩れた国防のために奔走していたと───いえ、今も奔走していることは知っています。そのために、邸にろくに帰れず、私の状況を気づけなかったと。でも────だから何なのって思ってしまうのです。だって、10年ですよ?────10年もあったのに…。

一度でもおかしいと思ってくれたら───いえ、おかしいと思わなくても、自分で諭そうとか、話をしようとでも考えてくれていたら───簡単に発覚していたはずなんです。結局、あの人は私のことなど、どうでも良かったということでしょう?

イルノラド公爵夫人だってそうです。あの人が神託のせいで家族に顧みられずに育ち、だからこそ神託に固執してしまったということは知っています。

でも、だったら───顧みられない苦しみは知っているはずでしょう?それなのに───自分の娘に、どうしてあんな仕打ちが出来るの?

公子も公女も、イルノラド公爵夫人にそう言い聞かせられて育ったから、ああいう風になってしまったと解っています。

でも、だからって───何であんな嘘が平気でつけるの?どうして───あんな風に嘲笑ったり出来るの…?」


 言いながら、自分の感情がたかぶっていくのが判ったが、止められなかった。


 昂った感情が流れ出るように、涙が溢れて、零れ落ちていく。


 嫌だな────泣きたくなんてないのに…。

 こんな姿、レド様だけには見られたくなかったのに────


「皆、理由があったことは解っているんです。でも…、私はどうしても、あの人たちを許せない───」


 涙が止まらなくて、それを隠すように両手で顔を覆う。


「リゼ、こっちを見ろ」


 泣いている顔を見られたくなかったけれど────私は反射的に顔を上げてしまった。


 いつの間にか、レド様が私の前に跪いて、私の顔を覗き込んでいる。

 レド様は眼帯を外して、あの不思議な色合いの左眼を晒していた。


「大丈夫だ。リゼは汚く濁ってなどいない。あのとき俺が魅かれた輝く光を纏ったままだ。

リゼ───相手に理由があったからって、許す必要などない。許せないからって、リゼが気に病む必要はないんだ」


 レド様が私を抱き寄せ、私は優しい温もりに包まれる。


「俺だって…、皇妃が許せない。母の命を奪い、爺様を死に追いやり、俺の眼を潰そうとした。本当は殺してやりたいくらい憎い。でも、あの女は殺したところで、死にゆく瞬間ですら、母を殺したことも爺様を死に追いやったことも、きっと後悔も反省もしない。だから、俺は諦めているだけなんだ。

だけど…、時々、無性に思い知らせてやりたくなる時がある。リゼは───こんな俺を汚く濁っていると思うか?」


 レド様の腕の中で、私は頭を横に振る。


「思いません────思うわけがありません。大事な人たちを殺されて、憎んでしまうのは当然です」

「俺だって同じだ。リゼが死ぬような目に遭わされて、それを許せないのは当然だし、俺はそれを汚く濁っているなどとは思わない」


 レド様の声音や私を大事そうに包んでくれる腕の温もりから、レド様が本当にそう思ってくれていることが判って────私はまた涙が出そうになる。



「…なあ、リゼ。どうしたら、お前は信じてくれる?妥協でもなく、買い被りでもなく、俺はただリゼがいいと───生涯を共にするならリゼがいいと思っていることを、どうしたら解ってくれる?」


「…っ私は───公爵家から除籍された身です。私ではレド様のお役には立てません…。レド様は…、後ろ盾になれる貴族家のご令嬢と婚姻すべきです…」


 本当は───嫌だ。レド様の隣にいるのは私でありたい。


 レド様といるのは本当に楽しくて───レド様の傍は本当に居心地が良くて、いつまでも、このまま二人でいられたら、と────そう思ってしまう。


 でも───それは叶わない。


 この国の第一皇子は生まれる直前に、前皇妃と共に弑逆されている。


 レド様は第二皇子ではあるけれど────実質的には現皇王陛下の第一子なのだ。今の異様な状況が正されれば、次期皇王となるべきお方だ。


 私ではその妃は───レド様の伴侶は務まらない。


「…俺は帝王学は学んではいるが、公務からも社交界からも離れて長い。皇妃一派が一掃されたとしても、皇位を継ぐのは、俺には無理だ。継ぐつもりもない。だから…、お願いだ、リゼ。そんな理由で───そんなことで断らないでくれ」


 そう懇願するレド様の声は震えていた。


 レド様の腕に力が籠って、まるで放さないというように、もっときつく抱き締められる。


 レド様が、心から私を求めてくれているのは解る。


 でも───本当にいいの?

 レド様は、本当に───それで後悔しない…?


「本当に───本当に…、私でいいんですか…?」

「何度も言っているだろう、俺はリゼがいいと。リゼがいいんだ。リゼに傍にいて欲しい。役に立つとかそんなことを考えなくていい。ただ、傍にいて笑ってくれるだけで───それだけでいいんだ」


 ああ、そんなの────


「私も…、私も同じです。生涯を共にするなら貴方がいい」

「…っリゼ」

「私も───貴方に傍にいて欲しい。貴方が傍にいて笑ってくれれば、それだけで────」


 私は、きっと幸せだ。

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