第42話 王都追放(前)
早朝まだ暗い中、シナツは商隊の荷馬車の1つに自分の荷物を積み込んでいた。初夏とはいえ、まだ陽の昇る前の、星の見えるこの時間は冷える。シナツは、旅用のマントを出して羽織った。
シナツの祖父母のイハセ商店と、他にも2つの店が合同で組織した、主島の北西部ブルトゥス領に向かう
旅立ちのことは友人知人に伝えていたが、早朝のため見送りは断わり、何日も前に方々に挨拶回りをした。
*****
シナツが王都を出なければならない本当の理由は話せないため、「他領と若手の人材を交換し見聞を広めてもらう」いわゆる領の間の交換留学生に選ばれたことになった。
実際にそのような制度は存在するのだが、そのような留学生はほとんどが高位貴族の子弟か若手官僚であり、手習所を卒業する前の下級騎士の子が選ばれるのは異例のことであった。
特例でこの留学制度にねじ込まれたシナツは、ブルトゥス領で小姓になって騎士の修行をすることになった。ちなみに、早めに卒業試験を受けさせてもらって手習所は卒業済みである。
友人たちは、留学のことを聞くと祝福してくれたが、手習所卒業後も一緒に小姓として王城で働けると思っていたハヤヒトは、「勝手に行けば」とふてくされ、スルガに宥められていた。
後日、ハヤヒトはふてくされた態度を反省し、スルガと2人でシナツに釣竿を贈った。
「あっちでも釣りする時間ぐらいあるだろう」
ヲシマ・イヨは、餞別として、金属ファスナーの付いた大きな旅行鞄を贈ってくれた。
「ブルトゥス領で、ヲシマ商店の宣伝してきてね」
学問所の人々も、別れを惜しんでくれた。
「我が国にとって、スライム研究は喫緊の課題です。あちらでも勉強してください」
ケヌはそう言って、スライム関係の本と論文を贈ってくれた。
スハウ教授とクローディアはシナツが王都を出されることになったおおよその事情を知っており、同情してくれた。
「ブルトゥス領の稲の研究者に手紙とサンプルを届けてくれ」
クローディアはそう言って、手紙と稲のサンプルをシナツに渡した。
「こちらは、ちょっと離れていますが、古都クジフルのスライム研究者への紹介状です」
スハウも紹介状を渡す。
「いや、僕は騎士の修行に行くんです。研究しに行くわけじゃないんです!」
シナツはそう抗議したが、彼らは笑って、
「でも君は騎士の修行だけじゃ物足りなくなるよ」
と不吉な予言をして、それらを押し付けた。
学問所の食堂の料理人たちは、去年漬けた干し梅を餞別として贈ってくれた。干し梅が魔力回復薬として知られるようになったのは、一昨年のザワつく学会発表でのこと。以来、学問所の料理人たちは、学内の梅を毎年収穫し、シナツの教えたレシピで干し梅を作って、学問所ブランドの干し梅として売り出していた。結構良い値段だが、売り出すとすぐに完売するほど人気の品だ。
料理人たちは、その貴重な干し梅を餞別に渡しながら、ブルトゥス領でも米祭りが開催できると良いなと言った。
「いや、だから、僕は騎士になるの!料理人の修行に行くわけじゃないの!」
え?騎士?本当に?
シナツの素性を良く知らなかった料理人たちは驚いた。
「そういえば、あちらは小麦の産地が近いから、王都よりも小麦が安いぞ」
料理長がボソッと呟いた。
「え?本当ですか?」
シナツは目を輝かせ、昔諦めたふわふわパンやうどんが作れるかもと思った。
その顔を見た料理人たちは、あちらでも米祭りを開催したり、へんな料理を開発したりするんだろうなと思った。
その次に向かったのは、木場。木場で働く職人たちには、
「あっちではどんな魚が釣れるかねえ」
と言われた。
シナツは別に釣り人ではないが、あちらでも休日に釣りをするのも良いかもしれないと思った。ハヤヒトとスルガに貰った釣竿もあるし。
夕方には、開店前のスルガの両親の酒場に行き、彼らにも挨拶した。米祭りのときに、この酒場の厨房を使わせてもらったり、色々とお世話になったのだ。
酒場では、吟遊詩人のカガミが演奏の準備をしていた。
「ブルトゥス領の歌や物語で面白そうなものがあったら手紙で教えてね」
シナツは取材旅行に行くわけではないが、了承した。
酒場の片隅のテーブルには、開店前だと言うのに既に酔っぱらっている中年男がいて、スルガの母親を口説いては、
「スハさん、いい加減にしなさいよ」
とスルガの母親に窘められていた。
シナツは、あれがかの有名なスハさんか、と驚いた。スルガの話によく出てきたが、実物を見るのは初めてだった。
好色の二つ名に恥じぬエロおやじっぷりだが、既婚者を口説くのはやめておいた方が良い。特に、彼女の旦那が近くの厨房で包丁を握っているときは。
帰り道、シナツは上区の食品店に寄って、小麦を1袋買った。料理人たちに言われて思い出したのだが、シナツは元々、前世の記憶を活用してふわふわパンやうどんを作って転生チートをやりたかったのだ。
王都では小麦は高級食材であり、子供の料理には使わせられないとフサに言われて諦めたのだが、今のシナツは小金持ちであった。
(旅に出る前にグルテン祭りだぜ!)
シナツは最初、リンゴのような果物から天然酵母を起こし、それを使ってふわふわパンを作ろうとした。しかし、世話になっているイハセ家の台所を使わせてもらおうとしたところ、イハセ家の料理人に「危険物の持ち込みはおやめください!」と泣かれ、瓶に入った白く濁ってぶくぶくと泡立ったリンゴの台所への持ち込みを断られてしまった。
仕方なく、シナツは酒粕酵母で代用することにした。
その酒粕から作られたパン種は料理人も持ち込みを許可し、料理人と一緒に何度か試作して、無事にふわふわパンを作ることができた。前世のドライイーストよりも酵母の力が弱く、半日以上発酵させなければならなかったが。
「というわけで、これがふわふわパンです」
サホとシナツに修行をつけにきたフサは、いつも修行をするイハセ家の中庭ではなく、居間のテーブルに案内され、何が起こるのかと警戒していたところに、焼きたての掌サイズの丸いパンが皿に載って出てきた。
「ふわふわパン?」
「はい。覚えていますか?僕が、師匠に初めて台所を使わせてほしいと頼みに行ったときのことを」
「ええ、良く覚えています。包丁を握ったこともない7歳の男の子が、珍妙な名前の創作料理を作るから台所を使わせてくれと…ああ、ふわふわパンのことも言ってましたね」
シナツは他にも色々な料理名を言っていたが、フサが聞き取れたのはふわふわパンだけだったことを思い出した。
「その日から師匠には料理の修行をつけてもらいました。料理だけじゃなくて、この世界の常識を教えてもらいました。あれから多くの人に会い、経験を積んで、世界と自分のことを少しだけ理解できるようになりました。
今日は、自分で稼いだ金で買った小麦を使って、ふわふわパンを焼きました。他の人にお出しする前に、先ず師匠のフサさんに完成品を食べてもらいたいです」
あの頃のシナツは、今となっては黒歴史だが、前世の知識で何かを成し遂げることに執着していた。
5歳のときに高熱を出して前世の記憶を思い出したが、それを活用するどころか、リハビリに2年近くかかり、転生リードどころか同世代に比べて大きく出遅れたことに焦りを感じていた。おまけに楽勝だと思っていた手習所のレベルが思っていたよりも高く、そのこともシナツの焦りに拍車をかけていた。
自分が転生したことには何らかの意味が、使命があるはずだ。世間に凄いと言ってもらいたい。あの頃のシナツは、人の形をした承認欲求の塊であった。
フサに指導してもらわなければ、迷惑系暴走転生者になって、人々に害をなす存在になっていたかもしれない。シナツにとって、フサは師匠にして恩人、血の繋がっていない家族のようなものであった。
『紅葉月の憂鬱』と言う言葉がこの国にはある。前世で言うところの五月病のようなものだ。進学や就職で環境の変わる秋に、人々が心身に変調をきたす現象を言う。前世から現世にやって来たシナツは、覚醒してからずっと紅葉月の憂鬱に罹患していたのかもしれない。いや、どちらかというと、厨二病か…
今ではもう分かっている。自分にチートはないし、使命もない。果たすべき役割など何もない。悩みながら迷いながら手探りで生きていく。この世界の全ての生き物がそうであるように。
「師匠、食べて」
サホもテーブルに着いているが、自分のパンを食べずにフサが食べるのを待っている。
フサは、パンを手でちぎった。
「あら、まあ」
最近歯の弱くなったフサには嬉しいことに、頑張って咀嚼しなくても噛み切れる柔らかさ、ほんのり酒のような香り、優しい甘さ。
「美味しいです、とても」
フサはお世辞抜きにそう言った。
「ジャムもつけてみてください」
シナツがジャムを出す。
「おいしい!」
サホもふわふわパンを頬張る。
シナツは、ふわふわパンのレシピは売らず、レシピをフサとイハセ家の料理人にだけ伝えた。フサの家とイハセ家では、祝い事があるとこのパンを焼いて食べるようになった。
フサは、ふわふわパンの礼に、旅立ちまで特別な修行をつけてくれた。
傭兵の持つ武器は、騎士の剣と違って片刃の刀である。刀の変な癖がつくと騎士の修行に悪い影響が出るかもしれないので、フサは徒手の格闘術の基本をシナツに叩き込んだ。他にも、縄抜けや鍵開け、
そして、餞別としてシナツに短刀を贈った。
「傭兵とトラブルになったときは、この短刀を見せてください。雷光の関係者であることが分かります」
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