第39話 あにちゃからの卒業

「サホは、あにちゃから卒業します」


 晩秋の初霜月、シナツたちにとってお馴染みの遊び場である木場で釣りをしているときに、シナツの横に座って兄たちの釣りを見物していたサホが、水面を見ながらボソッと呟いた。


「ど……どどどどどゆこと?」


 手に持っていた釣竿を取り落とし、シナツが言う。竿が池を流れていきそうになるのを、慌ててスルガが捕まえた。


 兄離れ、反抗期、思春期。

 そんなワードがシナツの頭に浮かぶ。

 『お兄ちゃんの入った後のお風呂は嫌!』『兄貴キモい、こっち見んな』


 前世の妹を持つ友人の話にあった、素直で可愛かった妹が、いつのまにか自分を拒絶するようになったエピソードを思い出しながら、シナツは、

(いや、さすがに思春期は早すぎるだろう。サホは5歳だぞ)

と思った。


「あにちゃから卒業って、どういうこと?」

 重ねて訊ねると、サホはぽつりぽつりと、数日前の出来事を話し始めた。


*****


 事の始まりは、家族4人が揃った夜のアフミ家で、夕食後に母アシナの妊娠が発表されたことであった。


「あかちゃん?」


 ここに弟か妹がいると言われた母のお腹をおそるおそる触りながら、サホが訊ねる。母のお腹は、言われてみればいつもより少し丸い気がしたが、とてもこの中に子供がいるとは信じられなかった。


「はわっ、はわわっ」


 シナツはうろたえ、しばらく部屋の中をぐるぐる歩き回った後に、何故か両親の寝室に向かい、鞄に母親の衣類を詰め始めた。


「落ち着け。何をしている」

 息子の奇行に驚かなくなったキサカだが、突然の荷作りは予想できなかった。静かに問いかけると、シナツは

「入院の準備をしようかと」

と言った。


「入院?お産は上区の実家でするわ。シナツやサホもあそこで産まれたのよ。産まれるのは来年の春の終わりから夏の初め頃だから、春になったらお産までしばらく実家で過ごすわ」


 まだまだ先の事らしい。シナツは、鞄から衣類を出して元に戻した。


「あかちゃん…」

 アシナの腹をさすりながら、サホが呟く。娘の頭を撫でながら、アシナは

「サホも来年にはお姉さんになるのよ」

と言った。


「おねえさん…」

 お姉さん、つまり、あねちゃになるのだ。


 そう理解した瞬間、サホは、雷が落ちたような衝撃を受けた。

「サホが…あねちゃに…!」

 これは一大事である。


 その日から、サホは良きあねちゃになるための努力を始めた。

 朝は1人で起き、できるだけ自分で身支度し、フサやシナツに家事を習い、フサの『護身術』の修行も真面目にした。なぜならば―――


「サホはあねちゃになるからです(キリッ)」


 それからしばらく経ったある日、サホは家の前で1人で縄跳びをしていた。

 縄跳びはシナツが始めた遊びで、縄の端を両手に持って振り回して跳ぶ遊びである。先ずシナツの通う手習所の子供たちに広まり、じわじわと下区の子供たちの間に浸透しつつある。

 ちなみに、稲作も麦作も盛んではない王都周辺では、稲わらも麦わらも手に入りにくい。この辺りでよく用いられる縄は、麻や葛でできているものが多い。


 シナツのように二重跳びやあや跳びといった高度な技はまだできないが、サホは前跳びを連続してできるようになった。

 フサも「これは体つくりに良い」と推奨してくれたので、サホは暇を見つけては訓練していた。


「あ、かけおちもののところの子だ」


 男の子の声がして、縄跳びの手を止めて声の方を見ると、サホと同じ年頃の男の子がこちらを指さしていた。

 名前は知らないが、顔は見覚えがある。同じ区の近所の子だ。


「かけおちもの?なにそれ」

 サホが問うと、男の子は首を傾げて考えた。

「しらない。かーちゃんたちがそう言っていた」


 なお、駆け落ちしたと噂されているのは、キサカの両親だ。彼らが亡くなってだいぶ経つのだが、アフミ家は未だに一部でそういう呼ばれ方をしている。


 最近ではコミュ強のシナツが、共用の水場や市場で近所の奥様方と世間話をするようになって交流ができたが、まだまだアフミ家に隔意を持つ家は多い。王都の下区(下町)なんて、農地のない農村のようなもの。割と閉鎖的で村社会なのだ。


「ふうん」

 そう言って、サホは縄跳びを再開した。ぴょんこ、ぴょんこ、と楽しそうに跳ねる彼女を男の子はじっと見ていた。


 男の子がうらやましそうに見ているのに気づき、サホは

「やってみる?」

と訊いた。男の子は少し迷ったが、こくりと頷いた。


 最初は腕を回すタイミングとジャンプするタイミングが合わず、ひっかかってばかりいた男の子だが、サホが手を叩いてジャンプするタイミングを教えてあげると、前跳びができるようになった。


「すごいすごい」

 サホは拍手して讃えた。

 お姫様のお人形のように可愛らしい女の子に褒められた男の子は嬉しくなったが、照れ隠しに

「かんたんだ。こんなの」

と言った。


「れんしゅうすれば、あにちゃみたいに二重とびやあやとびもできるようになるよ」

 そう、悪気なくサホが言ったが、他の男(実兄)と比べられた男の子はムッとして、

「あにちゃだって。へんなの」

と暴言を吐いた。


「………へん?」

「あにちゃ、なんて、ちっちゃい子の言い方だ。赤ん坊みたいで、はずかしい」


 そう言うと、男の子は縄をサホの足元に放り投げて返し、走り去った。

 取り残されたサホは呆然と、

「ちっちゃい子…赤ん坊…はずかしい…」

と呟いた。


*****


「ということがあったのです…」

 サホはしょんぼりと告げた。


「……サホちゃん、その男の子、どこの子か分かる?」

とユラが訊ねた。

「うーん、たしか、もず大路とあおぎり大路のぶつかる角のところの前庭のあるお家の子」


百舌鳥もず大路と青桐大路の角…ハサマ家の末っ子かな?」

 近所の地理に詳しいシナツが呟いたのを聞いたユラは、

「ハサマ家の末っ子…後でシメる」

と、物騒なことを呟いた。シナツはそれを咎めることなく、

「ユラさん、やっておしまいなさい」

と煽った。


 これには普段好戦的なハヤヒトも引いて、

「おいおい、それくらいの悪口で…やめとけよ」

と妹と友人を止めた。


「いや、悪口だけじゃなくて、俺はその男の子から初恋の芽生えの波動を感知した。サホの[恋愛フラグ]は早め早めにへし折らねば」


 相変わらずよく分からない言葉で近所の男の子への害意を隠さない兄たちに対し、サホはふるふると頭を振った。

「ユラちゃん、あにちゃ。サホはだいじょうぶだから、その男の子を怒らないで。それに、その子の言うとおりだと思う。『あにちゃ』は、あかちゃんっぽい…」


「つまり、サホちゃんの言う『あにちゃからの卒業』ってのは、シナツの呼び方を『あにちゃ』から変えたいってこと?」


 池に釣り糸を垂らしながら、スルガが言う。サホは頷いた。

「そうなの」


 これに反応したのはシナツだった。

「ええ?何で?『あにちゃ』って全然変じゃないよ。可愛いじゃない。いいじゃん、大人になっても、爺さんと婆さんになっても『あにちゃ』呼びの何が悪いの?」

 サホの肩に手を置き、そう言い募るシナツ。


「いや…大人になっても『あにちゃ』呼びはキツイ…」

 ぼそっとハヤヒトが呟き、スルガもうんうんと頷く。


「新しい呼び方を考えなきゃね。そうだな…『兄者』なんてどう?」

 スルガが提案した。この国の兄の呼び名は、身分や地方によって色々あるのだ。


「そんな、[バトル漫画]に出てくる悪役兄弟の弟が言いそうなごつい呼び方は嫌!」

 シナツは拒絶した。


「『兄貴』は?」

 というハヤヒトの意見に対して、シナツはうーん、と考え込む。

「ボーイッシュな女の子っぽくて俺は嫌いじゃないけど、これじゃない感が…」


「『兄ちゃん』は?」

 ユラが、自分がハヤヒトを呼ぶときの呼び名を提案した。

「うーん。悪くはない。けど、『お兄ちゃん』の方が良いな」


 シナツが、挙げられた兄の呼び方を論評しているが、誰も気にしていない。呼ぶのはサホであり、皆、サホの決断を待っている。

 サホは腕を組んで考え込み、しばらくして

「とりあえず、全部ためしてみます」

と言った。


 その日から、サホはシナツを色々な呼び方で呼ぶようになった。


「兄者、そこのお皿を取ってください」

「兄貴、おはようございます」

「お兄ちゃん、起きてください」


 しばらくの間、呼び方が安定しない日々が続いたが、やがて『おにい』呼びに固定されるようになった。

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