第38話 ジョブチェンジ
「あれ?棚がさみしくなったような」
シナツは首を傾げた。
ある夏の日、手習所が夏休みのシナツは、乗馬訓練のため父と馬場に来ており、午前は父とアサマ(馬)にしごかれ、午後は父が仕事のため別れ、ケヌの研究室に遊びに来ていた。
ケヌの研究所に魔改装された倉庫でお茶を飲みながら、シナツは周囲の棚を見回して言った。書籍やらスライムの入った水槽やらがぎっしり詰まっていた棚だが、置かれた物が少なくなっている気がしたのだ。
ちなみにお茶請けは、シナツが手土産に持ってきた梅酒の寒天ゼリーである。寒天液を青竹の筒の中に流し込んで冷やし固めてある。梅酒は火にかけてアルコールを飛ばしているので、サホでも食べられる。梅酒は去年、学問所構内の青梅から作ったものであり、寒天は、以前の新年の祭りで手に入れたテングサを加工したものを使っている。
「はい。今年の秋から学問所の講師に転職することが決まりまして。今から少しずつ片づけをしております」
「え!すごいじゃないですか。おめでとうございます」
シナツはケヌの転職を祝った。いつかそうなるだろうなとは思っていた。彼は研究バカだ。この研究室も馬の治療に全く関係のない物が多く、よくこれまでクビにならなかったなと呆れるばかりだ。
「ありがとうございます。以前からスハウ先生には学問所に戻るように誘われていたのですが、ご存知の通り、長年学問所に足を踏み入れることができず…シナツ君のおかげで1人でも学問所に入れるようになり、転職のお話を受けることにしました」
「僕は特に何もしていませんが」
「いえ、シナツ君が一緒に来てくれなければ、私は今もあそこに近づくことはできなかったでしょう。君は私の恩人です」
シナツは、ケヌと初めて学問所に入った日のことを思い出した。
あの最初の訪問のとき、シナツがケヌのためにやったことと言えば、腰の引けたケヌを引っ張るように、門をくぐってずんずんと先に進んだことぐらいである。学問所にトラウマがあるケヌに色々考える隙を与えず、わざと子供っぽくはしゃいで先頭に立って構内を進んだのだ。
ただ、その後にクローディアの水田を発見し、演技ではなく本気ではしゃいでしまったのだが。
「あー、お役に立てて光栄です…」
真正面から礼を言われ恥ずかしくなったシナツは、もごもごと呟いた。ケヌはシナツにとって、父の職場の同僚というより、年の離れた友人のようなものだ。友人の役に立てたなら嬉しい。2人はしばらく無言で寒天を食べた。
「この寒天というのは面白い食感ですね。葛ともまた違っていて」
「海藻から作ったんです。[テングサ]という海藻を煮込んだ煮汁を漉して冷やすと固まります。これを細切りにして、冬の戸外に出しておくと、夜の寒さで凍り、昼の太陽で溶けます。これを繰り返すと、白い繊維状の乾物ができます。これが寒天です。
寒天を再び煮溶かして固めると、こんな風にプルプルになります。[テングサ]をそのまま使うよりも磯臭さがないので、こうしてお菓子を作ることができます」
「ふむ。液体の培養液を固めて固形にするのに使えないかな…」
ぶつぶつと呟きながら、ケヌは早速実験に寒天を使えないかと考えている。
「寒天は、大手食品店に製法を売ったので、買えますよ。必要ならお店の場所をお教えします」
食品店は、海辺の村の空いている漁師小屋を買い取って小さい工場に改装した。寒天はそこで昨年から製造され、今年から販売が始まった。
「…シナツ君が発明したのですか」
「…ええまあ…発明と言うほどのものではありませんが…」
前世のパクリですが。とは言えず、シナツは曖昧に頷いた。
「シナツ君は、将来、食品の研究をするのですか?」
「いいえ?騎士になります。来年の秋からは小姓として王城に通うことになります。食品の開発とかはまあ、小遣い稼ぎというか、内職というか…下級騎士は生活が厳しいですから…」
「ああ…」
普段から下級騎士たちの苦しい生活を間近に見ているケヌは頷いた。
ケヌの知る下級騎士の中で、副業で一番成功している者は、小料理屋のオーナーになり、妻に経営を任せている。なかなか人気の店らしい。だが、誰もが彼のように、美人で料理がうまく商才のある奥さんを持っているわけではない。これは特殊な例だ。
内職でよくあるのは、封筒や造花作り、朝顔や椿の栽培、蛍や鈴虫の養殖などなど。本職の職人顔負けの技能を身に着けて、そちらの方が実入りが良いため、騎士を辞めて職人としてやっていく者もいる。
転職が上手くいく者もいれば、失敗して浪人になるものもいる。浪人の中でも、再就職して騎士に戻れるのは一部の実力者だけだ。用心棒や傭兵になるにも才覚とコネが要る。
戦う技術を持った者が職を失えば、その行きつく先は、恐喝、強盗、殺人。暴力を生業とする裏街道だ。
他領の話だが、元下級騎士の集団が野盗化して僻地の村を占拠したことがあった。最終的に騎士団が出動して討伐されたが、騎士にも村人にも多くの犠牲が出たと言う。下級騎士の不満は社会不安を起こしつつある。
今、この国は非常に危ういバランスで成り立っている。このバランスを崩すのは、下級騎士の暴発か、スライムの収穫減による買い占めなどのパニックから始まる庶民の暴動か、とケヌは憂鬱な想像をした。
「そうですか。シナツ君は研究者に向いていると思うのですが…」
「…騎士向きの性格でないことは自覚しています…」
シナツは、自分でも騎士に適性がないと思っている。父との剣術や魔力の訓練は順調で、父にもスジが良いと褒められることが多い。技能は問題ない。問題は性格だ。
訓練ならば大丈夫なのだが、実戦ができる気がしない。人を傷つけたり殺したりすることに抵抗がある。経験を積めば何とかなるだろうと父は言うが、そんな経験、できれば積みたくない。人を傷つけることも、人に傷つけられることも恐ろしい。
それに、この国の下級騎士は、言っちゃなんだが『不遇職』である。副業しないとやっていけない低賃金なのに、要求される技能は高く職責は重い。騎士になることを考えると今から気が重い。
家族や友人や知人、色々な人に言われてきた。『お前は騎士に向いていない』と。そんなことは、自分が一番良く知っている。
職業選択の自由がある世界なら、絶対に騎士は選ばない。
だが、シナツのいるこの世界では、職業適性とは、『どんな家の何番目に生まれた男である/女である』に尽きる。
貴族の家の長男に生まれたら、よほど心身に問題がない限り、その長男が跡を継ぐ。騎士の家も同じだ。アフミ家の長男であるシナツが騎士になるのは決定事項だ。
周囲の者も、シナツのことを騎士に向いていないと評価するけれど、彼が騎士になることは疑っていない。祖父のヒカワだけは本気でシナツに商売を継いでもらいたいようで、先日、
「サホが男だったらな…」
と嘆いていた。シナツもそう思う。
サホは現在5歳とは思えないほど落ち着きがあり、物事に動じず、漢気があり、身体能力も凄まじい。もちろんこれからの成長次第でいかようにも変わっていくだろうが、騎士に向いている。
サホが弟だったら、シナツは他の進路を選んで弟に家督を譲るという道もないわけではない。
だがサホは女だ。女は騎士になれない。
向いていようがいまいが、シナツは騎士になる。
シナツがそんなことをぽつりぽつり、と愚痴ると、ケヌは、
「では、本業が騎士で、副業が研究者になれば良いんですよ」
と言った。
「……ええ…?」
いや、皆が皆、あなたのように研究が好きなわけではないんですが…とシナツは思った。
さすが、本業の馬医者の傍ら、プライベートの時間を全て使って、副業で研究をしていた研究バカのケヌの発想である。
(そういえば、この人は農家の三男だったんだよな)
シナツは思った。
普通、農家の男児は、次男より下は、近隣の地主の小作になったり、町に出て職人や商人の家に奉公に出される。
ケヌのように学問所に進学する子は稀なのだ。
(この人は、『普通』の
この国の民は、他国との交流が制限されているせいか、閉鎖的で横並び意識が強く、他人の目をとても気にする。いわゆる『島国根性』だ。
そんな国で、『普通』を外れるのは、多くの困難が予想される。
ケヌの昔話からも、彼が学問所内でイジメの枠を超えた犯罪的な迫害を受けてきたことが分かる。それでも彼は諦めなかった。遠回りをしたが、こうして学問所の職を得ることに成功した。
クローディアもそうだ。女性の身で学問を修めることは、下手をするとケヌよりも困難があったのではないだろうか。それでも彼女は、苦学の末に研究者になった。
この国に職業選択の自由はない。人々は、生まれに従って割り振られた職に、生まれながらに就く。ケヌやクローディアのように才能のある者が努力し、多くの困難を乗り越え、幸運に恵まれたときにのみ、
(自分には無理だ…)
騎士は自分に向いていないと自覚しているが、親の期待や世間の目に逆らってまで、違う
「本業が騎士で副業が研究者って悪くないかも」
「でしょ?」
ケヌが笑って言った。
「時間のあるときに学問所に遊びに来てください。シナツ君ならいつでも入所できるようにスハウ先生が手配してくれます。エンドウマメの実験もまだ途中です。一緒に研究しましょう」
「それが目的ですか!?人手が欲しいだけでしょう」
「それもありますが、シナツ君が研究者に向いていると言うのも本当です。だってエンドウマメの授粉作業とか、蛍の魔力実験とか、すごく楽しそうにしていましたから」
「そんなこと言って嬉しがらせて、労働力を確保したいだけでしょ!」
ケヌと言い合いながら、シナツは、将来について思い悩んでいた気持ちが、閉塞感が、少しだけ楽になった気がするのであった。
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