第36話 修行

 米祭りの収益は、原料費を引き、ハヤヒトとスルガにバイト代を渡すとほとんど残らなかった。これは米の普及のための祭りだからもうけが少なくても良いのだと自分に言い聞かせながら、来年はもう出場しなくても良いかなと思った。もし出場することがあれば、今度はちゃんと原価計算とかしようとシナツは反省した。


 本選出場したレシピは、レシピ集にまとめられてお手頃な値段で学問所から販売されている。料理人の叡智の結晶であるレシピ集は一般に高価な本であるが、このレシピ集は、米の普及を目的としているためかなり安価で庶民も買える値段に設定されている。米を扱う食料品店などに置かれ、王都民に米の料理法を啓蒙している。シナツの団子もこのレシピ集に載っている。


 レシピの権利が学問所にあることは祭りの募集要項にも明記されており、レシピ集の収益は、来年以降の米祭りのために使われる。レシピを祖父経由で売れないことも、来年の米祭りに対するシナツのやる気を削いでいた。


 米祭りからしばらく経った春の日、シナツが手習所から帰宅すると、いつも台所や居間にいてシナツを出迎えてくれる妹のサホと家政婦のフサの姿がないことに気付いた。


「サホ?フサさん?」


 買い物にでも行ったのだろうか。ちなみに王都は治安が良いため、日中、家に誰かいるときは鍵をかけない家が多い。さすがに買い物に行くときは鍵をかけるが。

 裏庭の方から声がするので、シナツは荷物を置くと裏庭に向かった。


*****


 庭の木に猿がいた。


 いや、間違えた。庭の月桂樹の木をサホが登っていた。猿のように。

 フサは腕を組んで、木の下からサホを見守っている。


 ちなみに月桂樹は渡来人がこの国に持ち込んで根付いた植物の1つだ。良い香りのする葉をつけることで知られている。葉は料理に使われて、魚や肉の臭みを消すのに役立っている。

 渡来人は他にも色々な動植物を持ちこんだが、小麦のように、気候が合わなかったため広まらず、一部の地域で栽培されているものも多い。どうも渡来人の故郷は、主島よりも涼しく乾いた環境だったようだ。


「あ、あにちゃ。おかえりなさい」


 サホは兄に気が付くと木の上から挨拶し、するすると枝を伝って3メートルほどの樹高の木を登り、一番上の枝に触れると、また降りて地上に戻ってきた。


「あの…何をしているのですか?」

 フサに問うと、フサは

「修行です」

と短く答えた。訳が分からない。


「何の修行ですか?」

「逃げる修行です」


 ますます分からなくなった。

 詳しく聞くと、どうも最近、というか昨年の夏頃から、近所の治安が良くないらしい。見ない顔の男たちが昼間から用もなく住宅地をうろついているのが目撃されているそうだ。

 しかも先日、フサとサホが一緒に市場に買い物に行ったとき、少しフサが目を離した隙に、見知らぬ男がサホに声をかけてきた。


「ええ!?」

 シナツは驚いて声を上げた。


「私が『何か御用ですか』と言ったらすぐ退散しましたけどね。でもサホさんは目立つ色なので、人さらいのような良からぬ輩に目をつけられやすいのです。今のうちから、不審者に捕まりそうになったときのため、逃げ方を教えておこうと思いまして。

 私は若い頃旅をしていたので、人よりも多少護身術の心得もありますし」


「そうだったんですか。ありがとうございます」


 サホは金髪に紫眼という、下区のこの辺りではあまり見ない色彩を持っている。兄の欲目を抜きにしても、可愛らしい顔立ちをしている。成長すれば美少女になること間違いない。変な男から逃げるための修行は大切だ、とシナツは思った。


「じゃあサホさん、今度は私が10数える間に登ってくださいね」

「はい!」

「いーち、にー…」


 フサが数を数え出した。サホはするすると木を登った。


 シナツはそれを見ながら、町中で人さらいから逃げるときに、木登りの技術は役に立つのだろうかと疑問に思った。


(いや、建物の2階の窓から逃げるときに木をつたって降りたり、逃げ込んだ先が森で、木に登って隠れるとか、そういうシチュエーションもあり得る訳だし…)

 木に登れる方が、登れないより逃げ延びる確率は高いだろう、とシナツは思い直した。


 それにしてもサホの動きが速い。猿か忍者のように木を登っては降りてを繰り返している。ついこの前にまで、ハイハイしたりよちよち歩いていた妹の成長に、シナツは感動した。


(いや、しかし速いな)


 残像が見えるような速度で、5歳の少女が木登りしている。これは本当に逃げるための修行なのだろうか。昨年の夏頃からサホがフサに何やら教わっているのは知っていたが、こんな修行をしていたのか。

 フサは満足げにサホの木登りを見ている。


(フサさん。あなたは人の妹を忍者に育てようとしているのですか?そして妹よ。いずこに行きたもうか…)


 サホは一番下の枝まで下りると、枝に座り、膝裏を支点にくるりと後ろにひっくり返り、1回転して地面に着地した。


「ちょ、危ない!」

 アクロバティックなフィニッシュ技を見せた妹に驚きシナツは声を出し、フサも叱った。


「サホさん。木登りは降りるときに一番注意しなければならないと言ったはずです。慢心は大怪我の元ですよ」

 そうフサに叱られ、「ごめんなさい」としょぼくれるサホを見ながら、シナツは、

(ええ…そういう問題?)

と思った。


 最近、米祭りなどで忙しく、騎士の修行をさぼりがちであったシナツは、うかうかしていると体術で妹に追い抜かれるかもしれないと危機感を抱き、

(騎士の修行、サボらずにやろう。苦手な馬術も頑張ろう…)

と決意した。


 とりあえずシナツはその夜、近所に不審者が出たという情報を家族と共有し、何かあったときは祖父母の家か手習所に避難することなどを取り決めた。

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