第28話 夢幻階段(閑話)
―――お前が悪いんだぞ
その声と同時にドンッと胸を押され、仰向けに倒れる。
背後は下り階段だ。自分を受け止めるものは何もない。階段下の固い地面以外は。
ふわりと体が宙に浮き、すぐに重力に従って落下を始める。
地面との衝突に備えて体を縮こまらせるが、なかなか衝撃はやってこない。
恐る恐る目を開けて周りを見れば、自分はまだ落下し続けている。仰向けになって長い長い階段を落ち続けている。もう階段の上の方は遠くて見えない。
どれだけ長い階段なのだろうか。地の底にあると言う根の国に通じているのかもしれないと思わせるほど長大な無限階段を、自分は落ち続けている。
(ああ、またこの夢か)
落下しながらケヌは思った。毎年夏が近づく頃になるとこの夢を見るのだ。
この明晰夢から覚めた朝は、水をかぶったかのように全身汗に濡れ、足の古傷が痛み、その日一日、不快な気分で過ごすことになるのだ。
ケヌは落ち続けながら、この悪夢が覚めるのを待った。
*****
スハウ研究室で教授と論文の打ち合わせを終えると、ケヌは研究室を出て、シナツを迎えに一般学生用食堂に向かった。
今日も同行してもらったシナツは、打ち合わせの間、食堂の料理人たちと米レシピの開発にいそしんでいる。
彼の米にかける情熱と知識は謎だが、彼の知識のおかげでクローディアの研究が続けられる見込みが立ったのは喜ばしいことだ。
学問所の構内の大通りを、杖をついて歩いていると、ふと道の端に生える雑草の中の赤紫色が目を引いた。カラスノエンドウの花だ。豆の仲間の雑草の小さな花を見ているうちに、ケヌは遠い日の出来事を思い出した。彼は食堂に通じる道を外れ、図書館の裏手に向かった。
*****
学問所の学生として学んでいた頃のケヌ少年は、常に大きな鞄を持ち歩いていた。机の上などに、ほんの少しの時間でも私物を放置すれば、すぐにゴミ箱や池に放り込まれてしまうからだ。
その日もケヌ少年は、教本や筆記用具の入った大きな鞄を抱えて、図書館の裏にある空き地に向かった。何かの建物を建てようとして断念した空き地らしく、立木が数本、切り株がいくつかに雑草が生い茂る、建物と建物の間の小さな空間である。誰も来ないことから、ケヌ少年の放課後の避難場所になっていた。
ケヌはいつものように、因縁をつけてくる低位貴族の子弟たちから逃れてこの空き地にやってきた。しかしあいにくと、この日は先客がいた。
たしかプルケル家陪臣の家の5男坊で、自分を執拗にいじめてくるグループに属している銀色の髪の少年だ。彼から直接危害を加えられたことはないが、あのグループの一員というだけで、印象は最悪である。
自分がいつも腰かけている切り株に座って本を読む彼を認めたケヌは、気配を消してその場から立ち去ろうとした。だがその前に、彼が本から目を上げてケヌに声をかけた。
「逃げることないじゃん。別にここは俺の土地でもお前の土地でもないんだし」
彼にそう言われ、逃亡を諦めたケヌは、別の切り株に腰を下ろした。彼も偶然ここにいただけで、特にケヌに危害を加える気もなさそうだ。ケヌは鞄の中から教本を取り出し、今日の授業で出された課題を始めた。
春が終わり、初夏の長雨が来る前の束の間の晴天。どこか遠くで鳥の鳴く声がする。
2人とも自分の仕事に集中し、会話はない。自分を迫害するグループの一員と2人きり。だがケヌは不思議と不快ではなかった。
パシン…パシン…
静かな空き地に、時折、何かを叩くような音がする。
「…?」
彼は、本から顔を上げて、辺りを見回した。
空き地には彼とケヌ以外は誰もいない。ケヌは静かに課題に取り組んでいる。
パシン…パシン…
音はたしかにこの空き地でしている。何かを叩くような音は、空き地を囲む建物の壁に当たって反響している。
「カラスノエンドウだよ」
課題の手を休めてケヌが言った。
「カラスノエンドウ?」
と、彼が
ケヌが黒く乾いた莢を指でつまむと、莢はパシンパシンと音を立てて弾け、中身の種子を遠くに飛ばした。農村出身のケヌにとっては常識だが、町育ちの彼は知らなかったようだ。カラスノエンドウの莢が弾ける音は大きいのだ。
「へえ…」
彼はそう言うと、再び本を読み始めた。
ケヌも課題に集中する。時折、パシン、パシンとカラスノエンドウの莢が弾ける音だけが空き地に響いた。
*****
それからも、彼とは時々空き地で会った。
別に友人になった訳ではない。相変わらず彼は、ケヌを迫害するグループに属しており、人前でケヌに話しかけることはない。
空き地でも親しく話しかけてくる訳ではなく、それぞれ本を読んだり書き物をしたり、自分の仕事をしているだけだ。
それでもたまに会話をすることがあり、互いの身の上を話したりもした。ケヌは、彼が低位貴族の妾の子であること。母親の身分が低く、実家での扱いが良くないこと。同腹の妹がいること。卒業後は王城の地理院に勤めて、母親と妹を王都に呼びたいと思っていることなどを知った。
友人ではない。しかし彼は、学問所の同級生の中で、ケヌが最も多く会話を交わした者であった。
*****
「論文を撤回しろ」
いつものように放課後に空き地にやってきたケヌに、先に来て待ち構えていた彼がそう言ったのは、卒業式を翌月に控えた初夏のことであった。
「論文って…スライムの分裂回数の?」
「そうだ」
彼は頷いた。
「何で君がそんなことを言うの?」
「あの論文を発表されると困る人たちがいる」
固い顔でそう言う彼を見て、ケヌは、彼がスライムを管理するプルケル家ゆかりの者であることを思い出した。『困る人たち』とは、実家の周りの人たちのことか。ケヌは、彼が実家に命じられてそう言っていることに気付いた。
「できないよ。そんなことすれば、共著者のスハウ先生にも迷惑がかかるよ」
「何かあってからじゃ遅いんだ。スハウ先生は有力貴族家の人だ。あの人は守られる。何かあったら全てお前が責任を取ることになるんだぞ」
「そんなこと…」
反論しようとして、ケヌは言葉を詰まらせた。彼が懐から新品の懐剣を出し、剣を鞘から抜き、剣先をケヌに向けたのだ。
「論文を撤回しろ」
小刻みに震えながら、血の気の引いた顔で彼が言う。脅迫している側なのに、まるで彼の方が脅されているかのように怯えている。
しばらく2人は無言でにらみ合った。
パシン…パシン…
今年も実をつけたカラスノエンドウの黒い莢が弾ける音だけが空き地に響く。
やがて彼は懐剣をしまうと、
「後悔するぞ」
と捨て台詞を残して空き地を去った。
彼の姿が見えなくなると、ケヌは、へなり、とその場にしゃがみ込んだ。
ケヌは悩んだが、この出来事を学問所やスハウに相談しなかった。彼の卒業や就職に悪い影響を与えたくなかったからだ。
その日を境に、彼が空き地に来ることはなくなった。
久しぶりに彼の声を聞いたのは、卒業式の日、大講堂入口の階段の上でのこと。
「お前が悪いんだぞ」
そう言って、彼はケヌを階段から突き落とした。
*****
卒業式の事件の後、加害者である彼の実家は、執拗にケヌに懲罰を求めた。加害者である彼を、罰として領地で謹慎、蟄居させる。その代わりにケヌにも同等の罰を与えるべきだと、よく分からない平等を求める主張をした。ケヌは内定していた助手の職を失い、学問所を去った。
当時のケヌには分かっていなかったが、あの事件はプルケル家とスハウ家の代理戦争だったのだ。
プルケル家の利権である食用スライムの欠陥を指摘した論文を出したスハウ教授とケヌ。面子を潰されたプルケル家は、『落とし前』を求めていた。しかしスハウ教授を害しては、大規模な政争に発展してしまう。
そこでプルケル家は、陪臣の子息を鉄砲玉に仕立ててケヌを襲わせたのだ。
低位貴族の妾の子の彼と、貧農の子のケヌ。
使い捨てるにふさわしい2人であった。
卒業後もケヌは何度か学問所を訪問した。研究室の片づけや引き継ぎ、スハウ教授に騎士団の職を紹介してもらった礼などと、色々用事があったのだ。
ケヌが学問所の門をくぐれなくなったのは、卒業から数年後のことであった。
彼が領地で亡くなったことを聞いてからだ。
冬の夜の川に落ちて死んだという。
なぜ、蟄居している彼が夜の川にいたのか。逃げ出そうとして誤って落ちたのか。口封じのために実家の者に始末されたのか。
真相は分からない。だがその日から、ケヌは学問所に足を踏み入れることができなくなった。
学問所の赤い煉瓦塀が見えてくると、動悸が始まり、汗が止まらなくなる。門をくぐろうとすると貧血を起こし、無理に門をくぐれば気を失う。
そして、その年から無限階段の悪夢を見るようになったのだ。
アフミ・シナツという天然のトラブルメーカーの協力で再び学問所の土を踏むことができるようになるのは、それから数十年後のことであった。
*****
図書館裏の空き地はなくなっていた。
図書館の改築の際に増築されて、空き地には書庫が建てられていた。
時の流れを実感したケヌは、次に大講堂に向かった。大講堂に行くのは卒業式以来である。
因縁の場所である大講堂を目にしても、動悸や貧血などの発作が起こらないことに安堵しつつ、ケヌは大講堂の正面階段を上った。杖をつきながら慎重に一段一段上り、最上段に着くと、振り返って地上を見下ろした。
悪夢の中の長大な階段に記憶が塗り替えられ、とても長い階段のように思い込んでいたが、久しぶりに上ってみれば、実物はずいぶんと低い階段だった。ケヌは何だか拍子抜けして笑った。
ふと背後に人の気配を感じた。
「お前が悪いんだぞ」
そんな声が聞こえ、ケヌが振り返ると彼がいた。卒業式の日の十代の少年の姿のままの彼が。
彼に胸を押され、ケヌは後ろに倒れる。
泣き出しそうな彼の顔が遠ざかる。そうだ。あの時も彼は、こんな苦しそうな顔をしていたのだ。
彼も実家に脅されていたのだろう。彼の母親と妹が人質だったのではないか。
こんな白昼の衆人環視の中、わざわざケヌに声をかけてからの凶行は、彼のせめてもの抵抗だったのではないだろうか。
どうすれば良かったのだろう。論文を撤回すれば良かったのだろうか。大人に相談すれば良かったのだろうか。
いくら考えても答えは出ない。後悔だけが雪のように降り積もる。
ふと周囲が暗くなり、ケヌと彼は漆黒の闇に包まれた。
そして彼の背後に小さな白い円が浮かび、ゆらゆらと揺れた。月だ。暗い水面に映る月。夜の川面に冬の皓皓と輝く満月が映っている。
いつの間にか、上下が反転し、仰向けに落ちているのはケヌではなく、彼の方であった。
冬の夜の川に落ちようとしている彼は、驚いたように目を瞠り、誰かに助けを求めるかのように右手を前に伸ばしている。
助けを求める。誰に?誰も彼を助けなかった。命じられて学友を傷つけ、望む進路を諦め、そうまでしたのに、彼の実家は彼に報いることはなかった。使い捨てだ。ケヌも自分のことで精一杯で、彼の苦悩に気付くことはなかった。
諦念に、彼の眼から光が消える。彼の体が、夜の川にゆっくりと沈む。上に伸ばした右手の指先も黒い水の中に飲み込まれようとしていた。
完全に飲み込まれる寸前、ケヌは思わず手を伸ばし、彼の手を掴んだ。
その瞬間、川面に映る月からまばゆい白い光が溢れ、闇を払った。
彼とケヌは光に包まれた。
「ごめん。ごめんな。本当にごめん」
光の中で、ケヌは彼の腕を掴みながら謝り続けた。他にも言わなければならないことがあった筈なのに、ケヌはひたすら彼に謝罪した。
「何で被害者が加害者に謝ってんだよ」
彼は笑って言った。
「お前は悪くない」
そう言うと、彼は光に溶けて消えた。
*****
ケヌは、自分の部屋の布団の上で目を覚ました。
独り暮らしの男やもめの侘び住いに、雨戸の隙間から初夏の朝日が射し込んでいる。
遠くでしじみ売りがしじみを売る声がし、それを呼び止める女の声も聞こえる。
いつもの朝が来た。
ケヌは自分が泣いていることに気付いた。長い長い夢を見ていた気がするが思いだせない。だが不思議と心が軽くなっていた。
ケヌは自分を縛っていた『何か』が解けたことに気付いた。自分も、その縛っていた『何か』も自由になった。根拠もないのにそう確信した。
もう1人で学問所に行ける気がした。
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