第25話 早苗にも風の音

 学問所は、王都の上区、王城近くに高い煉瓦塀に囲まれた広大な敷地を持つ。その門を守る守衛に名前と用件を告げれば、首から紐で下げる番号札を渡され、入場が許された。


「おお、ここが学問所!広いですね。地図とかないと迷ってしまいそうです」


 キャンパス案内の看板とかないですかねと呟きながら、シナツはすたすたと門をくぐって構内を進む。


「ちょ、ちょっと待ってシナツ君」


 守衛から2人分の番号札を受け取ったケヌは、慌ててシナツを追って学問所に入った。

 こうしてあっさりと、ケヌは数十年ぶりに学問所に足を踏み入れた。あれほど恐ろしく、理不尽の象徴であった因縁の地に再び立つことができた感慨に浸る間もなく、ケヌはシナツを追いかけた。

 煉瓦造りの建物がいくつも並ぶ構内を、中年と少年が連れ立って歩く。


「基本的に、建物は私のいた頃と変わりません。中の人は多くが入れ替わっているでしょうが」


 あちらが図書館、こちらが食堂とケヌはシナツを案内しながら学問所の大通りを進む。

 セキュリティは厳重だけど、前世の大学と似ているな、とシナツは思った。


「スハウ先生の研究室は奥の方にあるので、少し歩きます。おや?あちらは昔、雑木林だったのですが、伐採されて畑になっていますね」


 ケヌが指し示す方を見れば、遠くの一面に畑が広がっていた。いや、あれは畑ではない。あれは…


「[田んぼ]…」


 シナツが呟く。

 畑の一画にため池のように水が張られ、緑色の草が植えられている。

 水面は初夏の青空と雲を映し、風が吹くたびに単子葉植物特有の剣のように細長い葉がそよぎ、水面を揺らす。

 水田。まだ若い苗が瑞々しい早苗田である。


『西か東かまづ早苗にも風の音』

 唐突に俳句が頭に浮かぶ。芭蕉だったか。


「[稲]じゃない、ええと、オリザじゃないですか!!」


 シナツは駆け出し、水田の手前で止まった。


 シナツの前世は都市部で育ち、大学も東京だったため、身近に田畑はなかった。しかし米農家を営む母方の祖父母と伯父一家の住む田舎に休みのたびに遊びに行っており、今、眼前にある光景は、ゴールデンウイークの頃に家族で母の実家を訪ねた時に見た、日本の田園風景そのものであった。


 代掻きされた田んぼに田植え機で等間隔に植えられた苗。深く張られた水は、鏡のように空と遠くの山々を映し、まるでテレビで見たことのある南米のウユニ塩湖のようだ、と幼い日の前世のシナツは思ったのだ。


 祖母の握ってくれた塩むすびの味。従兄と虫取りに入った山の新緑。慣れない手つきで農作業を手伝う父の背中。


 前世の父のことを思い出すと、それが呼び水になって、母や弟といった家族の姿を思い出し、今まであえて考えないようにしていた前世の家族とのエピソードが次々に頭に浮かんでくる。


 人の良いサラリーマンの父。しっかり者の公務員の母。野球部エースの高校生の弟。

 皆どうしているだろうか。元気でやっているだろうか。俺のパソコン、中を見ずに処分してくれただろうか。


 未だに死因は思い出せないが、

(日本人の俺は、本当に死んでしまったんだな)

という実感が湧いてきた。


「シナツ君、どうしたんですか、急に走り出して…ど、どうしたんですか!」

 追いかけてきたケヌが、水田の前に立ち尽くすシナツに追いつき、彼の顔を覗き込むと、慌てたような声を上げた。


 シナツは静かに泣いていた。7歳の子供が声も出さず表情も変えず、目から涙を流しつつ前を見つめる異様さに、ケヌは怯えた。


「あ、すみません。つい懐かしくて」


 シナツは自分が泣いていることに気付くと、袖で目を拭った。


「懐かしい…?オリザは大陸や南方諸島で育てられている穀物でしたよね。シナツ君、南の方のご出身でしたっけ?」

「いえ、王都生まれ王都育ちです。でもこの光景って、何だか郷愁を誘われますよね」

「郷愁…?」


 水田のように区画された農地に水を張って作物を育てることは、この国の主島以北では珍しい。蓮や菱といった池や沼を利用して育てる作物もあるが、あれらはあくまで池や沼であって、水田とは違う。

 つまり王都民で水田に郷愁を感じる人は非常に稀である。言葉を選ばなければ、かなり変である。


(独特の感性の子だな)


 変人として知られる馬医者にまで変人認定されてしまったことをシナツが知らないのは、幸いなことであった。ケヌは話題を変えることにした。


「書物の知識はありますが、稲の実物を見るのは初めてです。本当に葦のように水につかって生えるんですね」

「品種によっては乾いた普通の畑で育てた方が良いものもあります。でもこのように水を張って育てることには色々と利点があるそうです」

「利点?」


「水は空気よりも熱しにくく冷めにくいので、水の中は温度の変化がゆるやかになります。稲は南の方の作物なので、寒さに弱いです。このように根元に水を張ることによって、低温の害から守ることができます。今の時期、夜はまだ冷えますから。

 あと、土の中の害虫が水攻めで死にます。雑草も湿地を好むもの以外は生えにくくなります」

 米農家の祖父母が教えてくれたウンチクを思い出しながら、シナツが答える。


「ほう、他には?」

「ええと、水を入れ替えることによって病気の元が土地に残りにくくなるので、連作障害がなく、毎年同じ場所で稲を育てられます」

「他には?」

「うーん、うーん、あ、大雨の時に雨水を溜めることができるので、洪水や土砂崩れを防げます。[ダム]の役割です。つまり大雨の時にここに水を一時的に溜めて、後日水量の減った川に流すことができ、治水が容易になります」

「なるほど、水害の多い地方ではありがたい話だな。だが収穫に影響が出そうだ。農閑期にしか使えん技に思える。逆に弱点は何だ?」


「まずこのように水を溜めておける畑を作るのが大変です。粘土などで水を通さない土台を作ること、そしてそれを維持することが手間です。

 そして当然ですが、大量の水が必要になります。雨の少ない地方では難しい農法です。

 でも一番大変なのは水の管理です。ずっとこのように水を深く張った状態でも良いのであれば楽なのですが、稲の生育段階によって水の量を変えなければ…って、あんた誰!?」


 シナツはぴょん、と飛び上がって後ろに下がった。


 ずっと水田の方を見ながらケヌと話しているつもりだったが、声や話し方に違和感を覚え、ふと横を見ると、物干し竿のような細長い角材を手にした、見知らぬ背の高い赤毛の女性がいた。ケヌはその女性の向こうであわあわと慌てていた。


「ああ失礼、私はドルヌス・クローディア。この畑を管理している研究者だ」


 女性にしては少し低い落ち着いた声。

 前世の赤毛は赤色というよりも赤褐色や赤銅色に近かったが、こちらの赤毛はそれらよりも鮮やかな赤色をしている。目の前の女性は、とりわけ美しい、ルビーのような鮮やかな赤色の髪をしており、その髪を無造作に1つにまとめている。

 飾り気はなく服装は白衣。こちらでよく見る白衣は、割烹着のように後身頃が開いて紐で縛るタイプのものだ。

 緑色の眼は好奇心でキラキラ輝いている。年の頃は20歳前後か。


「今年からここで稲の試験栽培を始めたんだが、水を張った畑が珍しいのか、うかつに近寄っては滑って転んだり、はまって動けなくなる学生が続出してな。見回りを強化しているんだ。この棒を差し出して、はまった者を救出している。

 君たちがこちらに駆け寄ってきたので、心配になって様子を見ていたら面白い話をしていたので参加させてもらった。見ない顔だが学生ではないな」


 はきはきと大きな声で喋る赤毛の美女に、シナツとケヌは圧倒された。


「も、申し遅れました。私はイナハ・ケヌ。王都騎士団兵馬司に勤務しております。本日はスハウ先生の研究室を訪ねました。こちらは付添いのアフミ・シナツ君」


 ドルヌスと言えば、天馬の飼育で有名な渡来系貴族だ。上位者に先に名乗らせてしまったことに気付き、ケヌが慌てて名乗る。


「ほう、スライム研究のスハウ先生のお客か。イナハ…イナハ…ああ、スハウ先生と共著の論文を出している方か!伝説のスライム分裂回数の論文の著者!お会いできて光栄だ」

「…恐縮です…」


 余暇に趣味で変な研究をしている馬医者のオッサンだと思っていたが、実は有名な研究者だったらしい、とシナツは認識を改めた。


「私の稲の研究も、あなたの論文と無関係ではないのだよ」

「え?」

「スライムの収穫が危機にあることを指摘したあの論文は黙殺され、学界以外では話題にならなかった。しかし一部の研究者に危機感が共有された。何とかしなければ将来的な食糧危機が来てしまう、と。

 現状を打破しようとする試みの1つが、スライムに代わる代替作物の模索だ。

 代替作物の研究者の多くは、馴染のある小麦を扱った。だがこの国の気候は、特に主島の東部と南部は小麦の栽培に適していない。夏の暑さや初夏の長雨に強い品種を交雑して作る試みもあるが、今のところあまり成功していない」


 そこで、とクローディアは水田を指さした。


「稲(オリザ)だ!

 もともと稲は、大陸の南部で広く栽培されており、大昔に南方諸島経由で主島のこの辺まで持ち込まれて栽培されていた記録がある。その後我々の祖先がやってきてスライムと小麦を広めたため、南方諸島以外では廃れてしまったんだ」


「へえ、スライムが来なければ、この国は普通に米食文化になっていたかもしれませんね」

 スライム強いなー、と思いながらシナツが相槌を打つ。


「私は南方諸島や大陸から様々な稲の品種を収集、保存し、主島の気候に適した品種を選抜した。同時に品種改良の研究もしている。いくつか適した品種が分かったので、今年からこの圃場で試験栽培を始めたところだ」

「おお、この研究がうまくいけば、お米を王都で食べることも…!」


 前世の祖母の塩むすびの味を思い出したシナツは、すっかり米が食べたくなっていた。


「いや、このままでは稲は主島、特に王都周辺には広まらないだろう」


 そう言うと、クローディアは重いため息を吐いた。


「さきほど君は、稲栽培の問題点を教えてくれた。水の管理とか。だが稲の栽培を主島に広めることを阻む本当の問題はそんなものではない。稲の真の問題は…」

「問題は…?」


 ごくり、とシナツは生唾を飲み込んだ。


「不味いんだ」

「はあ?」


 クローディアの答えに、シナツは真顔になって低い声で訊き返した。

 貴族女性に対する態度としてはあまりに不躾であり、ケヌは慌てた。学問所は身分を問わない活発な議論を推奨しているが、今も昔もそれが建前であることをケヌは知っている。

 しかしクローディアは気にした風もなく、言葉を続ける。


「我々に馴染のない食材なので、南方から米を仕入れ、南方出身者に調理法を教えてもらい、色んな人の意見を聞きたくて、一般学生用の食堂で無料で提供してみたんだ。

 最初は多くの学生が喜んで挑戦してくれたんだが、今では誰も食べてくれない」

「無料なのに!?」

「無料なのに。理由を聞くと、まず一番多かったのが『生臭い』という意見だ。他にも『ぼそぼそして食べづらい』、『味がしない』、『飲み込みづらい』、『そもそも粒粒の集合体が生理的に無理』」


「謝って!お百姓さんに謝って!」

「シ、シナツ君落ち着いて!すみません、変な子だけど悪い子じゃないんです」


 ケヌは慌ててシナツの肩を掴んで止めた。止めなければクローディアに掴みかかっていたかもしれない。


「不味いのは、精米法か保存法か調理法が合っていないんです!お米の声を聞いてー!」


 シナツは絶叫した。クローディアは少年の暴言を気にした風もなく、ふむ、と考え込んだ。


「じゃあ、今から食堂で食べてみるか?君はどうやら米に詳しそうだ。米料理の改善方法が見つかるかもしれない。

 このままでは稲研究の予算が打ち切られるかもしれず、これまでの研究が無駄になってしまうのは私も悔しい。米の声とやらを聞かせてほしい」


 今生で初めて米が食べられる、とシナツは喜んだ。シナツはクローディアについて食堂に行こうとしたが、ケヌはシナツを引き留め、

「申し訳ありません。我々はこれからイナハ先生と打ち合わせがありまして…」

と言った。


「ならば打ち合わせが終わったら、私の研究室に来てほしい。そこの小屋だ」


 クローディアは、水田の近くに建つ小屋を指した。今の時期はこの農作業小屋で仕事をしながら水田にはまる学生を救助しているそうだ。


 何だかとんでもないことに巻き込まれてしまった。ケヌは本来の目的であるイナハとの打ち合わせ前に酷く疲弊した。

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