第21話 スライム危機一髪
朝起きて顔を洗う水が覚悟していたほど冷たくないことに気付き、そろそろ春かと思う頃。シナツは馬医者と一緒に馬場の片隅にある畑にいた。
昨年の秋の終わりに蒔いたエンドウマメの種子から芽が出たのを幼苗の状態で越冬させていた。ここ最近の暖かさでエンドウマメがツルを伸ばして葉を茂らせてきたので、ツルを支柱に誘引した。ちらほら花が咲き始めている。
シナツはまだ小さい蕾の花弁を剥き、開裂前の雄しべを慎重にピンセットで取り除いた。
「この列の1番の花には3番の花粉を付ければ良いんですね」
「そうそう」
3番と名付けた品種の花粉を1番の花の雌しべに付けて、手作りの小さい紙袋をかぶせた。
エンドウマメの交配実験である。異世界メンデルこと馬医者イナハ・ケヌの天馬の遺伝の話を聞いたシナツが、本家メンデルのエンドウマメの実験を思い出して、エンドウマメを使った検証実験を提案したのが昨年の秋のこと。
ケヌが騎士団に相談したところ、業務に支障を来さないのであれば、という条件で、使っていない区画を畑に開墾しても良いとあっさり許可が出た。馬医者の業務とは全く関係ないのに良いのだろうか…
馴染みの種苗屋でエンドウマメの品種をいくつか探し出し、耕した畑に豆を蒔く。そこで自分の仕事は終わったとシナツは思ったが、そうはいくかと父親経由でケヌに呼び出され、授粉作業を手伝わされている。
最近、こういう地味で根気のいる作業ばかりしている気がする。
*****
「あいたたた…」
シナツも最近は父親に稽古をつけてもらい、体を動かしている方だが、中腰で花の蕾をむしる作業は使う筋肉が違うのか、体のあちこちが痛い。それにしてもエンドウマメの花や蕾は小さい。シナツはエンドウマメではなくて花の大きなソラマメの実験を提案すれば良かったと後悔していた。
「すみませんね。私独りでは授粉作業が終わる前に花の時期が終わってしまうところでしたよ。シナツ君が手伝ってくれて助かりました」
「いえ…言い出しっぺなので…」
畑作業の後、シナツは畑の近くにある小屋でケヌに茶を淹れてもらっている。
小屋の中は仕切りのない1部屋であり、真ん中に大きい机と椅子が置かれ、奥の方には馬関係の装置や器具が置かれている。入って左手の棚には書類や本が並び、右手の棚には水槽や鉢植えが並んでいる。
小屋のすぐ傍には水場と簡易のかまどがあり、ケヌはそこで水を汲んで湯を沸かして茶を淹れた。
シナツは、部屋を見廻した。
「ここはケヌ先生の研究室ですか?」
「そんな大層な物じゃありませんよ。馬の治療器具や馬具が押し込められていた倉庫だったのを整理して、休憩もできる場所にしたのです」
ケヌは杖を壁に立てかけて、シナツの対面に座った。
ケヌは若い頃の怪我で左足に後遺症が残っている。日常生活に不便はないが、長時間立ったり長距離を歩いたりすると左足に痛みが出て動きが制限される。
「この水槽、何が入っているのですか?」
「
水槽のガラスは分厚く曇っているため、中が良く見えない。緑色の掌サイズの生き物が蠢いているのが分かった。
「緑色のスライム…あ、もしかして食用スライムですか?」
「いえ、食用スライムではありません。野生のスライムですよ」
「え?でも普通のスライムって無色ですよね。緑色のスライムは生けすで育てられてシリオホラ粉や油になるって聞きました」
ケヌは水槽の1つの中から緑色のスライムを取り出して手の上に載せた。
「このスライムは、私が野生のスライムから作ったまがい物です。食用のスライムとは全くの別物です。もちろん食べても害はないけど、野生のスライムより多少栄養があるくらいですよ。食用のスライムのように、パンを作ったり、砂糖や油を搾ることはできない」
「へえ。どうやって緑色にしたんですか?」
「野生のスライムを緑色の藻が繁茂した水槽に入れ、日当たりの良い場所に置きます。他に餌を与えずに。するとスライムは藻を食べます。食べた藻の一部が消化されずに残り、スライムと共生関係になったのがこのまがい物の緑スライムです。
この緑スライムを光の当たる場所に置いて育てると、緑色のまま元気に分裂します。しかし日の当たらない暗所で育てると、無色のスライムに戻ってしまうのです。
これは、光のある場所では藻が栄養を作ってスライムに分け与えているのに対し、暗い場所では藻が栄養を作れず、スライムが共生関係を解消して藻を消化してしまうせいではないかと思われます。シビアな関係ですね」
「な、なるほど」
早口でまくし立てられ、シナツは気圧された。
騎士団勤めというのは公務員のようなものだと思うけど、こんなに業務とは無関係の研究を職場でやっても良いのだろうか…今更だが。
「この緑スライムと食用の緑スライムとは何が違うんでしょうかね」
「分かりません。食用スライムは大昔に渡来系貴族のプルケル家の祖先が我が国に持ち込んだ物です。現在の技術では再現することができません。このように野生のスライムを藻と共生させて作ったことまでは分かっているのですが…スライムの品種が違うのか、藻の品種が違うのか…
野生のスライムから食用のスライムを作り出すことは、かつての私の研究テーマだったのです」
「あ、そう言えば、学問所を卒業されたんですよね」
「ええ、まあ…スライムの研究は、最重要課題なのです。昔も今も」
ここでケヌは、声をひそめた。
「大きな声では言えないのですが、スライムの収穫量は年々下がっています」
「え…大問題じゃないですか」
庶民の食卓は
「正確には、種スライムの分裂回数が減ってきているのです」
「種スライム?」
「あー、農家の子供じゃないと知らないですよね。
スライム農家は、数年に一度、錬成院という国のスライム管理施設から種スライムを購入するんです。この種スライムを生けすに入れておくと、スライムは1匹が2匹、2匹が4匹と2のべき乗で分裂して増えます。
ある程度増えたら数匹を残して収穫し、粉や油に加工します。生けすに残ったスライムは再び分裂して…ということを数年繰り返していると、やがてスライムは分裂を停止して増えなくなります。
そうなったら農家はスライムをすべて収穫し、再び錬成院から種スライムを購入して…となります」
「へえ、永遠に分裂する訳じゃないんですね」
「この購入間隔が、年々短くなっているのです。種スライムを購入してから分裂が停止するまでの時間が短くなっている。つまり分裂回数が少なくなっているのです。
具体的には、記録の残る300年前から100年前までは安定して平均10年に1回購入だったのが、徐々に短くなって、最新の記録では、7年に1回の購入になっています」
「100年前に何かあって、種スライムが弱ってきている…?」
「あるいは100年前まではスライムが弱らないようにする何らかの方策が取られていたが、100年前からそれが行われなくなったか」
「100年前というと、遷都が行われた頃ですよね」
シナツは歴史の授業を思い出しながら言った。主島の西にある古都クジフルから、今の東側の王都に引っ越したと授業で聞いた気がする。今でも西の住民たちにとって、都とはクジフルを指し、歴史の浅い王都のことは「東都」と呼んでいるらしい。
「遷都の数年前には渡来系貴族筆頭であったプルケル家が反乱を起こし、鎮圧されています。プルケル家は食用スライムを管理していた一族です。
反乱の鎮圧の際に、プルケル家の主屋敷は全焼、地方にいた分家を除いて一族はほぼ全滅しています。種スライムは王家の兵によって確保されましたが、食用スライムに関する知識の多くがこの騒動で失われたようです。
王家は、プルケル家の生き残った分家を錬成院に所属させ、種スライムの管理を任せましたが、おそらく…いえ、ほぼ確実に、彼らにはスライムに関する知識がない。
地方に平和に暮らしていたらある日突然王家に呼び出され、本家の反乱の連座を逃れたければスライムを管理せよと命じられ、知識のない状態で頑張っている分家の皆様には同情しますが、できないことはできないと正直に言って、できる人の助けを乞うべきだと思いますね」
ケヌは吐き捨てるように言った。
穏やかな性格の彼にしては珍しく、嫌悪感をあからさまにしている。
「…辛辣ですね」
「錬成院には恨みがあるのです。種スライムを調べれば分かることも色々あるのに、調査を拒んで門前払いにするわ、記録を見せてもらおうにも、申請書を何枚も書かせた挙句却下するわ、分裂回数低下の論文を書けば投稿差し止めしようとするわ…思い出しただけで怒りが湧いてきます。
隠蔽体質と言いますか…問題が起こっていることに気付かないふりを続けていればやり過ごせると思って、問題を悪化させている人たちの集団なのです」
「………」
当時を思い出してヒートアップするケヌ。シナツは賢明にも口を挟まず黙った。
「スライム農家は、種スライムの購入頻度が上がっているのを価格に転嫁しています。国からの補助もないため、スライム関連の商品は値上がりする一方です」
「え?補助や介入がないんですか?主食なのに安定供給を目指さないんですか?」
「おそらく国の上層の方々は、食用スライムが弱っていることに気付いていません。価格の上昇は数字として知っているでしょうが、不作の年が続いているぐらいの認識なのでしょう」
「そんな馬鹿な」
「そもそも王侯貴族はスライムを食べません。値上げの実感が薄いのかもしれません」
そう言えば、金持ちは小麦のパンを食べているのであった。ケヌは重い溜息を吐いた。
「錬成院はぎりぎりまでスライム弱体化を隠すでしょう。その間に種スライムは完全に分裂を停止する。農家が種スライムを買っても増えず、スライム農家はスライムを生産できない」
シナツはゾッとした。スライムでできた庶民の食卓が崩壊する。小麦は全国民の胃袋を満たせるほどの量がない。
暴動が、革命が起きる。
『スライムのパンがなければ小麦のパンを食べれば良いじゃない』
想像の中で、昔のキャバ嬢のように髪を盛った王妃がそんなことを嘯く。
シナツは、この国がかなり崖っぷちにあることに気付いてしまった。
「まあ計算では、スライムが完全に分裂を停止するのは100年以上後ですがね」
ケヌがあまり慰めにならないことを呟いた。
シナツは喉がカラカラに乾いていることに気付き、すっかり冷めた香草茶を飲んだ。
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