第19話 To BL or NOT to BL(前)
「今から何百年も前のことだ。皆のおじいさんのおじいさんも生まれていない大昔に、花の古都クジフル――その頃は寂しい漁村だったが――に、海神の姫君が訪れた。姫君は村の若者と恋に落ち、やがて男児を産む。この子供が成長して、この国を統一する初代王イサガになる。イサガ王の冒険は、有名なイサガ王物語を読んだことのある君たちならよく知っているだろう。
イサガ王には、武王や賢王や舞王といった姫君の眷属が付き従った。彼ら眷属はイサガ王を佐け、各地の豪族と戦い主島を統一し、重臣の家の祖となった。彼らの子孫は渡来系の貴族として今も残っている。
渡来系の貴族はそれぞれ海神の秘術と呼ばれる特殊な技術を持っていた。特に有名なのが、ブルトゥス家の養蚕、プルケル家のスライム、ドルヌス家の天馬、ストラボ家の製塩だ。
ああ、姫君の眷属の子孫の家は現代にも残っていると言ったが、1つだけ途絶えてしまった家がある。舞王の子孫だ。舞王の記録は、イサガ王が亡くなる少し前に途絶えている。謀叛を起こそうとして粛清されたとか、窮屈な宮仕えに嫌気がさして出奔したとか、色々な説があるが、歴史書には全く触れられていない。古代史の大きな謎とされている」
真昼を告げる鐘の音が王城の方角から聞こえた。
「では本日の授業はこれまで。寄り道せずに帰ること」
歴史の教師はそう言って、教室を出た。手習所の授業は朝から昼までの半日である。家の手伝いがある子はすぐに帰宅するが、予定のない子は手習所に残って自習することが許される。
主島の南東に位置する王都は温暖だが冬の間に数日は雪が降る。風氷月の空は厚い雲に覆われ、今にも雪が降りそうだ。授業が終わると多くの子供が教室を出て家路を急ぐ。暖房器具が火鉢のみの寒い教室に残る子はいつもより少ない。
ヲシマ・イヨは、教本を鞄にしまうと、教室の後ろを見た。
教室の後ろには本棚が並び、その棚には辞書や図鑑などの学習参考書に混じって、卒業生寄贈の小説などの娯楽本が収められている。持ち出し禁止だが、手習所に通う子供は自由に閲覧することができる。
その本棚の前に立つ少年が1人、歴史書を1冊選び、手に取った。
さらさらの黒髪に青い眼。すらりと背の高い体は騎士の子らしく姿勢良く、本の頁をめくる仕草は品がある。
アフミ・シナツは、眉目秀麗、品行方正、成績優秀なことから、手習所の女子の間で密かに人気がある。
彼には謎が多い。
王都は最も北に王家の森があり、その南に、森に背を守られるように、城壁で囲まれた王城がそびえ、そのさらに南に市街が広がる。市街は16の区でできており、それぞれの区はいくつもの房に分けられる。王城に近い北の1区から8区を上区、南の9区から16区を下区と呼んでいる。
基本的に身分が高い者ほど数字の小さい区に住み、上区の中でも1区から4区は高位貴族の王都屋敷が並ぶ高級住宅街だ。
下区には下級騎士や中小規模の商家や職人が多く住む。下区の子供たちは、歩けるようになると親兄弟に連れられて近所の子供と交流する。同じ房の者は皆、顔見知りであり、個人情報の保護という概念もないことから、どこそこの娘が旦那と喧嘩して出戻っているとか、あちらの旦那とこちらの女房が不倫しているといった情報が共有されている。
そんなご近所ネットワークから外れているのがアフミ家だ。
9区4房に居を構えるアフミ家は、シナツの祖父母の代で西の方から越してきた「新参者」だ。アフミ家は西の方では名家として知られているらしいが、そんな家の者が東に流れてくるなんていかにも訳ありであろう、と周囲から少し距離を置かれている。
色の薄い美しい面立ちのアフミ家の人々は、黒眼黒髪の多い下区にあって、異彩を放っており、明らかに浮いている。
また、今の当主の妻アシナは、上区の大店の娘で、あまり近所に馴染めていない。
というのも、当主キサカは幼い頃から美しく、近所の女性からアイドル的な扱いを受けていた。アイドル、つまり偶像として皆で陰から見て楽しむため、近所の妙齢の女性たちは抜け駆け禁止令を出して相互に牽制し合い、声掛けも禁止していたのだ。
自分が話しかけようとすると女の子は逃げ出すので、キサカは自分が近所で嫌われていると思っていたのだが。
そんな高嶺の花的アイドルのキサカの妻の座に、ある日突然、ぽっと出の女が納まったのだ。2人の結婚当時、アフミ家の近所は暴動が起きそうなほど荒れに荒れた。アシナは今でもご近所の若奥様グループから距離を置かれている。
長男のシナツは、噂では5歳頃に大病を患ったとかで、家に引きこもって療養に努め、7歳の秋祭りの日まで生死不明であった。
下区の手習所に通う子供たちは、既にご近所同士顔見知りであり、友人関係が構築されており、房単位でグループが形成されていた。
そんな中、シナツだけが誰の顔も名前も知らず、「1人だけ転校生」状態で手習所に入所したのであった。
そんな複合的要因でボッチになったシナツだが、周囲の評価は、なんと「病弱で陰のある、高貴な血筋のミステリアスな美少年」であった。
そうこうしているうちに、怖いもの知らずのハヤヒトとスルガがシナツに声をかけ、気が合ったのかこの2人とよくつるんで行動するようになった。ハヤヒトたちと遊ぶ姿を見るうちに、シナツも普通の子供であることが分かり、声をかける子も増えてきた。
ヲシマ・イヨもまた、彼に声をかけてお近づきになりたい女子の1人であった。
*****
「歴史が好きなの?」
イヨがそう問いかけると、シナツは本から目を上げてイヨを見た。彼の青い眼を近距離から初めて見たイヨは、秋の空のような青さだと思った。
「ちょっと調べものをね。ヲキ王のことを知りたくて」
「ヲキ王は…たしか特許法を廃止した3代前の王様よね」
「ヲシマさん、特許法を知っているの?」
イヨは、ほとんど交流のない自分の名前をシナツが知っていることに驚き、そして嬉しく思った。
「う…うん。ウチは商家だもの。特許について興味あるよ」
本当は最近親が話題にしていたのを偶々知っていただけで、特許がどんなものか分かっていないが、イヨは背伸びしてそう答えた。
「へえ。ヲシマさんのお家は何を扱っているの?」
「袋物。鞄とか巾着とか。皮も扱うけど、布物が中心かな。アフミ君のおじいさんのお店とも取引があるよ」
「本当?祖父がいつもお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそ」
2人は、商人がよくやる挨拶――腰に手を当てて45度の角度でお辞儀をする――をやって、顔を見合わせて笑った。
「ウチのお父さん、アフミ君のこと褒めていたよ」
「え?ヲシマさんのお父さんが?何で?」
イヨは、帆布で作った丈夫な肩掛け鞄を肩から下ろしてシナツに見せた。
「ほら、ここに『袋とじ』をつけたの。『袋とじ』はアフミ君のアイデアだってアフミ君のおじいさんが言ってたって」
「ふくろとじ…」
イヨの鞄の口には、金属製の線ファスナーが付けられていた。
年末年始の地獄のファスナー開発を経て、
「あ、じいさんが[線ファスナー]を売った鞄屋さんってヲシマさんの家か」
「[線ファス]…?」
「…『袋とじ』のこと…」
売り出すにあたって、[線ファスナー]や[面ファスナー]は語呂が悪いらしく、ヒカワはもっと親しみやすい商品名を付けたいと言った。
そこで[面ファスナー]は、ループとフックの原理を説明するときに例としてシナツが挙げたオナモミの実(いわゆるひっつきむし。フック状のとげを持つため、衣服にひっつく)から、『オナモミ』と名付け、[線ファスナー]は、袋物を閉じる道具だから『袋とじ』と名付けた。
『袋とじ』はちょっと…としぶるシナツに、じゃあ『シナツ袋とじ』はどうじゃ、とヒカワが言えば、シナツは『袋とじ』でお願いします、と折れた。
「どう?鞄が重くなって使いづらくない?」
とシナツが問うと、イヨは鞄を肩にかけ直し、
「あまり気にならないよ。ほら、簡単に開け閉めできて便利だよ。勢いよく開け閉めするとひっかかるから注意が必要だけど」
と言った。それを見てシナツは、
「いいね、この鞄。もうお店で売りに出しているの?俺も買いに行きたい」
「ぜひ来て。開発者のアフミ君には割引するよ」
実は、イヨはともかく、イヨの父は、シナツが本当に商品開発したとは思っていない。せいぜい子供の視点から改善のアイデアを出したり、名前をつけたりといった補助的な役割を果たしたのだろうと思っている。
大事なのは、シナツの祖父のヒカワが「孫のシナツが開発した」と公言していることである。彼は、『オナモミ』や『袋とじ』の他にも、『シナツ袋』や上区の人気レストランで出される新しい料理のレシピもシナツのアイデアで産まれたと言っている。
これは、後継者に下駄をはかせて商売を引き継ぐ布石。
ヒカワの爺バカ発言を聞いた者は皆、そう思った。店の継承をスムーズに行うため、まだ幼い孫に実績を積ませているのだ、と。
本当に7歳の少年がアイデアを出して開発にもがっつり関わっていることは、ごく一部の者を除いて知らない。
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