第11話 記憶の残るタイプの酔っぱらい
夕食後の風呂上りに冷たい水を飲み、シナツは居間でふう、と息を吐いた。頭から被っている木綿のパイル織りのタオルは柔らかく、前世の新品のタオルと比べても遜色ない、とまで言っては言い過ぎだが、使い古して雑巾にする直前のタオルよりも柔らかく吸水性が良い。
先に風呂に入った祖母と母と妹は、客間の布団で川の字になって寝ている。
上区の祖父母の家には上下水道が引かれ、トイレは水洗で、小さいが風呂場もある。良い香りの石鹸も洗髪用の洗い液も揃っており、シナツはつい長湯をしてしまった。
下区のアフミ家では、公共の水場から水を汲み、汲取り式のトイレが庭にある。風呂はなく、近所の湯屋に通っている。
王都内でも北の上区と南の下区の南北格差は顕著である。こんな快適な環境から下区に嫁に来た当時の母の苦労が偲ばれる。
「シナツ、ちょっといいか?」
書類を抱えたヒカワが居間に入ってくる。
「これが[コロッケ]と[からあげ]の製造販売許諾の契約書と、代理人契約の書類じゃ。
そしてこちらがシナツ袋の型紙と図面、権利をこちらに譲る契約書」
昼過ぎに工房に籠ったと思ったら、これだけの書類を準備していたのだ。大店の店主は伊達ではない。
「シナツ袋って言うな!ところで、[コロッケ]や[からあげ]は、この契約をしたら俺は家で作れなくなりますか?」
「そんな心配はない。普通に作ってくれて構わない。契約書に書いてあるじゃろ」
前世の知識はあっても、この世界の知識は7年分しかないのだ。契約書に小さい字で書いてある小難しい文章は、半分も理解できない。
文章が難しくて分からないと言うと、ヒカワは契約書を子供でも分かるように説明してくれた。
「シナツ袋についてじゃが、ウチの店で販売するまでは、シナツ袋を付けた
「シナツ袋って言うな。でも新品の下衣ありがとうございます」
他にもいくつか質問し、納得した後にサインし、親指にインクを付けて拇印を押した。相場が分からないので、特に金額の交渉はしなかった。レシピとポケットの代金は、合わせてだいたい7万ケノであった。
「金はどうする?大人にとっては大した額ではないが、子供が持ち歩くとトラブルの元になるかもしれん。現金でない方が良いか?」
「現金以外って…まさか[ギルドカード]があるの!?」
ファンタジーでお馴染みの便利な通帳システムがこの世界にもあるのかもしれない。シナツは目を輝かせた。
「[ギル]…何だって?銀行で手形を作ってもらうんじゃ」
「あー、はい、そんなことだと思っていました。お願いします」
スン、とした顔になって、シナツは言った。この世界は、隙あらばシナツのファンタジーへの憧れを打ち砕く。
急に喜んだりがっかりしたり相変わらず変な孫だ、と思いながら、ヒカワは鈴を鳴らして従僕を呼び、赤いインク壺を持ってこさせた。
「お主の個人番号は覚えておるか?」
ヒカワの言う『個人番号』とは、秋祭りの日に神殿で貰った札に書かれていたマイナンバーである。暗記するように神職に言われていたので、頑張って覚えたのだ。
シナツが肯定すると、ヒカワはつるりとした白い板を取り出し、シナツにペンを渡し、
「この板の端っこに個人番号を書け」
と言った。
シナツが番号を書くと、ヒカワは赤いインク壺の蓋を開け、筆を浸し、シナツの左の掌に塗り、白い板の中央に押し当てた。シナツが板から手を離すと、子供の赤い手形がくっきりと白い板に残った。
「明日、銀行に届けておこう。ついでに、今回の金額を振り込んでおく。これで、全国どこの銀行に行っても、金を出し入れできるぞ。早めに確認しておけ」
「まさか本当に手形を作るとは…掌紋認証システムなのか?ハイテクだな…」
そう呟きながら、シナツは洗面所で手を洗ってインクを落とした。
訳も分からず暗記したマイナンバーだが、ようやく役に立ったな、とシナツは思った。
居間に戻ると、ヒカワは書類を片付け、酒の用意をしていた。
「お酒ですか。珍しいですね」
シナツは、手酌で酒を飲み始めたヒカワに言った。外で付き合いで飲むことはあるが、ヒカワはそれほど酒に強くない。家で飲むことは滅多にない。
「いや、新商品の前祝いがしたくてな。シナツ袋に乾杯じゃ」
「シナツ袋って言うな。気が早いですよ。売れるかどうかも分からないのに」
「いや、あの
正直、シームポケットなんて珍しいものではないし、誰でも思いつきそうなものだとシナツは思っているが、この国で長年商売人をやっている祖父がそう言うのだから、売れるのかもしれない。
時間をかけて開発してきた料理のレシピ(前世の知識のパクリだが、この国の食材で作るために試行錯誤を繰り返してきたのだ)よりも、適当に作ったシームポケットの方が喜ばれるのは、内心思うところがないわけではないが…
「ほら、お前も飲まんか。貰い物の
「子供に酒を勧めるな!」
杯の半分も飲んでいないのに酔っぱらったのか、ヒカワは酒瓶をシナツの頬に押し付けてくる。この国では飲酒の年齢制限の法律はないが、基本、成人前の子供には飲ませない。
すっかり酔っぱらったヒカワにうざ絡みされながら、他に衣類関係のネタはないのか訊かれ、シナツはつい、線ファスナーや面ファスナーのアイデアについて話してしまった。特許の授業のことを思い出したときに、ファスナーの発明についてレポートを書いたことも思い出したのだ。ファスナーの原理を聞き興味を持ったヒカワは、ファスナー開発に乗り気になった。
酔っぱらい祖父が寝てしまったので、シナツはベルを鳴らして従僕を呼んで、寝室に運んでもらった。やれやれと思いながら、机の上を片付け、客間のふかふかの布団でぐっすりと眠った。
「シナツ、[ファスナー]とやらについてもっと詳しく聞かせてくれ!」
翌日、シナツは、昨夜の酒が全く残っていない生き生きとした祖父に迫られた。ヒカワは記憶の残るタイプの酔っぱらいであった。
この時、シナツは手習所の授業があるから、と逃げ、ヒカワも他の仕事が忙しくファスナーについては一旦保留となった。
だがその後、シナツがすっかりファスナーについて忘れた頃、ヒカワが突如として、
「[ファスナー]開発、やろう」
と言い出したのだ。
そして祖父と孫は、ファスナー開発地獄へと突き進むことになる。
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