第2話

「パパ! はやくしてよ」

 一足早く玄関で靴を履き終わった瑠璃がリビングで着替えている磯川に向かって言葉を投げた。

「パパもうちょっとでお着替え終わるからもうちょっと待ってて上げて」

 香美が瑠璃を抱きしめながら優しく説得すると、瑠璃は大きく頷いた。瑠璃の中身が杏奈だということも知らずに、香美は瑠璃に向けるあたたかな笑顔で頭を撫でた。

 杏奈が瑠璃の身体を乗っ取って一ヶ月が経つ。瑠璃の精神は戻ってくる気配がない。一方の杏奈もこれ以上復讐する気が本当にないのか、香美や友達の前で瑠璃のふりをして生活している。杏奈の本性を見せるのは磯川と二人きりの時だけだった。

「パパ、おてて繋いで」

「もう二人きりなんだから瑠璃のふりしなくてもいいだろ、気持ち悪い」

「だってこの道沿いの家はみんな友達の家なんだもん。バレちゃうよ、それもでもいいなら……」

「わかったわかった」

 瑠璃の手は相変わらず小さかった。見下ろすと目が合った瑠璃、いや杏奈が意味ありげな笑みを浮かべてくる。磯川はその背景に死ぬ前の杏奈の顔を思い浮かべるのだ。寒気が止まらない。これが一生続くのだろうか。目の前には信号のない横断歩道がある。朝の時間は車通りが多く、何度も左右を見て通らないと事故に巻き込まれそうだった。このまま瑠璃、いや杏奈の背中を押したらどうだろうか。磯川は一ヶ月間、何度も同じことを考えるが、行動に移すことはなかった。

「パパ、いこ」

「うん」

 結局手を繋いで横断歩道を無事にわたり終えるのだった。


 杏奈の振袖は香美が成人式に着用したものだったので、十万円近くの出費をせずに済んだ。瑠璃の身体を杏奈が乗っ取ってから十五年。杏奈はついに成人式を迎えた。身体は瑠璃として成長し、自分の子どもながら美しく育った。ただ、ところどころに杏奈の表情があり、ずっと複雑な気持ちを抱えた十五年だった。未だに中身はずっと杏奈で瑠璃は戻ってこない。成人を機に瑠璃に戻るのではないかと万が一、億が一のことを考えたが、当然そうなることはなかった。

「お父さん、今までありがとう」

「え?」

「もう、はずかしいから一回で聞き取ってよ。ここまで育ててきてくれてありがとう」

「あ、ああ……」

 杏奈にはいつか殺されると思っていた。しかし、杏奈は磯川を殺すことはもちろん、殺そうとすらしなかった。むしろ二人きりの時ですら「お父さん」と呼ぶようになり、磯川も「瑠璃」と呼ぶことに違和感がなくなっていった。つまり十五年のほとんどを、杏奈を瑠璃として接してきた。

 妻が義母を呼びに行き、杏奈と二人きりになった。

「なんで俺を殺さなかったんだ」

「何? 急に」

 杏奈は柔らかい笑みを浮かべて振り向いた。その面影は杏奈そのものだった。磯川は言葉が継げずにいた。

「この身体になったころは何度も殺そうとしたよ。手を繋いでるときに車道に押し込もうとしたり、一緒に川にハマりにいったり」

「そうなのか?」

 杏奈は微笑む表情を変えずに艶やかに喋り出した。その内容は艶やかとは程遠く、磯川の身に全く覚えのないことばかりだった。

「でも、子どもの身体じゃ予想以上に力がないから、どんなことしても殺せないんだよ。なら奥さん殺して絶望させてやろうと思ったけど、私のことめちゃくちゃ可愛がってくれるうちに情が湧いちゃって殺せなくなるし……。いつの間にか瑠璃として生きていこうと思ったんだ」

「じゃあ、もう俺を殺さないのか」

「そうなるね。まあ、今殺したら普通に逮捕されちゃうし。上手くいかないもんだね」

「俺のことは恨んでるだろ」

「そりゃあ、ね。生まれ変わる前の杏奈の頃に見捨てられたわけだし。でも、もうどうでもよくなったって感じかな」

 香美が戻ってきたので会話が途切れた。義母は杏奈の晴れ姿に涙を流している。去年、脳梗塞で倒れて以来車いすがなければ移動できなくなった。義母なりに孫の成人式を迎えることができないかもしれないと思っていたようだった。

「瑠璃ちゃんきれいやなあ。綺麗すぎて眩しいわあ」

 何度も杏奈に同じ文句を言っている。杏奈は車いすに座る義母と同じ目線になるようにかがんで喋っていた。

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