瑠璃の中の声

佐々井 サイジ

第1話

 瑠璃の三歳の誕生日、妻の香美は瑠璃を寝かしつけながら自分自身も寝てしまっていた。今年の瑠璃の誕生日は三連休の真ん中ということもあり、部屋を飾りつけ、たくさんの手料理、ケーキまで手作りして力を尽くしていたからだった。

 磯川は青いソファーに横たわっていた。肘沖は固く中途半端な高さのため、枕としては不向きだった。真ん中が他より凹む気がする。三年も使っていれば古くなっても仕方ない。磯川はそう思いつつ、パンツごとズボンをずり下げた。スマートフォンで卑猥な動画を物色し、お目当てのものが決まったのだ。

 瑠璃が生まれてから香美と性交渉が途絶えていた。自分で処理しないとおかしくなりそうだった。会社の忘年会で、横に座った後輩の女と関係を持ってしまった。妻が里帰り出産で家にいなかった時期だ。その後しばらくして女は会社の人間関係に鬱になり退職して故郷に帰っていったことで誰にもバレることはなかったが、自分がまた不倫してもおかしくはないくらい性欲が溢れてきていた。

 最高潮を迎えようとしたとき、背後に視線を感じた。反射的にスマートフォンの画面を暗くし、ズボンを上げる。背後には瑠璃が立っていた。見られたのだろうか。瑠璃は表情なく磯川を凝視している。

「お、起きちゃったか? おしっこか?」

 瑠璃は返事をしない。

「どうした寝れないのか」

 何を聞いても反応がない。どうしたというのだろう。勃起していた陰茎は力なく萎んできたことが分かった。それでもわずかにズボンを膨らませており、瑠璃に見えないようソファーの背もたれで覆い、瑠璃と向き合った。顔色が悪いわけではない。さっきまで自分の誕生日会ではしゃぎ続けていたから眠れないのだろうか。

「皆が寝た頃に一人でずいぶん楽しんでたんだね」

 磯川は周りを見渡した。今誰か喋ったのか?

「目の前にいる私だよ。今のは」

「瑠璃? いつからそんな流ちょうに……」

 どことなく聞き覚えのある喋りかただった。抑揚はないが感情が沸々と盛り上がるのが感じられる喋り方。誰だ?

「アンナだよ。覚えてる」

「アンナ?」

「本宮杏奈。あんたに見捨てられた本宮杏奈だよ」

「へ……」

 本宮杏奈はまさしく磯川が妻の里帰り出産中に関係を持った会社の後輩の女だった。瑠璃がなぜその名前を知っているのか。

「鬱になったとき、あんた、全然助けてくれなかったよね。それで会社を辞めたあと故郷に帰ったけど、全然だめで、自殺しちゃった。そしたらこの小さい子の身体に乗り移ってるんだもん。びっくりしちゃった」

「おい瑠璃。どうしたんだ」

「てめえいい加減気づけよ。私は生まれ変わったんだ」

 磯川の身体はビクンと跳ね上がった。別れる間際、話し合っていると急にヒステリックな声を上げて磯川を非難し始めた杏奈の声そのものだった。

「本当に杏奈なのか……」

「さっきから何度もそう言ってるよね」

 何度見ても外見は三歳の愛娘である瑠璃だった。しかし、非難を訴える目つきは、別れを切り出したときの杏奈の目つきそのものだった。

「瑠璃は……。瑠璃は大丈夫なのか」

「そんなの私にはわかんない。私はこの身体の主になったから、瑠璃ちゃんは死んだんじゃない?」

「そんな……」

 言葉を失う磯川を尻目に、杏奈は玄関に置いてある姿見を見つけてとことこと歩き出した。

「あなたが父親のわりにはかわいい見た目した娘だったんだ。残念だったね。享年三歳か」

「黙れ!」

 磯川は無意識のうちに言葉を発していた。

「黙れ? あんたがそんなこと言えるんだ。自分の性欲を発散するために都合よく私を口説いてセックスして、奥さんが帰ってきてバレそうになったときに私の会社の人間関係が悪いことに付け込んで助けてくれなかった。それどころか一方的に別れ話まで持ち出して、よく言うよね。びっくりした」

「最初はお前が誘ってきたんだろ。都合よく話を変えてんじゃねえ。それにお前の性格が災いして会社で孤立してたんだろうが。それ以上でも以下でもねえ。俺がお前を振ったのも、何でも人のせいにするお前の身勝手さに嫌気がさしたんだ。性欲の発散の道具としか見ていなかったわけじゃねえよ。お前の人間性そのものが嫌いになったんだ」

 杏奈は姿見から戻ってくる。言い過ぎただろうか。瑠璃の身体に乗り移った杏奈はもはや何をしてくるか予想がつかない。

「そうよそう。私は身勝手、自分勝手。昔からずっと誰かにそう言われて育ってきた。直そうとしたけど直せなかった。そのまま人生を終えた。ならいっそ死んでも身勝手なままでいてやろうと思ったの。そしたら瑠璃ちゃん? の身体で意識を取り戻したんだよ」

「ふざけんな。瑠璃を返せ!」

「嫌。っていうかそんなできる方法わからないよ」

「じゃあお前は何しに来たんだ」

「私だってわからないよ。強烈にあなたのことを憎んでたら瑠璃ちゃんの身体で復活したばっかりなんだから」

 杏奈は瑠璃の身体を舐め回すように見つめている。

「これからどうしようかなあ」

 測りかねる意味を含めた目で磯川を凝視している。

「頼む、頼むから瑠璃を返してくれ」

「よっぽど瑠璃ちゃんがかわいいみたいだね、私なんかより」

「悪かったよ。謝るから、瑠璃を……」

「都合のいいことばっか言ってんじゃねえぞ性欲野郎が」

磯川は涙を堪えられなかった。あんなに愛していた瑠璃が、いなくなってしまった。自分のせいで。

「どうしたの、パパ?」

「瑠璃……」

 頭を上げると目を真ん丸にした瑠璃が磯川を見下ろしていた。しかし、その目つきはすぐに鋭くなった。

「うまかった? 瑠璃ちゃんのまね」

「くそ……」

「まあ怒らないでよ。私、瑠璃ちゃんとして生きていくから」

「どういうことだよ」

「せっかく生き返ったんだもん。でも瑠璃ちゃんの身体だから杏奈として生きていくのは当然無理だし。瑠璃ちゃんとしてこれかた生活していく」

「ふざけんな」

「じゃあ殺してみなよ。それが無理なら施設にでも送り込めばいい。別に仕返しなんてしないよ。瑠璃ちゃんの精神を奪っただけでもう仕返し完了してるからね」

 磯川はゆっくりと瑠璃の身体を乗っ取った杏奈の首に触れて力を入れた。しかし、苦しそうな表情は瑠璃そのものだった。ほっそりとした首から手を離し、拳をつくって自分の頬を殴った。

「殺せるわけないだろ」

「じゃあ施設に……」

「それも無理に決まってんだろ、娘なんだから」

「じゃあかつての浮気相手を娘として迎えてくれるんだね」

「それしかないだろ。いつか瑠璃が戻ってきてくれるのを待つ」

 磯川は瑠璃の身体を奪った杏奈と過ごしていくことに決めた。

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