戻らない日々、変わらない想い

香(コウ)

第一話

 2009年6月某日、北海道某市。


 深夜二時を回った頃。

 自宅に帰ったあやは、啜り泣きながら薄暗い階段を上っていた。

 つい数時間前まで誕生日を祝われて感じていた幸せは、もう消え失せている。


 向かっているのは5歳年下の弟の部屋だ。

 今の時間、彼は既に眠っているに違いなかった。


 彼の部屋の前に辿り着き、ドアノブに手をかけるも──

 綺は一瞬開けるのを躊躇ってしまった。

 

 しかし、この向こうにいるのは最愛の弟なのだ。

 強くそう思い直して唇を噛み締め、ノックもせずにドアを開ける。


 暗い室内。

 遮光カーテンの隙間から微かに月明かりが漏れていた。

 綺は部屋に足を踏み入れ、その光を頼りにして奥にあるベッドまで歩みを進めた。


 ベッドの上には、ぐっすりと眠っている弟の姿があった。

 整った目鼻立ちをしているが、ほんの数ヶ月前に中学3年生になったばかりの、まだあどけなさが残る少年だ。

 

 綺は力なくその傍らに跪き、彼の寝顔を見つめた。


『綺。お前には一族にとって重要な役割がある』


 数時間前に聞いた父の冷たい声が頭に蘇り、再び涙が溢れる。

 愛しい弟の姿が夜の闇に滲んだ。


けい……ごめんね……ごめんね……」


 彼の純黒の髪を撫でてやることもできず、綺は謝罪の言葉を繰り返しながら泣き続けた。


 胸に渦巻くのは悲しみと絶望、そして己の役割に対する異常なまでの嫌悪感だ。

 しかしどれだけ定めを受け入れたくなくとも──たった一人の大切な弟が、周囲の人間に、愛されながら生きていけるようにする為にはこの道を選ぶしかなかった。


 ひとしきり泣いたあと、綺は重い足取りで彼の部屋を出た。


 着替えもせずに自室のベッドに横たわり、天井を見つめる。そして、今まで彼と過ごしてきた日々をひたすら思い返した。


 自分の元には二度と戻ってこないであろう、穏やかな日々を。



 ◇

  ◇

   ◇



 翌朝、午前6時頃。

 あやはダイニングテーブルで紅茶を飲んでいた。

 土曜日だったが、父は仕事で家を出ている。

 母の真咲まさきはいつもどおりキッチンに立っていた。


「綺。大丈夫?」


 朝食の準備をしながら真咲はそう尋ねてくる。彼女の顔も少し悲しげに見えた。


「……うん」


 かろうじて頷いたが──大丈夫なわけがない。

 これからどんな顔をしてけいと接しろと言うのか。

 自分の中では、何もかもが分からないままだった。


「綺。昨日お父さんに言われたは……、果たさなくてもよくなるから。辛いだろうけど、頑張っていこうね」


 母の言葉に、またどうしようもない不安と絶望感が込み上げる。膝の上に置いた手をきつく握り締めた。


 何も言えずに沈黙していると──

 背後から、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。


 途端に背筋が強張る。鼓動が速まる。

 テーブルに置かれた小さな白い花瓶から目を逸らせない。


「あら馨、おはよう」

 

 真咲がいつもの調子で明るく呼びかけると、眠そうな返事が聞こえた。

 そして綺の隣の椅子──いつもの定位置に彼は座る。


 綺は彼の方を見ることができなかった。


「珍しく早起きねえ。どうしたの?」


 真咲が穏やかに問いかける。

 すると彼は気怠そうに深く溜め息をついた。


「先月転校してきたあいつから、さっき電話来て……目冴えて寝直せなかったから起きてきた」

「ああ、与那城よなしろくんだっけ? 何て電話だったの?」

「今日か明日の午後、暇かって」

「あらそう! 良かったじゃない。遊びに行っといで?」

「うーん……」


 母は楽しげに促すが、馨は不満そうに唸る。


「あいつずっとテンション高くて、なんか調子狂うんだよな」

「でもいい子でしょ、わざわざ誘ってくれるなんて。折角なんだから遊んできなさい?」

「んー……」


 彼はまだ唸っている。

 いつもだったら綺も母に便乗して遊びに行けと促しているところだ。しかし、今日は言葉が何も出てこない。


「あのさ、姉貴」

「……!?」


 突然呼びかけられて驚きで肩が跳ねる。

 その拍子に彼の方を向いてしまい、眠そうな双眸と目が合った。


与那城よなしろのギャグがさ、毎回微妙に面白くないんだけど、姉貴ならどう対処する?」

「えっ、あ、私……っ」

「大学にもいるでしょ。そういう、なんか反応に困る奴」

「……えーと、その」


 綺はその眼差しに動揺して目を泳がせた。

 思い出したくもないのに、またしても昨夜の父の言葉が蘇ってくる。


「何、どうかした?」


 彼は怪訝そうに顔を覗き込んでくる。


 ──ここから逃げ出したい。

 綺は反射的にそう思ってしまい、激しく自分を軽蔑した。


 彼には何の罪もない。彼は心優しくて少し無愛想な、ごく普通の少年だ。

 そして自分にとっては、掛け替えのない存在である。

 これだけは何があっても決して変わらない。


 溢れ出しそうになった涙を、ぐっと呑み込む。

 自分の運命は何一つ受け入れられないまま、彼を見て微笑んだ。


「馨の思うように行動すれば、それでいいと思うよ? その子もきっと、そのままの馨が好きなんだろうから」


「……答えになってなくない?」


 不満げに眉をひそめる彼に、綺は手を伸ばした。

 そして少し寝癖のついた髪を撫でてやると、彼は驚いた様子で身をすくめた。


「うわっ何。急に触んなよ」

「だって寝癖ついてたから。ほらここ、猫の耳みたい」

「だ、だからって触んな、バカ姉貴」

「またそんな言葉遣い。姉貴じゃなくてお姉ちゃんでしょ?」

「うるせえ」


 揶揄われて恥ずかしかったのか、彼は綺の手を払うと席を立った。

 そして振り返りもせず、大股で洗面所に向かっていく。


 綺はそんな彼の背を見送り、再び微笑んだ。

 底知れない不安を押し殺しながら。







────第二話に続く────




❀御案内❀


この番外編は、本編にあたる『えな─愛しい君へ─』の進行度に合わせて続きを投稿いたします。

そのため不定期更新となりますので、更新する際には本編の中でお知らせいたします。

本編をより楽しめるような番外編を書いてまいりますので、楽しんでいただけたら幸いです。

何卒宜しくお願いいたします。


香(コウ)

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戻らない日々、変わらない想い 香(コウ) @kou_kazahana

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