幽明の繭
伊島糸雨
幽明の繭
彼女は多くの世界を旅したという。どうして、と訊ねると「探しものがね」と小さく笑う。旅人、と呼ばれることを彼女は嫌がる。適切な呼び名を探していると、「魔女はどう?」と提案される。
月の瞳が瞬く夜に、旅の話を私はせがむ。鏡の水底、煌めく霧の海を渡った先で、古びた館に光が灯る。彼女は根負けして「仕方がないな」と呟いてから、少しだけだよ、と言い添える。
【
色んな
彼らは頭が蕾になっている。
枯れた後が気になるかな。なに、大丈夫。それしきでは終わらない。彼らは自らの胴体が
名前をつけること。それだけは決してやってはいけない。名前を与えた瞬間に、花は醜く蕩けてその場所は汚染される。命名者の肉体は千々に引き裂かれて破裂する。当然、こんなのは命と引き換えにしてまですることじゃない。そんなわけだから、
名前がないと不便じゃない? そう口にすると、「名前だけが形というわけではないよ」と小さく笑う。「名前をつけたら零れ落ちる細部こそが重要なんだ。私の名前を知ってしまったら、私はただの〝魔女〟ではなくなってしまう。過去を知った途端に、今が定まってしまうのと同じようにね」
特別でいたいの? 彼女は「どうかな」と首を傾げる。
「永遠が欲しいだけさ。変わらないものがないとしてもね」
それから、そうだ、と手を叩く。「次は、この
【
変わらないものと言えば、
なら、何が重要なのか? それは一日過ごせばわかることだ。
刹那的な衝動というのは、実のところそう単純ではない。欲望も選択も、そこには常に過去が絡むし、影響は必ず未来に届く。もしも終末前夜に突飛なことをしようと思ったのなら、大丈夫。君は一本の線と言える。
対して、
もちろん、謝罪はしたさ。塔の影に紛れていたとはいえ、申し訳なかったとは思っているよ。
燭台の火が影の輪郭を揺らすのを見る。終わらない終末に人々は自らの形を棄てる。それは悲しく虚しい停滞だった。彼らはそれで幸福だろうか?
「永遠にも色々種類があるんだ」と彼女は言う。「悲しみも喜びも、ずっと続けば意味を失う。人は無感動になり、部屋の片隅にこびりつくだけが道になる。幸福とは言えないけれど、不幸とも言えない状態にね」
横顔には憂いが滲む。私はその理由が知りたくて、永遠の種類を訊いてみる。
「それなら、関連のあるものを話していこう。眠れない
【
重要なのは意識が途切れること。その点で言えば、彼らにはこの上なく最適な方法があった。肉体の再生速度は部位によって違うそうだが、頭部を破壊した場合には平均しておよそ七時間程度の時間がかかる。その間、意識は断絶したまま。後はもうわかるだろう。
想像に、少しだけ気持ちが悪くなる。彼女が背中をさすってくれて、ごめんごめん、と特製の薬草茶を振る舞ってくれる。つくり方も何が入っているかも「魔女の秘密」と言うばかりで教えてくれない。でも、その秘密は砂糖のように甘い夢を見せてもくれる。お茶は温かく、どこか懐かしい味がして好きだった。それを伝えると、「私もきっと」とどこか曖昧に彼女は微笑む。
【
暗い話が続いてしまったかな。気分転換がしたければ、
山々や河川が生み出した絶景も素晴らしいけど、この
気になるのは灯籠の機能だけれど、これに関してはしっかりと意味がある。灯籠の火が尽きないのは、それが極小の牢獄だからだ。そこには現地の人々が〝
仮に問題があるとすれば、
温かな光の漣を思うと、心も幾らか落ち着いた。今までで一番興味をそそられる話だった。
彼女は
魔女でも? 私は訊ねる。「魔女であっても」彼女は頷く。
「失くしたものはそう見つからない。けれど、そういうものに限って、厄介な状況が必要なんだ」
【
どうせなら、一番大変だった
彼らは流れに対してとても敏感で、そのために
時間こそが
魔女は咄嗟に、発見したものを手中に収めるだろう。するとどうなる? それまで背を押していた流れが一気に逆流し、存在を構成する一切が浚われていく。そうして失われた時間の群れは、
その魔女は無事だったの?「もちろん」彼女は朗らかに笑って答える。
「自身の持てるすべてを賭して、どうにか難局を切り抜けた。ただ間違いなく、二度と行くことはないだろうね」
彼女は何を発見したの? 今度は悲しげに眉を下げて、
「自分の過去だ。魔女を魔女たらしめる記憶と名前さ」
それから窓の外をそっと見上げる。「ああ、そろそろ瞳が閉じる」漣に月が煌めいている。視線が交わり、私は光の在処を発見する。
「次で最後だ」
彼女はそう言って、私の頭を優しく撫でる。
【
終着点の話をしよう。
ここは既に終わった
明らかなのは結末だけだ。幽霊とは既に失われた記憶であって、生まれ直そうともその事実は変わらない。どれほどの旅を重ね、自らの内に時を刻んでも、あらゆるものは零れ落ちる運命にある。歴史が生まれることはなく、言葉は散逸して意味をなさない。
存在を求めたのは、どこかに残っていたかったからだ。擬似的な永遠として、嘘でつくられた真実として、名前を持たずとも存在していたかったからだ。どこかにある
語り終えると、彼女は瞑目して吐息を零す。私はその横顔を見つめている。
魔女の願いは叶うと思う?
「きっとね」彼女は柔らかな笑みを浮かべる。
旅を終えたらどうするの?
「少し休んで、それから――」水面の夜に瞳が沈む。空白の中で、燭台の火が揺らめいている。
いや、と魔女は呟いて、「もうお帰り」と私に囁く。帰路を辿る道すがら、私は館の光を顧みる。それは孤独な月のように、世界の淵を照らしている。
魔女は消え、彼女の部屋にはたったひとつの繭がある。彼女は、と私は初めに口にする。彼女は、多くの世界を旅したという。探し物のため、失われた時を見つけるために、数多の
魔女は過去を持たない幽霊だという。定住する
彼女は繭の中で生まれたという。月の光に煌めく肌の、真白く大きな繭の中で。遺失されたすべての記憶と混じり合い、再び生まれ直すと彼女は語る。私は艶めく糸に指を伸ばす。連なる言葉は終わりを知らず、甘い夢を見続けている。
蕩けた幽霊が肌に触れる。私は密かな声でそっと囁く。
もしも永遠に彷徨うのなら、次の
幽明の繭 伊島糸雨 @shiu_itoh
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