幽明の繭

伊島糸雨

幽明の繭


 彼女は多くの世界を旅したという。どうして、と訊ねると「探しものがね」と小さく笑う。旅人、と呼ばれることを彼女は嫌がる。適切な呼び名を探していると、「魔女はどう?」と提案される。

 月の瞳が瞬く夜に、旅の話を私はせがむ。鏡の水底、煌めく霧の海を渡った先で、古びた館に光が灯る。彼女は根負けして「仕方がないな」と呟いてから、少しだけだよ、と言い添える。



花傘市かさんし

 色んな都市まちを見てきたけれど、五感を擽る美しさでいえば、なんと言っても花傘市かさんしだね。蕾何らいかと呼ばれる人の街で、植物学者なら誰でも一度は行きたがる場所だ。五つの季節があり、その移ろいの中で大地は複雑に表情を変える。もちろん、人々もね。

 彼らは頭が蕾になっている。葟囟こうしん構造と呼ばれるもので、生まれてすぐには白く硬質な種子であるのが、成長するに従って軟化していき、成人の段階でそれぞれに異なる種と色合いの瑞々しい蕾に変わる。以降は季節が変化の標となって、三つ目の〝〟で見事に花開き、五つ目の〝えん〟で萎れて枯れる。美しく開いた花からは、決まって蠱惑的な芳香が漂ってね。うっかりしていると、ふらふら近づいてしまうほどだ。

 枯れた後が気になるかな。なに、大丈夫。それしきでは終わらない。彼らは自らの胴体がくずおれ大地に伏すまで、その周期を繰り返すんだ。豊満で肉々しかった身体は、季節を重ねるごとに細く頼りなく縮んでいく。最後には大地にへばりつく残骸となり、それでも花は咲き続け、子供は子房くびから生まれ落ちる。だから都市まちの周囲は広大な花園になっていて、見たこともない花が果てしなく連なっている。植物学者はこの都市まちを訪れると、真っ先に花園へと向かうだろうね。でも、ここではひとつ、絶対にしてはいけない禁忌がある。

 名前をつけること。それだけは決してやってはいけない。名前を与えた瞬間に、花は醜く蕩けてその場所は汚染される。命名者の肉体は千々に引き裂かれて破裂する。当然、こんなのは命と引き換えにしてまですることじゃない。そんなわけだから、都市まちに植物学者が訪れることはないし、蕾何らいかは生命の周期を逸脱することがない。花傘市かさんしは、ただ美しいだけの場所だ。それ以上でもそれ以下でもなく、花であることが唯一の価値と言える。



 名前がないと不便じゃない? そう口にすると、「名前だけが形というわけではないよ」と小さく笑う。「名前をつけたら零れ落ちる細部こそが重要なんだ。私の名前を知ってしまったら、私はただの〝魔女〟ではなくなってしまう。過去を知った途端に、今が定まってしまうのと同じようにね」

 特別でいたいの? 彼女は「どうかな」と首を傾げる。

「永遠が欲しいだけさ。変わらないものがないとしてもね」

 それから、そうだ、と手を叩く。「次は、この都市まちにしよう」



煌昏市こうこんし

 変わらないものと言えば、煌昏市こうこんしは外せない。この都市まちは実のところ、はっきりとした特徴があるわけじゃない。果てしなく高い塔の都市まちではあるけれど、そんなのは他にいくらでもあるからね。

 なら、何が重要なのか? それは一日過ごせばわかることだ。都市まちに入った時、時刻は夕方だった。落日が塔を焼いて陰翳の冷気が路地裏に落ちる。一日が終わりに向かう。それだけの風景が広がっていて、何も知らなければがっかりすることもあるかもしれない。けれどね、その黄昏は終わらない。幾度目を覚ましても、そこにあるのは同じ光景でしかない。ラジオをつけるとこんな声が流れてくる。『世界の滅亡まで残り一日となりました。皆様どうか心安らかにお過ごしください。さようなら、さようなら』翌朝も、その次の日も、同じ言葉が繰り返される。さて、もったいぶるのはこの辺にしよう。そう、煌昏市こうこんしは滅亡の直前で停滞している。故に住人には明日がなく、いつしか過去もなくなって〝今〟だけが認識されるすべてとなった。

 煌昏市こうこんしの人々は、前進することも後退することもできないまま、同一の状況に置かれ過ぎてしまった。故に彼らの機能は劣化し先鋭化し、時間の流れを知覚せずに同じ行動を繰り返している。時折こんなことを耳にしないかな。あるいは空想したことはないだろうか? 世界が明日滅びるとして、自身はどのように過ごすのか、と。

 刹那的な衝動というのは、実のところそう単純ではない。欲望も選択も、そこには常に過去が絡むし、影響は必ず未来に届く。もしも終末前夜に突飛なことをしようと思ったのなら、大丈夫。君は一本の線と言える。

 対して、煌昏市こうこんしの人々は、点だ。流動する一切が意味をなさず、あらゆる活動に意味はなく、無為と鬱屈を誰もが共有するまでに倦み果てたのなら、そこには点だけが残される。彼らは都市に焼きついた影だ。塔の壁に、ひび割れた道に、寝台や椅子にこびりついた痕跡だ。しかし彼らは生きている。うっかり傷つければ影が滲むし、誤って踏みつければ影を吐き出す。これは実体験だから間違いない。

 もちろん、謝罪はしたさ。塔の影に紛れていたとはいえ、申し訳なかったとは思っているよ。



 燭台の火が影の輪郭を揺らすのを見る。終わらない終末に人々は自らの形を棄てる。それは悲しく虚しい停滞だった。彼らはそれで幸福だろうか?

「永遠にも色々種類があるんだ」と彼女は言う。「悲しみも喜びも、ずっと続けば意味を失う。人は無感動になり、部屋の片隅にこびりつくだけが道になる。幸福とは言えないけれど、不幸とも言えない状態にね」

 横顔には憂いが滲む。私はその理由が知りたくて、永遠の種類を訊いてみる。

「それなら、関連のあるものを話していこう。眠れない都市まちの話だ」



轢刑市れきけいし

 煌昏市こうこんしと似たような形質の都市まちに、轢刑市れきけいしがある。随分と陰惨な名前だろう。私もそう思うけれど、ここを形容する言葉は他にない。何せ毎日必ず、住人全員が轢死するのだから。

 轢刑市れきけいしは端的に言えば、不死の都市まちだ。彼らは自らを胞鑞者ほうろうしゃと呼ぶ。どんな傷も病も再生し、身体が細切れになっても時間さえあれば復活する。痛みは当然伴うが、彼らはそれに慣れ切っている。医者も病院も必要ないし、極めて緩慢にしか老いないので墓場もない。その種の望みを持つ人にとっては、理想的とも言えるだろうね。

 胞鑞者ほうろうしゃの日常はよくあるものと変わりない。朝目覚め、日中に社会生活を営み、夜には眠る。どうということなく聞こえるけれど、彼らはひとつ重大な問題を抱えていてね。それが生来的な不眠だ。彼らにとっても意識の断絶は重要で、主に精神を保護することにつながる。煌昏市こうこんしの人々のようになるのを避けるためにね。でも、彼らは眠れない。眠らないのではなく。

 重要なのは意識が途切れること。その点で言えば、彼らにはこの上なく最適な方法があった。肉体の再生速度は部位によって違うそうだが、頭部を破壊した場合には平均しておよそ七時間程度の時間がかかる。その間、意識は断絶したまま。後はもうわかるだろう。

 胞鑞者ほうろうしゃは色々無茶が効くのもあって、技術の発展も相応に早かった。古くは手動でやっていたのがどんどん効率化され、彼らは最終的に轢死へと辿り着いた。都市を縦横に運行する電車の最終列車。それが一日の終わりの合図になる。人々は日常の一場面として、心地よい形に整えられた軌条と枕木の上に横たわる。自動運転の列車がやってくる。隣人に、恋人に、家族に「おやすみ」と微笑む。車輪が濃密な果実を砕く。血の轍では、散った肉片が蠢いている。



 想像に、少しだけ気持ちが悪くなる。彼女が背中をさすってくれて、ごめんごめん、と特製の薬草茶を振る舞ってくれる。つくり方も何が入っているかも「魔女の秘密」と言うばかりで教えてくれない。でも、その秘密は砂糖のように甘い夢を見せてもくれる。お茶は温かく、どこか懐かしい味がして好きだった。それを伝えると、「私もきっと」とどこか曖昧に彼女は微笑む。



灯牢市とうろうし

 暗い話が続いてしまったかな。気分転換がしたければ、灯牢市とうろうしはどうだろう。字面はなかなか不穏だけれど、穏やかで過ごしやすい都市まちでもある。花傘市かさんしとも異なる種類の美しさで、古き良き、郷愁とでも呼ぶべきものを感じさせてくれる素敵な場所だ。

 山々や河川が生み出した絶景も素晴らしいけど、この都市まちで何より目を引くのは、至る所に吊るされた灯籠だ。瓦屋根が波のように連なる夜の道を灯籠の明かりが照らす様は、心洗われる種の風情がある。屋台には祭りを思わせる品々が次々並び、人の賑わいが絶えることはない。人々はみな笑顔で、争いも諍いもないとなれば、旅行先としてはこれ以上ない場所と言える。

 気になるのは灯籠の機能だけれど、これに関してはしっかりと意味がある。灯籠の火が尽きないのは、それが極小の牢獄だからだ。そこには現地の人々が〝じん〟と呼ぶものが入っている。燃え残りや生き残り。意味としてはそんなところだ。

 じんには興味深い特性があって、触れた者に存在しない記憶を見せるそうだ。主体をすり替え、郷愁と一体になった楽しい記憶をね。面白いのは、それが都市まちの売りであると同時に、住人にとっての生活必需品でもあることだ。外からやってきた人はじんを介して気持ちを高め、灯牢市とうろうしへの帰属意識を持つことで、滞在期間を最大限に楽しめる。都市まちの住人は悲しい時や苦しい時にじんを使って気を持ち直す。だから灯牢市とうろうしでは誰もが穏やかだし、負の感情が入ってくる余地はない。まさに楽園と言って差し支えないだろう。

 仮に問題があるとすれば、じんが何でどこから来るのか、都市まちの誰も知らないことだ。器をつくれば内には自ずと火が灯る。どれだけつくっても尽きることがなく、害もないから気にするようなこともない。彼らはこう考える。どんなものであれ、役に立つのは良いことだ。どうか永遠に続くように、と。



 温かな光の漣を思うと、心も幾らか落ち着いた。今までで一番興味をそそられる話だった。

 彼女は都市まちへ行った理由について、「息抜きかな」と言った。「探し物は疲れるんだ。あちこち行って、期待してみたり、失望してみたり。気持ちが参ることもある」

 魔女でも? 私は訊ねる。「魔女であっても」彼女は頷く。

「失くしたものはそう見つからない。けれど、そういうものに限って、厄介な状況が必要なんだ」



碧瀝市へきれきし

 どうせなら、一番大変だった都市まちを挙げよう。碧瀝市へきれきしは一種の巨大な美術館で、壮麗な建築に彩られた混凝土こんぎょうどの王国だ。彫刻の王が治めるこの都市まちが厳格な規律によって管理されているのは有名な話でね。というのも、ここではあらゆるものが溶解し流れ出してしまうために、固体が最上の価値を持つんだ。中でも混凝土こんぎょうどでつくられた彫刻は最も強固に存在を保つとされていて、漂鏤ひょうろうと呼ばれる人々はみな、そこへと至るために生きている。といっても、動くものはほとんどいない。理由はわかるね。そう、動き出した途端に、存在が溶けてしまうからだ。一度溶け始めたら、後はもう時間との勝負でしかない。消滅しきる前に欠損したまま凝固するか、新たな身体を獲得するか。危険を顧みない冒険家はごく稀に現れるけど、彼らの行く末はたいてい同じだ。

 碧瀝市へきれきしの住人にとって、無機質な灰色の世界で硬直し、擬似的な永遠を宿すのは生きることそのものだ。そんなわけで、訪問者は自身と都市まちの摂理の違い故に、幾つもの制約を受けることになる。制約は主に禁止を伴っていて、第一に漂鏤ひょうろうへと干渉しないこと、第二に決して動きを止めないこと、第三に建物を傷つけないこと……などなど、憶えきれないほどの条項がある。これを定めたのは王だそうで、王に会うことも禁止の内には含まれている。

 彼らは流れに対してとても敏感で、そのために都市まちの観覧は限定的だ。時間はとても足りないし、行ける場所も限られている。探し物にはとても向かない。しかし一方で、発見するには最適でもある。

 時間こそが都市まちと人々の造物主だ。そこには貴重な記憶や過去が誰に顧みられることもなく埋もれていて、それを求める魔女は少なくない。漂鏤ひょうろうたちは自身の起源に無関心で、都市まちを流れる時間が自身に刻んでいった遺失物に価値を見出すこともない。彼らの認識において、それらはあくまで存在を構成する欠片に過ぎないからだ。

 魔女は咄嗟に、発見したものを手中に収めるだろう。するとどうなる? それまで背を押していた流れが一気に逆流し、存在を構成する一切が浚われていく。そうして失われた時間の群れは、漂鏤ひょうろうを彫刻する欠片に変わり、新たに無数の像が生まれる。碧瀝市へきれきしはこのようにして続いている。



 その魔女は無事だったの?「もちろん」彼女は朗らかに笑って答える。

「自身の持てるすべてを賭して、どうにか難局を切り抜けた。ただ間違いなく、二度と行くことはないだろうね」

 彼女は何を発見したの? 今度は悲しげに眉を下げて、

「自分の過去だ。魔女を魔女たらしめる記憶と名前さ」

 それから窓の外をそっと見上げる。「ああ、そろそろ瞳が閉じる」漣に月が煌めいている。視線が交わり、私は光の在処を発見する。

「次で最後だ」

 彼女はそう言って、私の頭を優しく撫でる。



幽繭市ゆうけんし

 終着点の話をしよう。幽繭市ゆうけんしと呼ばれる廃墟の都市まちだ。

 ここは既に終わった都市まちと言える。至る所を星の真水さみずが薄く覆い、建造物は月の光に朽ちかけている。人がなければ営みもなく、漂う静謐は忘れ去られた墓地を思わせる。幽繭市ゆうけんしにあるのは、そんなすべての残骸たちだ。存在を持たない幽霊の断片たちは、星の夜を漂っては真白い繭の中で混淆し、蕩けた果てに新生する。彼らは過去を持たず、未来を悟らず、故に世界の流浪者となる。物心つく前には別の都市まちに辿り着く。定着するか漂流するかは、運命だけが知っている。

 明らかなのは結末だけだ。幽霊とは既に失われた記憶であって、生まれ直そうともその事実は変わらない。どれほどの旅を重ね、自らの内に時を刻んでも、あらゆるものは零れ落ちる運命にある。歴史が生まれることはなく、言葉は散逸して意味をなさない。

 都市まちがどうしてそうなったのか、確たる証拠はどこにもない。星の洪水か、単に時間が経ち過ぎたのか、誰もが幽霊になってしまったのか。幽繭市ゆうけんしの子供たちが故郷を語らないのは、郷愁が無価値であると知っているからだ。起源は内実を欠いて依拠する場所を失っており、繭の揺籃で境界もなく溶け合った恍惚だけが、唯一楔のように息づいている。

 碧瀝市へきれきしで手にした過去は、この都市まちへと導くものだった。真実は誰にもわからない。魔女には名前も終わりも永遠もなく、記憶や時間と隔たっている。結末の断片を寄せ集めたら、そこには何もないのと相違ない。最初から存在しないのならば、それは失くし続けているのと同義であって、探し物は決して見つかることがない。

 存在を求めたのは、どこかに残っていたかったからだ。擬似的な永遠として、嘘でつくられた真実として、名前を持たずとも存在していたかったからだ。どこかにある都市まちのように、秘された眠りの繭のように。私は〝何か〟でありたかった。そんな愚かな願いのために、私はここまで来たんだよ。



 語り終えると、彼女は瞑目して吐息を零す。私はその横顔を見つめている。

 魔女の願いは叶うと思う?

「きっとね」彼女は柔らかな笑みを浮かべる。

 旅を終えたらどうするの?

「少し休んで、それから――」水面の夜に瞳が沈む。空白の中で、燭台の火が揺らめいている。

 いや、と魔女は呟いて、「もうお帰り」と私に囁く。帰路を辿る道すがら、私は館の光を顧みる。それは孤独な月のように、世界の淵を照らしている。

 魔女は消え、彼女の部屋にはたったひとつの繭がある。彼女は、と私は初めに口にする。彼女は、多くの世界を旅したという。探し物のため、失われた時を見つけるために、数多の都市まちを巡ったという。

 魔女は過去を持たない幽霊だという。定住する都市まちを持たず、流浪の果てに過去を見出す。月の瞳が瞬く夜に、私は彼女の元を訪れる。鏡の水底と霧の海を越えた先で、古びた館に光を見つける。

 彼女は繭の中で生まれたという。月の光に煌めく肌の、真白く大きな繭の中で。遺失されたすべての記憶と混じり合い、再び生まれ直すと彼女は語る。私は艶めく糸に指を伸ばす。連なる言葉は終わりを知らず、甘い夢を見続けている。

 蕩けた幽霊が肌に触れる。私は密かな声でそっと囁く。

 もしも永遠に彷徨うのなら、次の都市まちの話をしたい。あなたと共に。

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