第33話 宣言

 好天に恵まれた夏休みの一日。


 お礼をしたいと言う愛美を誘って訪れたのは、県内ではわりと有名な水族館だった。


 遊園地もと考えたが、少し前に楓と行ったばかりであり、話を聞いていれば愛美が気を遣うかと思って回避した。


 夏休みなので親子連れでほどほどに賑わっている。楽しそうにはしゃぐ子供たちの前で、優雅に泳ぐ各種の魚。日常を忘れられるような光景に、大樹でさえも童心に戻りそうだった。


「あたし、水族館に来たのって初めて。大樹は?」


「俺は小さい頃に一度だけ。確かウーパールーパーが来てたんだ」


「なんか聞いたことある。懐かしい名前」


 アハハと楽しそうに笑う愛美はノースリーブにホットパンツ、薄めだというニーソックスにスニーカーというカジュアルな服装だ。全体的に白で統一しており、夏の日差しによく映えて健康的な魅力を引き出している。


 小さめのショルダーバッグを肩から斜めに下げているのもあって、不意にチラチラと蠱惑的な稜線が視界に入ってしまう。その度に海で得た感触が蘇り、ドキドキするのだから心臓に悪い。


「ちょっと。さっきから何をチラチラ見てんのよ。女の子は大樹が思ってるよりも視線に敏感なんだからね。特に発情しやすい男の子のは」


 ジト目に晒され、反射的に目を逸らす大樹の腕に手が回される。驚くのを尻目に、照れ臭そうにしながらも愛美は身を寄せてくる。


「……混雑してるし、はぐれたら困るし」


 思わず抱き締めたくなるほど可愛かったが、そんな真似をすれば他の客にも発情猿認定される。何度も生唾を呑み込んだものの、大樹は理性の力でかろうじて堪えた。


 左右を流れる透き通る水はまるで青の壁。見渡す限りの魚の遊泳を綺麗だと思いながらも、かなりの頻度で大樹は隣の少女に目を奪われてしまう。


 現金なものだと内心で嘆息する。夏休み前はずっと片思いをしていた楓と付き合えて、あれだけ有頂天だったというのに、まさか楓以外の女性にこうして心惹かれる事態になるなど、高校三年生になる前までは想像もできなかった。


 水族館の敷地内は結構な広さがあり、屋外の方も含めてゆっくり回っていると一時間はゆうにかかった。その後、お土産コーナーに移動する。


「見てよ、これ。ゆるキャラじゃない?」


「そのわりに着ぐるみとかは見なかったけど、奇抜なデザインなのは間違いないな」


 上半身はマグロみたいな巨大魚で、下半身はアザラシ。一体どんな生態系だとツッコミを入れたくなるような生物が、やたらと大きな瞳を輝かせている。


 大樹は明らかに変だと思うのだが、何故か愛美はこのキャラを気に入ったみたいだった。小さな人形のキーホルダーを手に取ると、一緒に買おうよと満面の笑みで提案する。


「だったら奢るよ」


「だーめ。お揃いのものは、お互いに買わないと意味がないの!」


「……そういうものなのか」


 キーホルダーのみを購入し、敷地内の休憩スペースで軽食と飲み物を頼んで、幾つも用意されている丸テーブルの一つに座る。


「こういうところでの食事ってのもいいものね」


 うーんと伸びをする愛美。当人は小さいと気にしていたが、全然そんな風には思えない膨らみが薄手の生地の内側で揺れる。


「……また見てたでしょ。大樹のエッチ」


「仕方ないだろ。愛美が魅力的なんだから」


 フンと鼻を鳴らしてカップのオレンジジュースを口に含んだ愛美が、危うく吹き出しそうになっていた。少し気管に入ったらしく、軽く咳き込む。


「おいおい、大丈夫か」


「誰のせいよ、誰の」


「俺は素直な感想を言っただけだぞ」


 またしても愛美はフンとそっぽを向いたが、その顔は宇宙で燃え盛る太陽にも負けないくらいに真っ赤だった。


「……少し前まで楓、楓、言ってたくせに……」


「否定はしないが、助けるために必死で愛美、愛美と叫んでたのは聞こえなかったのか?」


「……聞こえてた」


「なら、それで勘弁してくれ。せっかくお礼という名目でデートしてるんだしな」


 デートという単語に露骨に反応し、急に向き直ってもじもじし始める愛美。


「や、やっぱり、その……そういうことで、いいんだよね……」


「……どういうことだ?」


「鈍っ! あんたなんて大樹じゃなくて鈍樹よ!」


 勢いよく指を差され、頼んだお好み焼きで膨らんでいる頬を掻く。どうやらまた対応を間違ってしまったらしい。


「実際に鈍いからな。だから思ったことはどんどん口にしてくれ。俺はエスパーじゃないんでな。そうすれば、もっとわかりあえるだろ」


「……てない」


「え?」


「まだ……聞いてない。きちんとした……告白……」


 ペンギンかというくらいに、唇を尖らせた拗ね気味の少女。


 ここでその表情も素敵だねと言ったらブチ切れられかねないので、正しい対応方法を心掛ける。とはいえ、大樹としては海で力一杯告白したつもりだったのだが、目の前の少女はどうやらそう思っていないらしい。


 もう言ったと拒否するのも可能だが、ただでさえへそを曲げだしている現状では危険度が高い。


 それに、以前に購入したデート必勝マニュアルでは、女性は想いをはっきりと言葉にしてもらいがたると書いてあったのを思い出す。


 幸いというべきか、すぐ近くの席は空いているし、子供の元気な声がそこかしこから聞こえてくるので、恥ずかしい台詞を並べても悪目立ちはしなさそうだった。


「そ、その……何だ。気がつけばお前に夢中になってたっていうか……」


「……もっとはっきり。それにお前、じゃなくて名前がいい」


「わ、わかったよ」


 こうなれば覚悟を決めるしかないと、大樹は腹に力を入れる。


「俺は愛美が好きだ。だから、付き合ってください」


 ショートヘアの裾を指でクルクルといじっていた少女の表情が、どこまでも晴れやかな笑みに彩られ、朗らかささえ備えた頬の赤みが夏空に映えた。


「あたしも好き。大好きっ。初めて会った時から。あたしの手を引っ張ってくれた時から、ずっと……ずっと大好きでした」


 たじろぎそうになるくらい矢継ぎ早に並べられる愛の言葉。嘘偽りが含まれていないのは、愛美を見ていればわかる。それほど大樹を想ってくれていたという事実が嬉しかった。


「ハハ……再会当初は忘れてたけどな……」


「本当よ。あたしは抱き着きたいくらい嬉しかったのに」


「挙句に他の女の子を好きになってて……傷つけちまったしな……」


「……それはあたしも同じ。大切な親友だって言っておきながら、結局彼氏を横取りしちゃったんだから。表面上は普通に接してくれてるけど、絶対に怒ってるよね」


「ううん、そんなことはないよ」


「でも! ……って、え?」


 目を丸くしたのは愛美だけではなかった。危うく大樹も椅子からずり落ちそうになる。


 突然聞こえた謎の声。それは話題の人物こと楓だった。よくよく見ると、彼女の後方にはどことなく申し訳なさそうな清春の姿まである。


「な、何で楓がここにいるのっ!?」


 椅子ごと後退りする愛美を、楓が折り曲げた上半身だけで追いかける。浮かべる笑みは、どこからどう見ても小悪魔チックだ。


「私ね、これからもっと積極的になろうと思ったの。愛美ちゃんを助ける大樹君を見ているうちに心惹かれたのは、きっと私にないものを見たから」


 胸に手を当て、何かを思い出すようにそっと目を閉じる。その後ろを、清春が様子を窺うようにそろそろと歩いてくる。


「聖地巡礼の旅に出ようとしたら強制連行された」


 無念そうな清春が、恐らくは愛車である軽トラックのと思われるキーを見せた。


「じゃあ水族館の話は……」


「すまん。隠そうとしたが鬼の笑顔でスマホを取り上げられた」


 そこまで説明してもらえば、詳細を聞かなくとも予想はつく。昨夜に興奮のあまり誰かに話を聞いてもらいたくて、清春に出したメールが確たる証拠となり、楓に本日のデートを知られた。


 そして理由は不明だが、乱入を決意した楓によって、車と免許を持つ親友が捕まった。


 まだ唖然とする愛美の隣で、楓が小さな薄ピンクの手提げバッグから何かを取り出す。バッグとお揃いの薄手のワンピースの裾がふわりと風に舞った。


 テーブルの上に置かれたのは、野球帽をかぶった男児の人形だった。手に持ったバットを肩に置き、ボールを持ったもう片方の手を前に突き出している。


「……何、これ?」愛美が困惑を露わにする。


「万峰骨董店さんで見つけた男女セットのお人形さんよ。男の子の方を、大樹君にプレゼントしようと思って買っちゃった」


 事も無げに言った楓がさらにバッグから取り出したのは、チアガール姿の少女の人形だ。


「万峰骨董店で買った男女セットの人形……?」


 我知らず、大樹の唇の隙間から呟きが漏れる。どこかで聞いた話であり、どこかで似たような物をよく見た気がする。


「ど、どうして、それを大樹に……?」


 ぎこちない笑顔を作る愛美の視線に、うふっと楽しげに微笑みを返す楓。


「もちろん、大樹君に私の夢を見てほしいから」


 ハートマークが見えそうなくらいに甘ったるい語尾。愛らしい恥じらいにもじつく手。とどめの潤んだ瞳にノックアウトされそうになる。


「大樹君ね、前に言ってくれたのよ。私に何かあったら助けてくれるって。そのお人形さんでたくさん私の夢を見て、焼き焦がれそうな恋心を救って」


「え? は――」


 ドンッと。


 大樹が条件反射的にしそうになった返事を遮ったのは、テーブルの上で愛美の両手が発生させた衝撃音だった。


 叩きつけた拳をプルプル。こめかみに浮かぶ血管をヒクヒク。怒りを隠そうともしない恋人が、羅刹のごとく睨む。


「楓ってば、冗談が上手いよね」


「私は本気。遠慮も隠し事もないのが親友だもの。だから大樹君も愛美ちゃんも覚悟してね」


 ピストルに見立てた人差し指をバンとさせ、にっこりする楓。きっと彼女なりに気を遣っているのだろうと推測する。


 一方の愛美はきょとんとしたあと、背もたれに背中を反らせてお腹を抱えた。


「そうくるとは思わなかった! いいわ。正妻として受けて立とうじゃない。あたしからは簡単に奪えないわよ!」


「それでこそ愛美ちゃん。それじゃ早速、近くの海にでも行きましょう。愛美ちゃんはお披露目したでしょうけど、私はまだ大樹君に水着を見せてないもの。大樹君のために頑張って、生まれて初めてのビキニを着ようかしら」


 うなじに手を入れ、繊細な髪の毛をふわさっと浮かせて流す。その仕草はとても大人っぽく、見ているだけでドキリとする。微風にそよぐ薄手のワンピース越しに腰をくねらせ、ポーズを取れば大抵の男は平伏すだろう。


「ビ、ビキニ……」


 いけないと知りながらも想像してしまった大樹の後頭部を、容赦のない恋人の肘が襲う。


 色気など微塵もないテーブルと熱烈なキスをさせられたあと、抗議のために顔を上げるもすぐに逸らすはめになる。


「彼女が隣にいるのに、他の女の子に鼻の下を伸ばすなんてね……! 覚悟はできてるわよね」


「ぼ、暴力反対っ。そ、そうだ。愛美も色気で対抗すればいいんだよ!」

「はあ!? そんなの大樹が喜ぶだけじゃん! あんたはあたしの身体に欲情した前科があるんだからね!」

「その心配はいらないわ。今日は愛美ちゃんの他に私がいるもの」


 形容のし難い恐怖の火花を散らすのは、女同士の視線のぶつかり合い。ブルブルと震える大樹とは対照的に、楓の運転手を務めさせられた清春は何故か楽しげだ。こっそり退避しつつ理由を問うと、実にわかりやすい解答が返ってきた。


「修羅場はエロゲの花」


 大樹がそうですかとため息交じりに言ったところで、どうやら女二人で今後の方針を決めたみたいだった。


「お昼も食べたし、海水浴に行くわよ。水着はどこかで購入! ビキニでも紐でも着てやろうじゃないの!」


 顔を真っ赤にした恋人の少女は、完全にヤケクソになっていた。

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