夢で死んでしまう君が、現実で死んでしまわぬように

第32話 救出

　――バチャリ。

　微かにではあるが、確かに水音が聞こえた。

　目を凝らして水面を見つめ、ようやく発見する。

　水の飛沫か涙か、ぐしゃぐしゃになっている少女の顔を。

「愛美――っ！」

　叫んで走る。

　走る。

　走る。

　足に絡みつく波を邪魔だと蹴り、重くなるのも構わずに動かす。

「愛美――っ！」

　もう一度叫ぶ。

　走りながらシャツを放り投げ、飛ぶようにしてジーンズから脱出。黒のボクサーパンツ一丁で前だけ見る。

　苦しげな愛美が大樹に気づく。両目からぶわっと涙が溢れ、苦しそうにしながらこちらへ手を伸ばす。

　すでに足をつっているみたいで、手だけで泳ぐという考えにも至れないほど平常心を失ってしまっている。

　自らも波に攫われるかもしれないという恐怖すら叩きのめし、大樹は足がつかなくとも、手足を全力で動かすクロールで愛美のもとへ急ぐ。

「大樹っ！　大樹っ！」

　暴れてもがく愛美に正面から近づこうとして、不意に万峰骨董店の女店主の助言が脳裏に浮かんできた。

　――まずは落ち着きな。冷静さを失っていたら、解決方法なんて思い浮かばないよ。

　何であろうとも必死に掴もうとする愛美に、何の策もなく近づけば一緒に海中へ引き摺り込まれる危険性がある。

　すんでのところで気がつけたのは幸いだった。心の中で満子にお礼を言いつつ、こんな時でも自分は一人ではないという実感を得られて笑みがこぼれそうになる。

　一心不乱になれば多少の恐怖など覚えている暇もない。海中に潜って目を開ける。多少染みるものの我慢できないほどではなく、少しずつだが慣れてもくる。

　大樹はこれならいけると両手を暴れさせている愛美を迂回し、背後に回り込む。

　大きなヒップを目印にして急浮上し、以前に何かの漫画で読んだみたいに、愛美の首に腕を回す。

　手首付近に愛美の顎を乗せ、強引に顔を上向かせて呼吸を確保して、残った左手と両足をフル稼働させて水面への滞在を続ける。

「何するっ、いやあっ、死にたくない！　助け、うわあああ」

「いいから落ち着け！　俺が助けてやるっ！」

「いやあああ、いやっ、助けてっ、大樹っ、助けてえ」

　見知った顔を見て少しは落ち着くかと思いきや、一旦潜ったことで愛美は大樹を見失い、いきなり羽交い絞めみたいに後ろから顔を拘束されたことで逆に我を忘れてしまったみたいだった。

　両手を使っている状況では叩くわけにもいかないし、余計にパニックを加速させる危険性もある。

　こうなれば仕方がない。

　覚悟を決めた大樹は、強引に愛美の顔を自分の方へ向けさせ、了承も得ずに柔らかな唇を自分の唇で塞いだ。

　いきなりの衝撃に、愛美の双眸が大きくなる。混乱が混乱を呼び、呆然とする愛美に額を二度、三度と軽くぶつけ、唇を離す。

「よく俺の顔を見ろ。それで、少し落ち着け」

「え？　あ……え？　ああ……え？」

　目を白黒させるとは、きっと今の愛美のことを言うのだろう。

　しばらく見つめあったあと、急に愛美の顔面が海とは対照的に真っ赤に染まった。

「あ、あたしのファーストキス！」

「この状況でそれかよっ！」

　呆れるも、その程度はわかるくらいに冷静さというか平常心を回復してくれたみたいだった。

　ほんの少しではあるが、安堵の息を吐いた大樹は、大きく息を吸い込む。

「清春――っ！　楓――っ！」

　これ以上波に流されないように、平泳ぎで遠くに見える砂浜を目指しつつ、何度も同行している友人の名前を叫んだ。

「ふ、二人も来てるの……？」

「はあ……やっぱり俺のメールは読んでなかったのかよ」

「な、何よ。仕方ないでしょ。だって見たら未練が残っちゃうもん」

「可愛く言ったって許さないからな。まったく。もう少しで手遅れになるところだ」

　まだ完全に助かったわけではないが、大樹は呼んだ二人が声を聞いて駆けつけてくれると信じていた。あとはそれまで耐えていればいい。

「どうして……って、まさか……また……例の……夢……？」

「ああ。何度も教えようとしたのに、勝手に距離を置きやがって」

「……だって、大樹と楓が仲良くしてるのを見るのは辛いんだもん……」

　やはり拗ねた口調で愛美が言う。予期せぬファーストキスで正気を取り戻してからは、下手に暴れようとはせずにそっと大樹の腰に手を回している。

「じゃあ、最初からくっつけようとすんな」

「だって……だって、二人とも大切なんだもん。あたしが引いて上手くいくなら、その方がいいと思ったんじゃない。バカァ。それなのにどうしてあたしを気にするのよっ」

　泣き喚く愛美の顔を至近距離で見つめ、きっと赤くなっているだろう顔を少しだけ背ける。

「……気になるんだから仕方ないだろ」

「何よ、それ。楓のことが好きなくせにっ」

「だから仕方ないだろ！　初めてあの夢を見て以降、お前を見てきたんだ。そのせいで気にするようになってしまったんだよ！　だから、その、あれだ！　俺の前から勝手に消えるなんて許さないからな！　ずっと俺に見られてろ、我儘女！」

「な……っ！　な――っ！　誰が我儘女よっ。好きな女の子がいるくせに、他の女の子を気にする男の方がずっと我儘じゃない！」

　互いの唾が飛んでも、先ほどまでは恐ろしかった海水の飛沫が優しく洗い流してくれる。ほんの少しの塩辛さもなんだか心地いい。それも、腕の中に失わずに済んだ少女がいるからだろう。

　泣いて。

　怒って。

　恥ずかしがって。

　拗ねて。

　目まぐるしく表情を変える愛美が微笑ましく、そして無性に愛しかった。

（そっか。俺っていつの間にか愛美が好きになってたんだな……）

　こんな状況下で、それをはっきりと認識する自分の鈍さが嫌になる。

「ちょっと、何か言いなさいよ！」

　ろくな反応を示さないのが不満らしく、愛美が大樹の耳元でギャーギャー喚く。数分前まで死にたくないと取り乱していたのが嘘みたいだった。

「足はもういいのか？」

「……平気。大樹にしがみついてればいいし」

「そうか」

　会話が途切れ、不意に腰に回されていた愛美の腕に力が込められた。

　それが合図となったわけではないが、大樹は彼女の首から手を離して、そっと華奢な肩を抱いた。

「あの、な……」

　愛美は嫌がらない。煌めく瞳に大樹を映し、小さく唇を開く。「うん……」

「実は俺もファーストキスだったんだよ。だから、その、あれだ。責任は取ってもらうぞ」

「……はあ！？　それ、あたしの台詞じゃないの！？　信じらんない！　っていうか、男が言う！？　普通」

「ファーストキスの価値に男も女もないだろう。差別だぞ、それ」

「開き直らないでよ！　何なのよ、もう……楓はどうするのよ」

「もう振られてる。それも愛美のせいだ。やっぱり責任取れ」

「脅しの告白なんて初めて聞いたわよ。バーカ」

　文句を言いながら、愛美は嬉しそうに笑う。大樹もつられて笑った。アホみたいに笑った。

　どこまでも青い空とどこまでも青い海。

　密着して火照る肉体と冷ます水。

　感じる互いの息遣い。

　どちらからともなく見つめ合い、やがて静かに唇が重なった。

「セカンドキスも大樹に奪われたんだから……きちんと責任取ってよ……」

「当たり前だ。お前みたいな我儘女の面倒を見られるのは、俺以外にいないだろ」

「一言多い！　まあ、その通りだけどさ」

　愛美の顔が肩に乗る。重みはそのまま助けられた実感となり、大樹の心を軽くする。

「無事か！　今、船が出る！」

　清春の声が聞こえ、それまで捕まっていろとばかりに浮き輪が放り投げられる。

　だが、風に流されて、見当違いの場所に着水した。

「……一瞬だけ格好良く見えたのにね」

「それを言ってやるな」

　愛美がフフッと、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「でも、あたしはよかったかも。もう少し大樹に抱き着いていたいし」

「お、おう」

「あー、照れてる」

「照れてない！」

　恐らく真っ赤になっているだろう顔をしていては、説得力など欠片もない。なんとか気を紛らわせようとして、大樹はとんでもない事実に今頃気がついた。

　水着しか身に着けていない、好きだと認識したばかりの女性の身体が、あろうことか自分に密着しているのである。

　助けるのに一生懸命で今の今まで気にならなかったが、一度意識がそちらへ向くと、もうどうしようもなかった。

　キスをする際に、腰ではなく首に回された両手が互いの肉体をよりくっつけ、男の脇腹にかくも柔らかい二つの感触を伝えてくる。

　腰あたりに引き締まった腹部があたり、時折太腿と太腿がイチャつくように重なり合う。

　ヤバい。

　即座に己の状況を察した大樹だが、足をつっている愛美からは離れられ。

　これはあくまでも不可抗力で、肉体の正直な反応も仕方がないのである。

「大樹、なんか変だよ。どうかしたの？」

「い、いや、大丈夫だ」

「そんなわけない。なんか異様に汗かいてるし、呼吸も苦しそうじゃん。まさか、あたしを助ける時に怪我したの！？」

「だ、だから大丈夫だって。問題ないから、それ以上くっつくなって！」

　モーター音が近づいてくる。振り向けばすぐそこに、地元の人間のと思われる船がやってきていた。楓が頼んでくれたのか、船上には彼女もいた。

「大樹君！　楓ちゃん！」

　あらゆる意味で助かった。船から投げてもらった浮き輪に、まずは愛美の手を乗せようとする。

　だが素直に従えばいいものを、好ましくない勘違いをしている愛美は、あろうことか大樹を先にしようと抗った。

　その瞬間である。

　大樹の腰の一部分が、筋肉を備えながらも、ふにゅんと絶妙の触り心地を提供する太腿に触れてしまった。

「え？　何か硬いのが……魚かな」

「バ……！　やめろ！　確かめようとするんじゃない！」

「はあ？　何で大樹が慌てるのよ。魚とかじゃなければ一体……え……？　ま、さか……」

　波とは違う揺らめきが海面に発生した直後、愛美の顔面は見たこともないほど真っ赤に染まり、髪の毛が逆立つような反応を見せる。

「いやあああ！　信じらんない！　この変態！　楓ちゃん、早くあたしを助けて！」

「え？　え？　何が起きてるの？」

「おい、やめろ！　少しでも恩義を感じてるなら、落ち着くんだ！」

　懸命に説得を試みるが、羞恥の炎が灯った乙女には効果がなかった。

「大樹が欲情してるのよおおお！」

　救出活動の真っ最中だった老年の男性船長が苦笑する。

　周囲の反応から続けて意味を理解した楓があっという顔で頬を赤らめたあと、急速に表情を戻した。

「大樹君、最低です」

「違うっ！　違うんだあああ！」

　この時ほんの少しだけ助けたのを後悔してしまったが、男性ならば大樹に同情こそすれ、怒ったりはしないだろう。