第31話 奇跡
視界を赤く焼くような日差しが失われ、カーテンの閉じられた自室へと戻る。
目覚めたと理解するなり、大樹は汗も拭かずに飛び起きてスマホを手に取る。着信もメールの受信もない。
早朝の六時ではあるが、愛美へ電話をかけてみる。やはり繋がらない。
「前回は遠かったのに、今朝の夢では愛美の様子がはっきりわかった。一体どうしてだ。まさか……夢が現実になる時間がすぐそこまで迫ってるから……ってわけじゃないよな」
勉強机の隅に座している人形を見る。何一つ表情は変わらない。当然だ。しかし夢を見せてくれたのが彼らだというなら、心から感謝したかった。
「真偽はわからないけど、ありがとうと言っておくよ。あとは俺が頑張る番だ」
ノイズが走っていたとはいえ、間近で海を見られたのは大きな収穫だった。大樹はスマホを使い、ストリートビューで隣県の海を探す。
どこだ。
違う。
ここか。
違う。
ネットで穴場の海を検索し、鮮明に残っている記憶と照らし合わせていく。地道で骨の折れる作業だが、悠長にはしていられない。
下手をすれば今日にでも、愛美は溺れる可能性がある。もし夢が夢でしかないなら、などという甘い幻想は捨てるべきだ。
「くそっ、どこだ。あいつはどこにいるんだよっ」
愛美はあくまで高校生。これまでの行動から、思いついたら一直線な性格はわかっているが、意外と臆病で弱気、さらには引っ込み思案な一面もある。
大樹と楓の仲を気遣い、頼まれてもいないのにデートのお膳立てをしたり、自ら身を引いたのがいい証拠だ。
「そんな愛美の性格上、一人で東京の海に行くとかは考えられないよな。やっぱり近くの県を中心に探すか」
狙いを絞り、穴場の海をチェックしようとしたところで、食卓から母親に呼ばれる。調べものをしているうちに、すでに午前八時を過ぎていた。
いらないと言おうかとも思ったが、腹が減っていては上手く考えもまとまらないかもしれない。
食卓でトーストを頬張っていると、呼び鈴が鳴らされた。もしかして、愛美がメールを見て旅行から戻ってきたのかもしれない。
転びそうになりながら応対に出ると、来訪者は宅配便だった。しかもドアを開けた先に立っていたのは、以前に危うく愛美と接触事故を起こしかけた田畑という名前のドライバーだ。
向こうも大樹を覚えていたらしく、あれと驚いたように目を丸めた。
「君は……確か、井出さんの友達だったよね。あの時は本当に迷惑をかけたね」
過ぎたこととはいえ、根が真面目なのか、田畑は改めて大樹に謝罪した。
事故から救うために身を挺して愛美を庇ったのもあり、暴走するトラックの被害に遭いそうになったのは大樹も同じだ。そのために、彼にはまだ罪悪感が残っていたのだろう。
「あの子は元気かな。井出さんとはお届け物でよく会うけれど、君達とはなかなか……」
苦笑する田畑に、大樹はとりあえず元気みたいですよと返す。
「今は旅行に行ってるみたいですけど」
「ああ、だからか」
「だから……って、何がです?」
「いや、つい先日なんだけどね。隣の県との近くで彼女に似た人が歩いてるのを見たんだ。信号待ちをしてる時だったし、あんな事があったせいで君と彼女の顔はよく覚えてるから、間違いないと思うんだけどね」
思わぬ形で愛美の話題が出て、大樹は興奮気味に田畑の肩を掴んだ。
「それって、どのあたりですか!」
「ど、どうしたの? ええと、確か……」
隣県の海がある地域の具体的な名称が聞けて、大樹は思わず笑みを浮かべる。
「ありがとうございます!」
立ち去ろうとしたところで、慌てた田畑に呼び止められる。
「待って、お届け物!」
両手で持っていた荷物を差し出され、苦い笑みを返しながら受け取る。しかし伝票を見てすぐにあれ、と首を傾げる。
「これ……宛先、うちじゃないですよ」
「え!? 本当に?」
「はい。うちは土屋ですし」
数秒の沈黙後、田畑は実に気まずそうに、返された小さなダンボールを再び両手に持った。自分でも伝票を見て、住所が違うのも口頭で確認する。
「手間をかけさせて申し訳ない。それにしても、どうして間違えたんだろう。住所も全然違うのに……」
「疲れてたとか」
「いや、休息はきちんと取ってるよ。言い訳にもならないけど、お届け先はこの家だと迷いなく呼び鈴を押してしまったんだ。長年、今の会社で働いているけど、こんなのは初めてだよ」
深々と頭を下げた田畑が、しょんぼりとした背中を見せて退出する。
それを見送ったあと、大樹はすぐに自室へ入った。
スマホをネットに接続し、田畑に教えてもらった地名を検索する。さらには穴場の海岸も加え、出てきた情報の一つ一つをストリートビューで確かめる。
「……ここだ」
ディスプレイに映し出された砂浜の一部と、記憶の一部が見事に合致する。とんでもない偶然というべきか、都合の良すぎる展開というべきか。
昨夜、久しぶりに見た夢といい、すべてが大樹に力を貸してくれているみたいだった。
「まさか……お前が力を貸してくれてるのか?」
非現実的だと理解しながらも、大樹が見つめたのは机の上の小さな人形。返事どころか、頷くことすらできるはずがない。
そんな人形が……とは思っても、数々の不思議な夢のことを考えれば、決して荒唐無稽な話だとは笑えなかった。
「感謝する。まずは清春に連絡だな」
口早に見つけた海岸へ行くと告げる。隣県なので時間はそれなりにかかるが、幸いにしてここからはさほど遠くない地域だ。数時間もあれば鈍行列車でも到着できるだろう。
詳しい場所に関しては、ストリートビューを見ながら地元の人間に聞けばなんとかなるはずだ。
机の引き出しに残しておいたお年玉を財布に詰め込み、いざ出陣と立ち上がった矢先にコトンと音が鳴った。
何事かとそちらを見れば、机に座していたはずの人形がぶつかってもいないのに床へ転がり落ちていた。丁度、大樹と視線が合い、あたかも自分達も連れて行けと主張しているみたいだった。
「そうだな。何でも嫌だ嫌だ言い過ぎの我儘娘に、もう一回渡してやりたいしな」
いつか愛美に返されたハンカチで包んだ人形を、やや乱暴だがジーンズのポケットに入れる。
Tシャツから伸びた腕を振り、家を飛び出した大樹が向かうのは駅だ。
胸に渦巻く嫌な予感が、大樹を焦らせる。愛美が溺れるのは今日なんだぞと通告されているみたいだった。
大樹の背中を、鳴り響くクラクションが追いかけてきた。
振り向く間に白い軽トラックが横を走り抜け、前方で停車する。窓から顔を出したのは、なんと清春だった。
「荷台に乗る」
よくわからないながらも荷台に飛び乗ると、助手席には楓の姿も見えた。
「どうなってるんだ」
「途中で拾った」
「いや、そうじゃなくてだな」
車を発進させ、運転に集中する清春に代わって、楓が開いた窓から説明してくれる。
「大樹君から連絡を貰って、私も駅に行こうとしていたの。そこをたまたま井出君が通りかかって乗せてもらったのよ」
「着いていくとしつこかった」
楓に電話したのは清春のあとだった。恐らくは楓が淑やかさの奥に秘めた強情さを発揮して、渋る親友を半ば強引に頷かせたのだろう。
「けど、運転して大丈夫なのか? この車は?」
浮かんだ疑問をぶつけると、信号で止まった時に清春が答えてくれる。
「免許は取ったばかり。車も。中古で極めて安かった。聖地巡礼の必需品」
なるほどと妙に納得する。この場にいる誰より十八歳になるのが早かった清春は、好きなゲーム作品の舞台と言われる場所を巡るために、わざわざ免許を取って車まで購入したのだ。
「ということは、最近の付き合いの悪さは教習所か」
「秘密ではなく、言う暇がなかった」
「まあ……色々とあったしな」
愛美に死を回避させるので一生懸命だったし、それが終われば楓と交際したりで、清春とはゆっくり遊んでいる暇もなかった。
それでもこうして助けてくれるのだから、親友という存在はありがたい限りだった。
「恩に着るよ、親友」
「そうしてくれ」
何気ない会話だったのだが、助手席で聞いていた楓がクスクス笑った。
大樹が不思議そうにしていると、楓は口元の手を頬に当てて僅かに頬を赤らめる。
「男の子同士の友情ってなんだかいいね。大樹君と井出君に限った話かもしれないけれど、なんだか羨ましい……」
「……楓にだっているだろ、親友がさ」
虚を突かれたような表情が、数舜後に涙すら滲ませそうな感動を湛えた微笑みに変わる。
「ええ。だから私が迎えに行ってあげなければと思ったのよ」
助手席の楓がスマホでナビゲートし、見るからに肩に力が入りまくりの清春が懸命にハンドルを操作する。
荷物の監視目的で荷台に乗っている大樹だが、その荷物は適当なダンボールを乗せているだけで、警察に見つかった時のための言い訳らしかった。
電車と違って、目的地に一直線の軽トラックは快適に道路を走り、隣の県へと入る。
愛美がいると思われる海は、その県の南側に位置するので、互いの県庁所在地を行き来するよりもずっと短時間で到達する。大型のショッピングセンターがあるとかではないので、大樹も特に知らなかった。
「そろそろ着く」
運転席の清春が大声で知らせてくれた。
現在時刻は丁度正午。夢で見た日差しはかなり高かったので、愛美が海で遊ぼうとする時間帯は午後でほぼ間違いない。
溺れたあとにずっと待って夕方になったのを考慮すると、午後一時から三時の間くらいではないかと思われる。
大樹もスマートビューで確認し、細かな位置を清春に伝える。
潮風を全身で受けながら見渡すのは青く透き通った海。一人の人間も一粒の砂も変わらないのだろうと思えるほどの広大さに見惚れる。
地元の川から続く海も十分に綺麗で、時折怖くなるほど大きいが、それとはまた違った印象を受ける。
「大体この変だと思う。あとは歩いて探そう。見つけたら連絡をくれ」
清春と楓が頷く。巻き込んでしまったのは申し訳なく思えるが、やはり誰かを探すという目的において、人手があるのは有難かった。
三人で散らばり、靴底に伝わってくる灼熱の砂を蹴り上げてひた走る。右に左にと視界を変え、小さな異変一つ見逃さないように心掛ける。
風景と記憶が徐々に一致する。夢で見たのはここだ。間違いない。
ならばと大樹は一面の砂浜の中で緑が目立つ場所を探す。
愛美は夢の中で荷物をそこに置いていた。たまに学校にも持ってくるお洒落なデザインのバッグだ。
「……あった! けど、あいつは……どこだっ!? おい、愛美っ!」
海全体に届けとばかりに叫ぶ。愛美を見つけられるのであれば、喉が裂けても構わなかった。
荷物は見つけた。なのに肝心の本人の姿は見つけられない。もしかしたらもう、海の底に沈んでしまったのか。
絶望が心を黒く塗り潰そうとするのを、ポケットに入れている人形を掴んで耐える。
大樹が十年以上も忘れていた人形を、大切に保管してくれていた愛美。証拠に女児の方には汚れらしきものは微塵もない。ずっと生活を共にしてきた相棒みたいなものなのだろう。
だからこそ願う。
だからこそ祈る。
もう一度だ。
もう一度だけ奇跡を起こしてくれと。
「夢じゃなく、愛美を救う現実を見せてくれ! 俺に……あいつを助けさせてくれっ!」
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