第2章 和邇一族の陰謀
第16話 実りの新生活
“実りの秋”という言葉を聞いた方は多いと思うが、実感を受けた人はどれだけいるのだろうか?
いままでは精々、スーパーマーケットの品揃えや収穫のニュースに触れる程度でしか知ることは無かった。
しかし眼前に広がる、圧倒的な光景からは“実りの秋”を感じさせるには十分だ。
黄金にたなびく稲穂は、屋敷から見渡す限りに広がっている。
群青の海では、この時期になると深く澄み切る水面に魚影を捕らえて、黒く滲みだす様だと聞いている。
そうした“実りの秋”は食材という形に姿を変えて、宮に饗される御膳の彩りと共に伝わってくる。
少なくとも現代社会から転生した俺にとっては、初めての実感をともなう体験となっている。
そんな秋のある日に、約束通りの新しい私室が下賜された。
そして同時に、
この日の朝はデヲシヒコが、珍しく俺の六畳間の個室に訪れた。
そこにはマリアも居て、ちょうど朝食を下げるところであった。
「ヲシリよ、
いつも通り返答も待たずに、そのまま部屋に入って片隅に腰掛けた。
(この人絶対にノックしても返事を待たずに、ドアを開けちゃうタイプだな…)
すると凡そ六畳間くらいの部屋は、一気に狭くなったように感じる。
(それにこの部屋って絶対、元々の私室じゃないんだろうなぁ)
デヲシヒコも部屋をひと回り見渡すと、気軽に声を掛けてきた。
「ヲシリよ、身体の回復具合はいかがであるか?」
俺は傍らの松葉杖に手を伸ばすと、一人で立ち上がって見せた。
「お陰様で、ここまで回復致しました。まだまだ歩くまでには至っておりませんが、短い距離なら移動も出来そうです」
その姿をにこやかに見遣りながら、頷きながら言った。
「やはりこの部屋は、ヲシリが使うには狭過ぎたかのぉ。ここはマリアの部屋にも近かったので、身体の復調を見ながらと思って居ったのじゃが、思いの外はやく回復しておる様で何よりじゃ」
そう言いながら、その巨躯が立ち上がると続けて言った。
「そなたに下賜すると約束した、新しい私室がようやく整ったからのう。これから移ることにするぞ」
するとマリアが、慌てたように訊ねた。
「わたしのお役目は、このまま続けても良いでしょうか?」
デヲシヒコは、マリアを見詰めながら重々しく口を開いた。
「マリアの“
マリアはどうしても続けたいと願い出たが、それを一蹴して改めて申し付けた。
「其方には、
王命と言われては、さすがにマリアもおとなしく従わざるを得なかった。
(これで暫らくは俺に囚われることもなく、自らの考え方や知識を身に付けていけるだろう)
デヲシヒコは俺に案内する旨だけを伝えると、先導して大股で進んで行く。
俺もその場でマリアの介添えを受けつつ、松葉杖を突きながら付いて行くことになった。
(いつも即断即決だよなぁ…特に引っ越し荷物がある訳でもないから、身一つで部屋を移るだけで十分だけど…)
屋敷をつなぐ回廊をいくつか抜けて、辿り着いたところは南東に面した角部屋であった。
三人で室内に入っても、思いの外に開放感が有る。
奥へと広がる“続きの間”が二部屋もある。
三部屋合わせたら、ざっと30畳くらいの部屋であった。
(“続きの間”が有るなんて、まるでスウィートルームだな)
部屋を移るだけの引っ越し作業では、マリアも活躍できずに不満げな表情を浮かべて目で訴えかけてきた。
そこで明日にでもまた来るようにと伝えたら、満面の笑みを浮かべて自室に戻って行った。
俺が要望していた文机も、特注品が
胸元から“例の書状”を取り出し、唯一の浅い引き出しに大切にしまい込んだ。
これだけの事で、まるでこの部屋への引っ越し作業が完了したような安堵感を感じた。
デヲシヒコは周囲の動きに惑わされることなく、そのまま屋外に隣接する“続きの間”に進んで行く。
(本当にマイペースだよな…)
そして“続きの間”の奥に備えられた、雨戸のように頑丈な引き戸を開くと、庭に面した幅広い縁側が広がっていた。
俺も急いで、あとを追って縁側まで出ると、そこは庭の光景が一望できる特等席であった。
「すごい!すごく立派な庭園ですね」
デヲシヒコも、俺の言葉に満足そうに頷いている。
それは流石に王家の庭園だなっと思わせるだけの見事な造りとなっていた。
当然ではあるが敷地だけなら、いくらでも広くとれるのだろう。
しかしこれだけの広さの庭園を手入れをして維持するとなると、話は全く別である。
人手も手間も技術も経験も、様々に必要になるのは良く分かる。
そうした意味では、さすがに王家の“プライベートガーデン”だなと言う説得力が備わっている。
敷地一面には四季折々の草木が根付き、今は正面に見事な菊の大輪が植え込まれていた。
そこで思わず庭に降りたくなったが、縁側から庭までの高低差は結構な高さがあった。
(さすがにこの時代に、バリアフリーを求めるのは酷だもんな…)
そんな思いを抱きながら縁側の端を見遣ると、作りたてに見える白木の手擦りが目に入った。
興味津々で近づいてみると、縁側の一部から先が低い段差で、スロープ状に庭に降りる階段が
階段の幅は二人の大人が並べるくらいも在って、片側には手擦りまで付いていた。
低い段差の階段も頑張れば、車椅子でも昇降できそうに作られている。
(凄い!現代でもここまで利用者に配慮した、バリアフリーはあまり目にした記憶がないぞ!もっとも車椅子までは作らないけどね…)
俺はその出来に驚いていると、いつの間にかデヲシヒコが傍らに並んでいた。
「見事な出来であろう」
俺は丁寧に頭を下げて、謝意を伝えた。
「わざわざ俺のためにご用意して下さったのですね。ありがとうございます」
デヲシヒコは誇らしげに、俺に対して語りかけた。
「いや実は、この部屋にヲシリが移ると聞いた庭師がおってな。侍従を通じて、
俺はそんな庭師に対して、感謝の念と敬意を感じていた。
フッと、庭師って大工仕事もできるのだろうか?と思い、デヲシヒコに訊いてみた。
どうやら庭師の息子さんが、宮大工を本業としているらしい。
過日の当地の
要は
庭師の息子さんは作戦行動中に、不自由な身体にも拘らず果敢に指揮を執る俺の姿に感銘を受けたとのことである。
(うん、そんな話を聞かされてしまうと背中の辺りが、むず痒くなってしまう…)
この滑らかな階段は、当時の記憶から色々な想定を検討した上で、建設されたものだとのことであった。
俺は強い感謝の思いに満たされていた。
(確かに建設物としては小規模かもしれないけど、こんなに利用者の気持ちを汲んだ設計は見たことがないな…)
デヲシヒコに対して、なにかしらの方法で庭師と大工の功績を
すると間もなく“重陽の節句”の祭事が有るので、そこへ招待しても良いとのお許しを得た。
なんでも王家の祭事には一般の者は原則参加できない程、格式が高い行事らしい。
本来なら準備を整える部屋詰めの庭師ですら、招かれるのは稀である程の栄誉になるとのことである。
俺は大賛成で、その提案で進めて頂くように願い出た。
「そう言えばミノタロからも、今年は一般の者を特別に呼びたいと申していたのう」
デヲシヒコは自慢の八束髭を撫でながら呟いていた。
俺は新しく立派な部屋を下賜されたのを思い出して、改めて感謝の意を伝えた。
するとデヲシヒコは、この部屋は亡き祖父が使っていたものだと教えてくれた。
元々は俺が元服した暁に、下賜する予定の私室であったとのことだ。
「ヲシリの好きなように使うがよい」
一言だけ伝えると、縁側の端まで進み出ると庭を見詰めながら思い出に耽るように、目線を庭先に注いでいた。
視線の先には、庭に咲き誇る大輪の菊が大量に植え込まれていた。
するとデヲシヒコは目蓋を細めて、思い出を懐かしむように呟いていた。
「お前の母さんは、菊が好きな女性だった…」
それだけを言い残すと、俺を残して立ち去って行った。
(そうか…ここから母さんと一緒に菊を愛でたりしてたのかも知れないな)
俺は早速、松葉杖を使って裸足で庭に降り立った。
建物の脇には俺の要望で作ってもらった、長さ10メートル程にもなる腰の高さ程の平行棒に向かった。
理学療法などで使われる器具だ。
木製ではあるがシッカリとした作りのため、全身で掴まっても折れたり倒れたりする心配は一切ない。
俺は手にしていた松葉杖を傍らに立てかけ、裸足のまま木製の棒を掴んで平行棒の内側に身体を移した。
いよいよ本格的なリハビリメニューに移れることに喜びを感じていたが、同時にこれだけの器具を使いこなせるか?という一抹の不安を抱えていた。
緊張しながら、平行棒を掴む。
右手は問題ないことを確認したが、それは想定内だ。
次に左手の棒を掴んでみると、ちゃんと握ることが出来た。
上から体重を軽く掛けてみたが、左手の方もある程度は耐えてくれているようだ。
(よっしゃー!これなら“りはーびり”も、順調に進めそうな気がするぞ)
俺は慎重に、一歩一歩と練習を進めることにした。
先ずは右足を前に踏み込んで、重心を探りながら足の裏で地面を掴んだ。
この歩法は太極拳などの中国拳法独特の動きである。
(昔は大学卒業後の運動不足を心配して、熱心にフィットネスクラブに通ったっけ…)
こんな知識が意外な場面で生かされるとは、何でも体験してみるものである。
踏み出した足場を確認すると、ソロソロと左足を引きずるように前へ進める。
こちらは未だに、上手くは動かすことが出来ないままである。
地面に降ろした足からは、重心も定かに確認できない。
額からは、汗がうっすらと滲んでいた。
どうしても次の右足を、左足より前に踏み出せないからであった。
(くっ…どうなってるんだ?)
右足の裏はしっかりと地面を捕らえることが出来ているのだが、左足の踏み出しにはかなり道程が長そうだ。
意を決して、左足の真ん中に重心を移すと、一気に右足を振り出した。
「ガハッ…痛っ!」
慌てて右側の手摺り棒に両手で捕まった。
勢いで棒に顎をしたたかに打ち付けてしまい、その弾みで口内を切ってしまったようだ。
じんわりと顎の痛みが伝わると共に、舌には血の鉄分の味が広がっていく。
俺は現実を突きつけられた様な絶望感に襲われた。
(俺の性根はこんなものか…)
そして、フッと手摺り棒の内側が目に入った。
外側からは何も装飾らしきものは無かったのだが、内側には凡そ一歩毎に雄々しい牛の彫刻が施されていた。
これだけの装飾が、一見しただけでは気が付けない。
今のように手摺りにしがみ付いていなかったら、目にも入らない…。
俺はこの平行棒を作った人も、縁側からのスロープ状の階段を作った宮大工さんじゃないだろうか?と思い始めていた。
使い手の事をここまで考えて、物を作れるものだろうか?
大量消費の規格品しか使ったことが無かったことに、なんて貧しい豊かさだったのかと言うことに改めて気付かされた。
俺は再び平行棒を両手に握って、改めて右足から地を踏み始めた。
何度も棒に掴まり、立ち上がり倒れて、また立ち上がった。
いつの間にか空は真っ赤な夕焼け空に染まっていた。
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