あわい荘の魔にまに

星見守灯也

第1話、狼はうろたえない

 黒い夜、満月を背に、狼人間がのっそりと立ち上がる。

 その開いた口からは牙がのぞき、金の目が俺を捉えて見開かれた。

 鋭い爪が無造作にこちらに向けられる。

 それは腹の深いところから恐怖を呼び起こした。

 ――それでも、奴を捕まえなければならない。

 絶対に。


 


 ゴールデンウィークも終わった季節の変わり目、安和井あわいひとしは気動車に乗ってこの街に来た。山に囲まれた人口十万にも満たない地方都市。かつて、父方の伯母が住んでいた街だ。急逝した彼女の遺したものは、ひとつのアパートだった。

「かわいそう?」

「あわい荘だ、ひとし

 父は俺にそのアパートの管理人を継いでほしいと言った。高校卒業後引きこもっていた俺に? できるわけがない。そう思ったが、あれこれ理由をつけて押し切られてしまった。そしてこの日の夕方、最寄りの駅に降りたというわけだ。




 俺は人が嫌いだ。人も俺が嫌いだと思う。

 三白眼で目つきが悪いため、よく怖がられる。通りすがりにギョッとされることは日常、睨まないでくれと言われるし、謝っても反抗的だと怒られる。いつも怒ってると思われて、いるだけで雰囲気が勝手に悪くなる。


 駅から十三分のそこに、「あわい荘」と書かれたアパートがあった。

 預かった鍵で管理人室兼住居の101号室に入る。……伯母が住んでいた部屋だ。先月で止まったカレンダー、出しっぱなしの暖房器具。父が葬儀の後少し片付けたというが、雑然とした生活感がいっそうもの寂しい。

 伯母と最後に会ったのは、もう十五年も前のこと。「世界にはたくさんの曖昧な境界があるの」。足が悪くて本を読むことが好きだった伯母はここで何を思っていたのだろう。本棚の上に小さな小さな骨壷を置き、手を合わせた。




 さて、管理人の初仕事だ。住人の方に自己紹介しなければ。……気が重い。部屋に置いてあった回覧板を取って、用意した紙を挟む。町内会から預かった「ひったくりに注意」の紙と、もう一枚。仁の顔写真と名前と携帯電話番号が赤字で書かれている。

 写真はにっこりと笑ってみたが、余計に怖い……気がする。怖がられないように、趣味のこととか好きな漫画も書けばよかったかな。いや、それはちょっと馴れ馴れしすぎるか。うーん、第一印象って難しいなあ。

 少し目つきがごまかせそうな気がして、黒縁の伊達眼鏡をかけてみた。鏡を見て、にこっと笑う。……やっぱり笑うのはやめておこう。



 まず向かったのは向かいの102号室。「東尾牙狼」の表札に、狂犬病予防接種済みのステッカー。犬がいるのかな。仲良くなったらもふもふさせてもらえないかな。その表札の下に「何でも屋」の小さな看板があった。ドアの下の方にはでこぼことへこみがある。

 父は「まず牙狼がろうさんに頼れ」と言ったけど、怖い人だったらどうしよう。いや、俺が怖がられるほうが先か。ピンポーン。仁はチャイムを鳴らして住人が出てくるのを待った。これでもう逃げられない。心臓が痛い気がする。

「はあーい」

「あ、ひ、東尾ひがしお牙狼がろうさん、ですね……?」

「はい、そうで……」

 出てきたのはアッシュグレーの髪のガタイがいい男だった。金の目はまんまるくて、人の良さそうな顔だ。

「あー! 新しい管理人さんだあ。優子さんの甥っ子さんだよね?」

 伯母のことを名前で呼ばれて、思わずぎょっとしてしまった。慌てて回覧板を押し付けごまかそうとする。

「は、はい、そうです。ここ、赤で書いてるのが名前と携帯番号なので……」

「赤? んー……ああ……これね。ひとしさん、わかりましたー」

 牙狼はにこやかに笑う。よかった、怖がられてない。仁はほっとして早口でまくしたてる。

「それで、他の方にもご挨拶をしたいのですが、いつごろならいらっしゃいますかね」

「ん、オレから聞いておきますよ。もう遅いですし、今日は休んでください」

「あ、これはお気遣いを……はい、ありがとうございます……」

 ひとつ頭を下げて仁は逃げるように101号室に戻る。なんかまだ見られてると思い、振り返ると牙狼が小さく手を振った。慌ててもうひとつ軽く頭を下げて部屋に入り、久しぶりに人と話した……と仁はドアの裏でへたりこんだのだった。


 牙狼は部屋に入っていく仁を見つめて鼻をひくつかせる。

「ちゃんと挨拶したいんだけどなあ……」




 コンビニのパンとチキンカツを食べて、机の上のゴミをまとめて袋に入れておく。長い移動と人と話して疲れたので、もう寝ようと思った仁だが、歯ブラシと歯磨き粉を元の家に忘れてきたようだ。まあいいか。近くにドラッグストアがあったし、多分まだやってるはずだ。サンダルを履いて外に向かう。もう日は落ち切って、東の空に綺麗な満月がでていた。

「空が広い……」

 都会で生まれ育った仁には慣れない広さで、少し心細くなった。牙狼さんは俺を怖がらなかったけれど、じゃあ簡単に話せるかといえばそうはいかない。こんな感じで住人の人たちと話してまとめることができるのだろうか……。




「うおーーーーーーーん!」

「うるせーぞ!」

「うおおーーーーーーーーん!」

 日が沈み、ゆっくりと登ってきた満月に犬の遠吠えがひびいた。静かなはずの住宅街にやけに大きく響く。

「また102号室か!」

「くそ、今日満月だったな……」

「おら! 出てこい、ガル夫!」

 ドンッ!!

 102号室の前に集まった住人たちは、思いっきりそのドアを叩き、蹴飛ばした。ガンッ!! ドアの下のほうにへこみが増える。

「吠えるものに吠えてもうるさいだけでしょう」

 ひとりが呆れたように止めたとき。

「うおーん!」

 ガシャーン! 

「ひゃっほーーーーーーう!!」

「うわーーーーーー!」

 ガラスが盛大に割れる音が起こり、そして叫び声が上がった。




 一方、仁はドラッグストアからの帰り道で「それ」に行きあった。アパートの前に差し掛かった時、ガシャーン! と音がして何かが飛んで行った。ガラス窓をぶち破ったのは大きな灰色の犬……? まるでホラーゲームのドッキリ演出のようだった。襲われる、と反射的に思い、腕で防御する。

 しかしその影は、仁に見向きもせず道を越え、向こうの家の庭を越え、去っていってしまった。なんだか嫌な予感がして、急いでアパートに走り帰ると、そこには住人たちが集まっていた。

「どうしたんですか!? 102号ですよね? なんか犬、犬が飛んだ! ……って、え?」

 奇妙な人たちだった。気まずそうに顔を見合わせた異形のものたち。

 ひとりは朽ちる途中のゾンビのようで、ひとりは八重歯が目立つ黒ずくめの男。ひとりは白い着物の女で、ひとりは額にツノのある少女。

「あー……」

 言葉が継げない仁に、もうひとり。青と黄色の皮膚を縫い合わせた男――あえて言いあらわせばフランケンシュタインの怪物が進み出る。男の身長は、身をかがめてもアパートの天井に届くほど高かった。こんなデカい服のサイズあるんだ……。

「失礼、新管理人の仁さんですね? 住人を代表して説明いたします」

「は、はあ……」

 映画で見た怪物とは違う、理知的な目で彼は語り始める。

「私どものように、ここは人ではないものが住まうアパートでして」

「……おばけ?」

 仁はあからさまにビビった。お化けが怖くて布団から頭も足も出さずに寝てよく窒息しそうになっている男なのだ。怖がられるのは嫌だが、怖いものは怖い。それだから怖がられても何も言えなくて内に溜め込むことになる。

「まあ……そんなものです」

「じゃあ、牙狼さんも……?」

「そう、ガル夫……牙狼さんは人狼でいらっしゃいます。満月の夜に狼人間になるのですが、その……テンションが爆上がりしてしまうのです」

 ギョッとした仁に、怪物は手を振りながら慌てて付け加える。

「もちろん人を襲うことはありません、ありません、が……」

「興奮して、フルチンで後ろとびひねり前方抱え込み二回宙返りとかするんだよなー」

 その後ろから、乾いたような皮膚のゾンビがあっけらかんと言う。ええ……と嫌そうに顔を引き攣らせた仁を安心させるように怪物が付け加えた。

「大丈夫です、まだ露出で捕まったことはありません」

「変質者じゃん、変質者じゃん!」

「人間の法は犬には適用できませんので……」

「くそっ、早く捕まえるぞ! 変態アパートになっちまう!」




 夜も遅かったが、仁たちは聞き込みをすることにした。近所の家を回っておかしなものを見なかったか話を聞く。

「そこで側溝に落ちたのを見ました」

「ありがとうございます!」

「走ってて植え込みにぶつかって穴を開けた」

「ごめんなさい!」

「うちの池に飛び込んでハマってたので助けたんです」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 あちこちで頭を下げながらも彼の足取りがわかってきた。それはともかく。

「言っちゃなんだけど、どんくさい……?」

「わりと」




 夜の小学校。真っ暗な空間に動くものがある。

「いた!」

「いたなあ」

 満月の光に毛を光らせ、狼人間が全裸で夜の校庭を全力疾走していた。こっちの鉄棒で大車輪、あっちの砂場でブレイクダンス。

「妙にキレがいいのが腹立つなー……」

 ついてきた黒い服の八重歯の男が大袈裟に頭を振った。フランケンシュタインの怪物が仁に聞く。

「さて、どうします?」

 どうすっかなあと仁は頭を抱えた。できれば見なかったことにしたい。見なかったことにしたいが、と思った視界の端で、牙狼が巻いた大縄を噛み始めた。綱引き用のだろう。運動会で使うのに出しておいたのだろうか。

「あ、こら! 噛むな!」

 思わず仁は出ていって縄を掴んでしまう。牙狼はぎょろりとした半目で見上げると、嬉しそうに綱を引っ張った。仁の体が浮いて振り回される。遊園地の回転ブランコのように、遠心力に任せて回される。

「待って! 止めて止めて!!」

 手が痛い。でも離したら飛んでいってしまう。縄を振り回すのに夢中になって、だんだん牙狼の鼻に皺が寄ってくる。熱狂しているように目が怖くなってきた。ゔうー……と唸って、勢いのまま縄を投げた。

「うわああああああああ!!」

 仁は満月にむかって飛び、そこで綱から手を離してしまった。そのまま放物線上に落ちていく。

「はい、キャッチー!」

 ゾンビの掛け声に合わせてフランケンシュタインの怪物が手を伸ばして仁を受け止めた。

「仁さん、あれは……」

「あいつめ……」

 立ち上がって、仁は牙狼を見あげた。まるで昔飼っていた犬だ。楽しすぎて我を忘れている。俺をバカにしやがって……仁を無視して遊ぶ牙狼に、段々と腹が立ってくる。

「くそっ」

 仁はそこに落ちていたリレーのバトンをとって、校庭の端から向こうまで投げた。

「そーら! とってこーい!」

 牙狼は尻尾を振って走っていくと、素直にバトンを捕まえた。お、これはいいかも。

「よーし、よしよし、いい子だ。こっち持っておいでー」

 たたたたと走ってきた牙狼だったが、そのまま仁を華麗にスルー。うずくまってガブガブとバトンを噛んでいる。仁が近づくと、立ち上がって逃げ、捕まらないぎりぎりの位置をキープする。……完全にバカにされている。

「こ、このバカやろうー!!」




「申し訳ございませんでした!」

 管理人になった翌日の仕事は、警察署で頭を下げることだった。結局、牙狼は早朝に砂場で腹を見せて寝ているところを捕獲された。全裸の成人男性が。「ほっときゃ寝ますのに」と言ったのはゾンビ。「パンツありますよ」と持ってきてくれたのはフランケンシュタインの怪物。気が効くなあ……。でもパンイチでもまだ怪しい人だなあ……。

「すみません、満月だとテンション爆発しちゃって。はしゃぎたくてわけわかんなくなるんですよ」

「いや、無事でよかったです。この前は事故に遭いそうになっていたので」

 警官はもう何もかもわかっている様子で言った。親切な警官さんでよかった。こういうことはよくあるらしい。よくある……。仁はこれからのことを想像してがっくりと肩を落とした。

「安和井さん、そんなに怒らないであげてください」

「あ……」

 そういや今は眼鏡してないんだっけ。警官さんには怒っているように見られているのか。

「……怒ってはいないです」

 怒っていない。目つきのせいでそう見えるかもしれないが。

「呆れてるんだよねえ」

 けらけらと笑って牙狼が背中を軽く叩く。……いったい誰のせいだと思ってる? これ見よがしにため息をついて見せたが、どこまでわかっているやら。そんな俺を見て、警官さんが頬を緩めた。

「はははは、怒ってないのはよかった。このくらいで怒ってたら身が持ちません」




 まだ朝は早い。二人でアパートにもどってくると、前庭にナイトキャップを被ったきれいな女性がいた。緑色のサングラス越しに牙狼を見る。

「あら、ガル夫、どうしたの? ガラスが割れていたけど」

「あー、あなた寝たら起きないですもんね。昨夜、満月でして」

「ああ、そう……」

 彼女はすぐに察したらしい。どんだけ繰り返してるんだ。ガラスの後片付けしないとなあ……。ガラス代って家賃に上乗せでいいんだろうか。そんなことを考えていると、彼女は仁に声をかけてきた。

「キミが新しい管理人さんね? あら、何を怒る事があるの?」

「いえ、それは、ええと……」

「仁さんは怒ってないよう」

 牙狼が口を出した。

「ふむ?」

 女性のナイトキャップから一匹の蛇が出てきて、仁を見た。蛇? ペット?

「確かに、ストレスではあるけど怒るのとは違うわね」

「え、ストレスだったの!?」

 驚く牙狼。驚くと耳の上の髪が逆立つんだな……。それにしても狼人間に一晩中ひっぱり回されてストレス以外に何があると言うのか。そのあとも警察に行って初めての人と話して……疲れるに決まってる。

「そうかあ……オレ、もっと仲良くなりたいんだけどなあ」

 牙狼はしゅんとなってしまう。おい、まるでこっちが悪いみたいじゃないか。

「なら、自己紹介すればいいじゃない。昨日来たばかりなんでしょう?」

「仁さんだよ! それ以外知らない! でもいい人!」

 嬉しそうにする牙狼。昔、学校ではにこやかに自己紹介しても、みんな怖がって声をかけてくれなかったじゃないか。それでも、俺はいい人なんだろうか。

「そう、仁さんというのね? よろしく」

「……安和井仁です。親にはジンって呼ばれてたりします」

 そこで詰まってしまった。何から言えばいいのかわからない。うろうろと手をさまよわせて続く言葉を探す。

「ええと、あと、趣味とか……? って、聞けよおい!」

 その間に、牙狼はするっと仁の背後に回った。そしてケツの割れ目に鼻を突っ込んだ。くんくん。

「ひゃん!」

「うん、優子さんの親戚だあ。昨日、コンビニのチキンカツ食べたでしょ?」

「へ、へ……」

「あれ美味しいよねー」

「変質者!」

 牙狼の頭に拳骨が落ちた。考える前にとっさに手が出ていた。大袈裟に痛がって牙狼が言い訳をする。

「丁寧にあいさつしたのに……」

「この、バカやろう!」

「まあ……バカよね、その子」

 ナイトキャップの女がつぶやいた。

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あわい荘の魔にまに 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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