六話 電車
朝とは思えないほど優雅に電車が動く。
この時間帯はあまり混まないのか、この車両で立っているのは私と月渓くんだけだ。
私たちを隔てる人の群れはいない。
私からは月渓くんがよく見えるが、彼は私に背を向けていて恐らく私には気づいていない。
というか私のことなど覚えてないかもしれない……
初めて会ったのがこないだの金曜でもう二日間以上経っているから覚えられていなくてもあたりまえか……
私は月渓くんがこちらを向いていないことをいい事に彼のことを注視する。
相変わらず背は高く天井が低く見える。長い脚とスラックスの組み合わせがとてもよく似合う。朝日を受けて綺麗に輝く金髪に、光を反射するピアス。やはり不良のような出で立ちだが、後ろ姿にあの鋭い視線のないことが相まって先週より周りの空気が柔らかに感じる。
電車が駅に近づき減速を始める。
どうやら一駅分もの間彼のことを見つめていたらしい。
普段はもっと早い時間の電車に乗っているから気づかなかったのか……
いやはや、まさか電車の方面が同じだったとはね……
減速しきった電車が最後に大きく揺れて完全に停止する。
ふと彼の前のドアを見ると、駅のホームに人がごった返していた。
この駅は他の路線とも繋がっているからいつも乗り降りする人が多い。
開いたドアから人が雪崩のように乗り込んでくる。
ドアの前にいた月渓くんは人の群れを見て嫌そうに顔をしかめた。
あの不機嫌そうな顔、月渓くんは人が苦手なんだろうか。
初めて会った時もこんな顔をしていた気がするな……
私は車内の隅の方で思案しながら彼を見る。
すると月渓くんが後ろを向いた。
視線が交差し彼の綺麗な目が私をとらえる。
先週も見た万華鏡が目の前に出現し、私は無意識のうちに息をのむ。
先程まで柔らかかった周辺の空気がたちまち重くなる。
なんでこっち向くの……
私の思考を読み取ったのか月渓くんが動き出した。
彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そのまま私の方へ猛然と……
あっ……と言う間もなく月渓くんが目の前に屹立する。
その後ろにぞろぞろと人の波が押し寄せ、退路が完全に無くなる。
え、ちょ……はい……?
私は壁と月渓くんに挟まれ身動きが取れなくなっていた。
月渓くんが頭一つ分も高い所から私を見下ろしてくる。
私は咄嗟に目を逸らすが、彼にはとても不自然に見えただろう……
でも仕方がない。
だって、近いんだもん……!
彼はちょっと身体を動かせば触れてしまいそうなほど近距離にいる。
距離をとろうにも後ろは壁でもうこれ以上下がれない。
スカートの前で手をぎゅっと強く握る。
心臓が彼にも聞こえてしまいそうなほど激しく動く。
私は目を逸らした先にあった車内広告を意味もなく見つめた。
転職にはノーリタイア、転職にはノーリタイア、転職にはノーリタイア、転職にはノーリタイア……
顔の横に視線を感じ、冷や汗が流れる。
早く駅に着いてくれと願わずにはいられない。
すると突然、
ガタン
大きく電車が揺れ、体がよろける。
「あっ……」
こんなタイミングで揺れるなんてツイてない。
私はよそ見をしていたせいで上手くバランスが取れず、前につんのめってしまった。
顔から月渓くんに突っ込んでゆく。
彼は身長が高いので私の顔と彼の胸が同じ高さにあった。
ぽすっと彼の懐に収まる。
顔が柔らかいもので囲まれ息ができない。
彼の体温と柔軟剤の匂いが私の頭を正常に回らなくさせる。
私は月渓くんにもたれかかったままフリーズしてしまった。
終わった……
これは殺されても仕方がない。
うん、ゲームオーバーです。
GGでしたー。
私は冗談ではなく覚悟を決めた。
だってそうでしょ、何度も言うけど終わりでしょ。
電車でよろけること自体がもう御法度みたいなものなのによりによってあの月渓くんに倒れるとか、最低でも絶命ものでしょ……
こんな事になるならさっさと登校しようと決心していつもみたいに早めに行動するんだった……
というかいっそ学校に行かなければよかったのかも……
ああ、時間を戻したい……
私は心の底からそう思う。
そんな願いとは裏腹に現状では現在進行形で月渓くんにもたれかかっている。
というか、なんで月渓くんは何も言ってこないの……?
後頭部に視線を感じるが彼はそれ以外になにもアクションを起こそうとしていない。
つり革のパイプに手をかけ私の目の前で仁王立ちしたままじっとしている。
もたれかかった瞬間に殴り飛ばされると思っていたからこれは予想外だ。
これは私、助かるかも……?
いや、今は満員だから何もしてきていないだけかもしれない。
駅に着いたら人気のない所に連れて行かれてそのまま……とかはありそう……
でもそれにしては彼の機嫌がそこまで悪くなさそうな気が……
気のせいか……?
何にしても殺されなさそうなのは良いことなのだが何もしてこないってのはこれまた気まずい……
倒れかかったタイミングで謝りながら離れるべきだったと思うが、もう明らかに遅いし私の性格上今から動くのは難しそうだ……
電車は普段通りのダイヤで動いている。
私の心臓はさっきから狂ったように速く振動している。
よし、駅に着いたら何がなんでも彼に謝ってその場を離れよう。
きっとそれが今の私ができる最善の手段だと思う。
早く駅に着いてくれ……
そうでもしないとおかしくなりそうだ……
私の願いが届いたのか電車が減速を始める。
まだ月渓くんは何もしてこない。
そのまま電車が学校最寄りで停車してドアが開いた。
開いたのは私たちとは反対のドアで、さっき乗ってきたサラリーマン達が我先にと降りていく。
その間も私は月渓くんに密着していた。
彼の真後ろにいた知らないおじさんが動く気配を感じ月渓くんがピクリと反応する。
私は意を決して彼から離れようと体に力を入れる。
しかし先に動いたのは月渓くんだった。
すっと肩を掴まれ、私の体が一瞬で固まる。
背中に嫌な汗が流れ、気持ちが悪い。
私は彼に拉致される未来を想像したが、その未来は来なかった。
予想外に優しい力で私は胸の中から出される。
考えてもいなかった彼の行動に私は無意識に顔を上げた。
すると私のことをじっと見つめる彼の瞳と目が合う。
その瞳は何度見ても綺麗で吸い込まれそうだ。
月渓くんは無言で私を数秒間見つめてから口を開いた。
「おはよ」
「あ……お、おはよう」
突然のことで反射的に返事を返してしまう。
ほんとは謝ったり色々すべきことがあるのだろうがこの時ばかりは仕方がなかったと思う。
私の返事を聞いてから彼は何も無かったかのように電車を降りていった。
その後ろ姿をいまだに何が起こったのかわかっていない頭のまま見つめる。
電車のドアがぷしゅーと音を立てて閉じた。
私は遅刻することが確定し、どうにもスッキリしない一日が始まった。
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