二限目:私にやる気を出させて!

 猫野ねこのと生徒たちが出会って二週間が経った。

 その間になにも起きないわけもなく、猫野の振る舞いに振り回されるここ大婆氏邸だいばあしてい中学校であった。


 「犬田いぬた先生、おはようございます」

 猫野はパソコンに向かって作業をする犬田に挨拶をする。

 「ああ、猫野先生、おはようございます」

 酷くやつれた様子の犬田は、かすれた声で返事をした。

 この教師がなぜここまでやつれているかというと、彼女の性格に起因する。彼女はその真面目さ故に、手を抜くということはできない。そのかいあってか、大学では成績優秀、採用試験は一発合格、同僚達からの評判が良く、生徒たちからも好かれている。しかし、これまでその優秀さを褒められることがほとんどであったため、頼られると嬉しくなってしまい、断れないという残念な教師なのである。

 そして、学校業務におけるボランティア的作業を多々請け負ってしまい、この様子なのである。


 そんな教師にも無情にも今日という日が始まる。




   ***




 「いまからHRをはじめます。はじめに先生から、お願いします」

 猫野先生は教壇に立つと、手元のファイルを広げた。

 「本日の自学(自習課題)の不提出者です。木田さん、佐倉さん、野田さん、以上です。三名は何か説明事項はありますか?」

 「あ、出すの忘れてました」

 あっけらかんとした返答をしたのはソフトテニス部の野田浩一のだこういちだ。

 「わかりました。HR終了後に受け取ります。残り二人は?」

 「自学する意味がわからないから、しませんでした~」

 佐倉は始業式以降ずっとこの調子だ。宿題をする意味がないからしない。歴史を覚えなくても生きていけるなど、様々な言いがかりを猫野先生につけている。流石にランニングの意味がわからないと言った時は走田そうだ先生にこっぴどく𠮟られて、それ以降は体育の授業では静かにしている。

 「そうですか。木田さんは何かありますか?」

 この先生の態度には狂気さえ覚える。佐倉に対する淡泊な対応も含めて、猫野先生という人間が僕たちは掴めずにいた。

 「え、ああ、家に忘れました」

 木田も大概だ。でも結局、彼は次の日には課題を持ってくる。

 「わかりました。私からは以上です」

 僕の号令でHRが終了する。やっぱり、今日もなにも起こらないなんていうことはないのだろう。




   ***




 佐倉芽愛さくらめなはごくごく普通の中学三年生である。

 両親は共働きであるものの、家庭環境に問題はないらしい。また、一年、二年とも大きな問題を起こしたことはない。学力は中の下といったぐらいだ。

 ただ、彼女のそのような態度は度々問題視されており、教師たちはその対応に困っていた。とはいっても、彼女に厳しく注意すれば猫野にとるような態度を見せなくなる。つまるところ教師によって態度を変えるありきたりな中学生なのである。


 「そのような振る舞いをする理由は不明、、、」

 猫野は職員室の自身の机の上に広げた佐倉の指導要録を見ながら小さく呟いた。




   ***




 「せんせー、なんでそんなこと覚えないといけないんですかー?」

 やっぱり、僕の予想通りに佐倉の嫌がらせは始まった。

 「生きていくためです」

 そして猫野先生も相手にしない。

 「別に覚えなくても生きていけるでしょー」

 「ええ、生きていけますね」

 いつもはこの程度のやり取りで佐倉がそれ以上言うことはない。きっと自分が論破してやったと満足するのだろう。だが、今回は違った。

 「だったら、覚えなくていいじゃん」

 佐倉の思いもよらない追撃に教室に緊張が走る。

 「だったら、佐倉さんは覚えなくてもいいのではないですか?」

 猫野先生はこの佐倉の問いの間でも着々と板書している。

 「ふーん、じゃあ覚えないわー」

 猫野先生はそれ以上は何も言わなかった。何もなかったかのように授業をするだけだ。唯一何かが起こったといえば、佐倉が初めて不満足な顔をしたということだ。

 



   ***




 佐倉と猫野がこのようなやり取りをして二日後。

 家庭科の授業で事件が起きてしまう。


 家庭科授業でも佐倉の態度は猫野にとるようなものと同じだった。

 家庭科担当である待針まちばり縫子ぬいこは初老の女性であり、生徒たちにとって所謂、ちょろい先生という立ち位置だ。 

 それは佐倉にとっても同様で、あたりが強いのは前からだった。

 佐倉の態度については学年全体として共有しているため、待針が佐倉に対して激昂することはなかった。

 しかし、その日は違った。違ったのは佐倉だった。佐倉はいつも以上に待針に詰め寄り、なぜこんなことをしないといけないのか、こんなことをしてもなんの意味もないなどとしつこく繰り返した。

 それはどう見ても、猫野に相手にされないストレスをこの教師にぶつけているのは明らかだった。

 佐倉のどの言葉が待針を怒らせたのか分からない。待針も我慢の限界だったのだろう。

 待針の怒号は職員室にまで届き、猫野を含む数名の教師が応援に駆けつける事態となった。


 そして、猫野は形式上でも佐倉の指導をしなければならなくなった。



 

   ***



 

 部活動のはつらつとした音が生徒指導室にいる猫野と佐倉にも聞こえてくる。


 「なぜあのようなことをしたんですか?」

 猫野が虚ろな目で佐倉を見つめる。

 「別にどうだっていいでしょ」

 「ええ、どうだっていいです。しかし、今回のことで私はあなたの*指導記録を書いて、あなたに待針先生に謝るように言わなければならなくなりました。ですので、動機を教えてください」

 佐倉は机に視線を落としたまま、貧乏ゆすりをしている。

 「あのババアがうざいからだよ」

 「なるほど、むしゃくしゃしてやったと供述している、、、と」

 猫野は手元のファイルにメモを取っている。

 「分かりました。あとは待針先生に謝罪をしておいてください。以上です」

 やはり猫野は佐倉を𠮟るわけでも、佐倉に寄り添うわけでもなく、ただただ必要な作業をして去ろうとする。

 「いやよ!なんで私があいつに謝んないといけないの!?あいつが私の質問に答えられなかっただけでしょ?」

 猫野は立ち上がろうとした姿勢を戻し、佐倉に向きかえる。

 佐倉は猫野の目がいつもの無気力な目と比べて少し見開いている気がした。

 「では、聞きます。その答えを知って君はどうなるんです?」

 「やる気がでるかもしれないじゃん」

 「かもしれない、、、?じゃあでないかもしれないわけですよね。そんな不確定なものに私たち(教師)は真剣に悩む暇はありません」


 「第一、君が主張する『理屈』というのは元来、説明できないものが世の中ほとんどです。こと学びにおいてはそんなのはありません。なぜなら、学校で学んだほとんどの知識は一生で使うか分からないからです。故に私たちは今学んでいることがどれほど君たちに役立つかなんて説明できるはずがありません」

 猫野の目は真っ直ぐに佐倉を捉え、淡々と話す。佐倉はその迫力というべきか勢いというべきか、猫野の持つ冷たい熱みたなものに気圧される。


 「じゃ、じゃあ、なんで先生たちは勉強を教えるのよ」

 「それが最も汎用的であるからです。つまるところ、君が何に興味を持つようになったり、どんなことにやる気がでるようになったり、どんな職業につくとか、私たちは分かりません。なので、最低限ここまであればどんな道を歩もうと困らないだろうというラインを引いて、それを教えているわけです」

 佐倉はいつの間にか猫野の目をしっかりと見て、話を聞いている。


 「じゃあ、私が将来どうなるか決めて、その勉強しかしないってなれば、他の勉強はいらないってこと?」

 「それもありな選択肢ですね。世の中には義務教育課程を終了したら六法全書を手にして法律家になる勉強しかしなくなる人もいます。そうした方が効率的に法律家になれるでしょう。しかし、なれない人やならない人もいるわけです。例えば、自身の興味が変わってしまった、何度も受験しても落ちてしまい諦めることにした、などです。その時、なんにも役に立たなかった知識や技能が少なからず何かをつなぎとめてくれるかもしれないのです」


 佐倉はそれ以上は何も言わなかった。

 きっと猫野の言葉は佐倉には伝わりきれていないだろう。しかし、佐倉はこの教師がもつ教育熱という青臭いものに無意識に触れ、意識に小さな波紋が広がった。

 猫野は珍しく大きく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。

 「以上です。ともあれ、佐倉さんがする選択は佐倉さんに責任があります。もちろん私はそれを捻じ曲げようなんて思ってません。どうでもいいです」

 そういうといつのまにかいつもの虚ろな目に戻り、曲がった背を佐倉に向けて出ていった。


  *指導記録とは、児童生徒に対して指導が行われた時に、教師が誰に、どのよう

   な事案で、どのような指導を行ったかを記録した報告書である。主幹教諭たち

   に提出され、場合によっては校長と教師の面談が設けられたりする。




   ***




 それでも佐倉の嫌がらせは続いた。でもこれまでと違うのはそういった嫌がらせを猫野にだけするようになったということだ。

 彼女の言動がなぜ猫野にだけ向けられるようになったのかは彼女自身も分からないだろう。

 でもそれは一種の諦めにも似たような感情ではないだろうか。

 教師を含む大人は誰も納得のいく答えを出してくれるわけではない。所謂、ひねくれた子どもたちが大人にぶつける『そもそも論』的質問に合点のいく回答を出すなんてのは、常連でもない客に「いつもの」と言われて推測で生ビールと冷奴、チャンジャを準備しなければならないくらい難しい。

 佐倉はそれに気付いたのだろう。教師といっても、大人といってもなぜこの仕事をしなければならないのか分からずに生きているのだと。

 その行動原理について突き詰めたところで知れるのは大人がいかに空虚で無能であるかということである。


 それでも、生徒たちが持つ概念的疑問に一定の解釈と主観を述べられる猫野という人間はいじめがいがあるといったところだろうか。

 

    

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ようこそ!僕たち・私たちのダイバーシティ中学へ! 理性 @risei_ningen

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