第4話 勇者トドオカと不測の事態


 極度に動揺すると、人間は驚いても声が出ない。

 眠っている間に完全に気配を隠した人間が寝床に侵入していれば、普通の人間は驚いて声も出ないだろう。

 だが、トドオカが声を出さなかったのは動揺や驚きのためではなかった。


(なんのつもりだ……?)


 。理性によって、そうすることを選んだ。


「あまり大きな声を出しちゃダメだよ? みんなが起きちゃう」


 言われずとも、そのつもりだった。

 無用な騒ぎを起こして、他の面々が起きる。

 それが、最も回避すべき展開だった。


「何のつもりですか?」


 三女トロワと同じように、囁く声で問い返す。

 三女トロワは首を傾げるようにして上目遣いにトドオカの表情を覗き込んだ。


「ん〜……昼間助けてくれたお礼、かな?」

「離れてください」


 囁くような声量だったが、語気には鋭さが満ちていた。

 怒っているわけではない。ただ、そうやって拒絶の意図を示す必要があった。

 少なくとも、そうであれと強いていた。


 三女トロワは鼓膜をくすぐるようにくすくすと甘い声で笑う。


「お堅いんだな、『勇者』殿は」


 トドオカは横たわったままの姿勢で倒れるような眩暈を覚えた。

 怒りを通り越して、いっそ惨めな気持ちすら湧いた。


(そういう問題じゃねーだろ!)


 トドオカは決して声を荒げて人を面罵したりはしない。

 多くの場合において、それは望むほどの効果を発揮しないからだ。怒りを露わにしたところで、事態が好転する事はない。


 だからただ胸の内でそう叫んだ。


(馬鹿なのか? こいつは)


 頭痛を覚えて、目を閉じる。

 いっそこのまま眠ってしまいたいとすら思った。そうできたらどれだけ良かっただろう。


(何故他の姉妹に気づかれるリスクを自ら口にしながらこんな危険な真似をする?)


 この状況を他の姉妹に見られれば、確実に面倒が起きる。

 真面目な長女イチルは彼女を強く叱責するだろうし、何よりトドオカ自身がパーティーのリーダーとして信用を失いかねない。

 そうやって指揮系統に不安が生じたパーティーは驚くほどあっさり瓦解する。

 それ以外にも他の姉妹との間でこれをきっかけとした不和が連鎖的に発生する可能性もあった。

 ここで自分たちが肉体関係を持つ事は、百害あって一利なしの極めて危険な行動でしかない。トドオカはそう考える。


(せめて地上でやれ!)


 無論地上で同様に関係を求められたとしたなら、トドオカはもっとにべもなく彼女を拒絶し、それ以降決して彼女と顔を合わせる事も無いよう手を尽くすだろう。

 トドオカの好む異性とは、少なくとも迷宮とも自分の仕事とも一切関わりのない人間だ。


「もしかして照れてるのかい?」


 頬を撫でていた三女トロワの指が、顎を撫で、首筋を伝って胸板を愛撫する。


 高位の伏撃手ローグであるトドオカは、痛覚を任意で遮断する技能スキルを持つ。

 四肢の欠損ですら痛みによる思考力の低下を引き起こさないこの技能スキルを持ってすれば、身体接触による反応の一切を感じることはない。


「ねえ、トドオカさん。ぼくたち姉妹がどうして探索者をやってるか知ってるかい?」


 耳元に唇を寄せて、甘い声で囁く。

 トドオカの沈黙を自分にとってなんらか都合の良いものと解釈したのか、三女トロワは言葉を続けた。

 

「ぼくたち姉妹は、実はメオカ当主の娘でね……地元の老人達の言うようなカビの生えた言葉を使えば、王女って奴さ」


 現在のメオカは連合王国領内の一貴族という位置付けだが、統合される前は王政を敷く一国家であった。

 彼女達が現在のメオカ当主の娘ならば、なるほど確かに「王女」と呼ぶことも出来よう。

 三女トロワは続ける。


「メオカは特殊な一族なんだ。王となるのは、代々一族の女が領地の外から連れてきた、より強い男の中  から選ばれる」


 トドオカは皮膚感覚を遮断し、三女トロワの愛撫を知覚することなく彼女の言葉だけを聞いている。その中から、生存のヒントを吟味している。


「ぼくたちもを求めてこの迷宮に来たんだよ」


 笑う。

 とっておきの冗談を披露するように。

 自分の全てを相手に捧げる代わりに、相手の全てを奪う提案を持ちかけるような、怖気のふるうほど蠱惑的な笑みだった。


「ぼくも次女リヤンも、長女イチル四女フィアも、みんなそうして故郷を出たんだよ、。そしてぼくたちは……ふふ」


 おかしくてたまらないというように、三女トロワは笑う。

 いたずらの種明かしをするような、どこか幼なげな笑いだった。

 

「どういうわけか、いつも勇者キミも大変だね?」


 三女トロワの指が、トドオカの頬を撫でる。

 これから口にする熟れた果実を品定めするような、愛おしげな手つきだった。


「だから、他の子達に先をこされる前にぼくと……ね?」


 トドオカの隣に横たわっていた三女トロワは、抱きつくようにトドオカの首に腕を回し、その上に覆い被さった。


 皮膚感覚を遮断したトドオカは、三女トロワの肌の感触も、愛撫される感覚も知覚しない。

 蠱惑的な笑みも、鼓膜をくすぐる甘い声も、意思決定とは完全に切り離して処理される単なる視覚情報と音声情報に過ぎない。


(──殺すか?)


 三女トロワが求めている事は理解した。

 そして同時に、酒場の店主が口にした悪評──彼女が、姉妹達を自分に紹介しなかった理由が理解できた。


(油断してる今なら、声を上げられる前に殺せる)


 長女イチルが蘇生術を使えることは既に把握している。

 蘇生術を使用された者は、死の前後の記憶が曖昧になる。

 就寝中に魔物に襲われたと証言して、長女イチルに蘇生させれば良い。そうすれば、この状況ごとリセットする事ができる。


(……いや)


 まさしくその犯行中に姉妹が起きれば、それこそ一切言い逃れのできない状況になる。

 蘇生後の記憶の混濁も確実ではない。

 死因の偽装も、完璧に出来るとは思えない。

 リスクが高すぎる。現実的ではない。


(しかし、ああ、クソ──)


 三女トロワの求めていることが何かわかった。

 そして同時に、酒場の店主が彼女達をトドオカに紹介しなかった理由も。

 ヨ=メオカ四姉妹の悪評──


(──迷宮で婚活してんじゃねえ!)


 綿密な連携のもとで命をやり取りする場で、なぜ致命的な人間関係の不和を生みかねない行為を平然と行う?

 強い男を探している? いかれているのか? こんな事に付き合わせていれば、どんな豪傑もあっさり死にかねない。


 なぜ不要なリスクを犯す?

 なぜ生命よりもそんなものを優先する?

 なぜ、なぜ──


 怒りとも困惑ともつかない感情が渦巻いて、トドオカは言葉を失った。


(馬鹿なのか? こいつらは)


 馬鹿なのだ。

 そう考える他無い。

 トドオカは、そう結論付けた。


(だが、ここでこいつらを切り捨てれば竜を倒す事はできない)


 トドオカは姉妹達の実力を把握し、竜を討つためのおおよその算段をつけていた。

 そのプランのためには、姉妹全員が揃っていることが必要になる。

 姉妹の実力は高いものだが、それでも連携を欠いて竜を殺せるほどのものではない。


(やはり、なんとかしてこの状況を切り抜けなければ──)


 つまり、トドオカは他の姉妹に気づかれずに三女トロワを寝床から追い出し、かつ、彼女との間にも関係性の破綻を生じない穏便な形でこの場を収めなければならない。

 そんなことが可能かどうかはわからない。だが、やるしかない。


「──なにをしているのですか?」


 冷たい声だった。

 ひどく冷たい氷のような声が、頭上から聞えた。

 トドオカと三女トロワは、同時に声の出所を見る。


長女イチル、いやこれはだね──」


 何かを言おうとした三女トロワを、長女イチルはただじっと見下ろしている。



 一切の熱のこもらない目だった。

 長女イチルは、まるでこれから踏みつぶすだけの虫か何かを見るように妹を見ていた。


「あなたはいつもそう。長女だからとわたくしにばかり面倒を押し付けて、自分はなににも構わず好き勝手に振る舞って、いつも全部めちゃくちゃにする」


 長女イチルの手には、長杖が握られている。

 戦闘に用いる彼女の武器だ。

 杖の先端に埋め込まれた魔石が、彼女の暗い感情の昂りに呼応するように鈍い光を灯す。


「わたくしのことを掃除婦か何かとでも思っているの? 面倒は全部口うるさい長女が始末すると? ならいいです、わたくしはもう────」

「わかったよ」


 三女トロワはトドオカの寝床から出ると、両手を上げて、降伏する姿勢を見せながら長女イチルの杖の間合いから遠ざかるように数歩下がった。


「悪かった。ちょっとじゃれてただけなんだ。もう戻るよ」


 とりなすように、普段通りの力の抜けた笑みを浮かべる。

 長女イチルの見せる怒りを、まるで日常のものとして対処するような態度。


長女イチルさん──」

「お騒がせいたしました、トドオカ様」


 三女トロワが自分の寝床に戻るのを見届けると、長女イチルはにっこりとトドオカに笑いかけた。

 昼間と同じその笑顔に、今はなぜか、どこかが壊れた人形のような印象を覚えた。


三女トロワから、何か聞きましたか?」

「あなた方が、攻略都市へ来た理由を」


 トドオカは正直に答えた。


長女イチルさん、私は探索者です。『勇者』などと呼ばれることもありますが、所詮は財宝漁りの卑しい稼業で日銭を稼ぐヤクザ者に過ぎません。あなた方のような高貴な方々とは、到底釣り合いの取れない人間です」


 これが、今のトドオカが口にできる最大限の拒絶だった。

 そして、本心の全てでもあった。

 迷宮の中で、を得られるとも、得たいとも思わなかった。

 それが、探索者であるトドオカの全てだった。


「存じております。トドオカ様が、どのような方なのか」

「ありがとうございます」


 これで片がつくなら、それに越した事はない。

 少なくとも、予期した最悪にはならずに済んだようだった。


長女イチルさん、あなたが居てくれてよかった」


 トドオカは、素直に感謝を口にした。

 それが正しく伝われば良いと思った。


「…………いえ、わたくしは、ただ……」

「では寝ます」


 トドオカは、再び寝床に戻った。

 無駄なことをして、ひどく疲れた。

 きっと今夜は泥のように眠れるだろう。


(何故だろう)


 危機は切り抜けた。

 あとはただ竜を殺し、地上へ帰るだけだ。

 少なくとも、それまでに問題が起きなければいい。

 難しいことではないはずだ。

 それなのに、何故か。


(台無しになる予感がする)


 高位の伏撃手ローグであるトドオカの危機察知能力は、予知じみている。

 トドオカは、ただその予感が外れることを祈って、眠りについた。


 祈りは合理とはかけ離れた行動だったが、そうせずにはいられなかった。


 眠りに落ちた『勇者』の横顔を、長女イチルがただ黙って見つめていた。






***




 第十階層は、自然に満ちた九階層とは大きく様相が異なる。

 元来迷宮の環境変化に物理的な法則性は無いが、十階層に漂うある種の瘴気のような暗く冷たい空気は、九階層までの環境とは隔絶している。


 攻略都市においては、この十階層からが俗に深層と呼ばれる。


 選ばれし強者だけが挑戦し、時に巨万の富を得、時にゴミのように死ぬ魔境である。


「言うまでもない事かもしれませんが、ここからは深層です。危険度は九層までとは比になりません。みなさん警戒を怠らないように」

「ふぁ〜い」


 四女フィアがあくびをしながら答えた。

 パーティー内では最大の単体火力を誇り、竜鱗すら切断可能と目される高位の実力を持つ戦士ファイターでありながら、朝には弱いようだった。


四女フィア! トドオカ様に失礼のないようになさい!」

「うるさいなあ」

「自分は警戒を怠らないぞ。何故なら自分は姉妹で最も優れているからな」


 長女イチル四女フィアを叱責し、次女リヤンがそれに合わせて無意味な自己主張をする。

 トドオカにも、彼女たちの正常なコミュニケーションが理解できてきた。


(昨夜のことは特に問題がないようだな)


 長女イチルの様子は、昨日の昼間と変わらなかった。

 昨夜三女トロワの前で見せた怒りの気配はない。


(このまま何もなければ良いが)


 物思いの最中、トドオカが不意に振り返る。

 眠っている時には触れられるまで気が付かなかったが、意識があるうちは警戒していれば接近を察知する事ができる。

 トドオカは、三女トロワの接近をパーソナルスペースに侵入される前に察知した。


「や、おはよ」


 力の抜けた笑みを浮かべながら、三女トロワが手を振る。


「あれ、怒ってる?」

「いえ」

「あはは!」


 何がおかしいのか。

 少なくとも、トドオカとしては必要がある時以外には彼女とあまり積極的に会話をする気はなかった。


「昨夜はごめんよ。今度は二人っきりの時ゆっくり、ね?」

「お気遣いなく」


 トドオカは虫か何かを見るような目で三女トロワを見返し、言った。


(今度など無い)


 トドオカはこの四人の姉妹と探索者として以上の関係を持つつもりは微塵もない。

 彼女たちが伴侶となる人間を探していて、自分がその候補にされているのならば尚更だ。


「ところでトドオカ殿、そろそろどうだろう」

「はい?」


 次女リヤンが唐突に切り出す。トドオカは曖昧に返答する。


「自分と夫婦になって一緒に故郷へ帰ってもらいたいのだが」


 次女リヤンは真面目腐った顔で言った。

 馬鹿なのかこいつは、と思った。


「ば、馬鹿かお前!」


 心底驚いたように、四女フィアが言った。


「そういうのは順序があるだろ!」

「順序とは? 自分はトドオカ殿のことが気に入った。トドオカ殿も姉妹で最も優秀な自分のことを気に入っているはずだ。順番通りじゃないか。なにがおかしい?」

「全部だろ! なあトドオカ!」

「はい」


 トドオカはめまいを覚えながら答える。


「申し上げにくいのですが、私は所帯を持つつもりはありません」


 少なくとも、迷宮で知り合ったような人間とはごめんだ、とまでは言わなかった。


「え、で、でもさ、所帯は……持ってもいいんじゃねーの? 将来的には」

「考えていません」


 会話しながら、トドオカは昨夜の三女トロワの言葉を思い出す。


 ────どういうわけか、いつも勇者キミも大変だね?


(そんなことがあり得るのか? 群れの一頭が走り出したら残りもわけもなく走り出すダチョウのように?)


 「だから言ったろう、勇者殿」


 三女トロワがくつくつと笑う。


「昨夜の内にぼくに決めておけば、苦労もなかったのにね」

「昨夜? 昨夜ってなんだよおい!」

「さあ? ぼくはなにもしてないよ。ねえトドオカさん?」

「いや、なんだか良くない気配を感じる! 姉妹で最も優秀なこの自分を差し置いて目立とうとしたな!?」


(なんだ? なにか恐ろしく馬鹿馬鹿しいことが起きようとしている気がするぞ)


「皆やめなさい! トドオカ様を困らせないの!」

「そういう長女イチルはどうなんだよ!」

「なに?」

「トドオカとパーティー組む前から『勇者』の話ばっかりして、トドオカ様トドオカ様って言ってたじゃねーか。物わかりのいいふうな顔して、ほんとは自分がトドオカに媚び売りたいだけじゃねーの?」

「なっ」


 姉妹の論争は熱を帯びていく。危険な兆候だ。


「なんてことを言うのですかっ!」

「お前、いっつもそうじゃん。おりこうさんぶってるくせにせこい手ばっか使ってさ──」

「……?」


 長女イチルは言葉を失って顔を青ざめさせる。


「みなさん落ち着いてください今そんな話をしたところで──」


 瞬間、予知じみたトドオカの危機察知能力がそれを告げた。


「敵────」


 トドオカが声を上げるより早く、同様の危機察知能力を持つ三女トロワがクナイを投擲している。


「ウサギだ!」


 次女リヤンが声を上げて、盾を構える。

 とびかかってきたウサギの牙を大盾で受ける。鋭い金属音。


「こいつ!?」


 四女フィアが繰り出した戦斧が空を切る。

 ウサギの後ろ足から延びる刃のような骨が、攻撃を振りぬいた四女フィアの腕を切り裂く。


「下がって!」


 負傷した四女フィアに代わってトドオカが前線に上がる。

 腰から抜いたナイフでウサギの一匹を切りつける。

 痛覚の遮断────刃を通して、ウサギの身体感覚を麻痺させる。

 動きの止まったウサギを、次女リヤンが切りつけてとどめを刺す。


「クソ、数が多い!」


 二人に分身した三女トロワが、格闘の末にそれぞれ一匹ずつウサギの首を刎ねる。


「頼む、回復を──」


 長女イチルは冷たい目で妹を見た。

 虫か何かを見るような、何の感情もない目だった。


「え?」


 前衛を飛び越えたウサギの一匹が、四女フィアの頸動脈を切り裂いた。

 小さな体が、血を吹き出しながら糸の切れた人形のようにその場に倒れこむ。


「馬鹿な」


 トドオカは内心の苦渋をもはや隠すこともできない。

 予期せぬ奇襲ではあった。思いがけぬ強敵だった。

 それでもなお、こんなにも容易く戦線が崩壊するものか?


「トドオカ殿!」


 次女リヤンが盾を構える隙に再び後衛に下がり、矢を番える。

 立て続けに放たれた二矢がそれぞれ二匹のウサギを射抜き、残った二匹を三女トロワが首を裂いて倒した。

 ひとまず戦闘は終了した。


「なんだい、この魔物。初めて見たぞ?」


 疲労を滲ませて呟いた三女トロワも傷を負っている。

 次女リヤンも同様だ。四女フィアが戦闘不能になったために、負担の増加した前衛が大きく消耗している。


「本来はもっと深層に居るはずの魔物です。クソ、こんなものまで上がってきているのか」


 だが、問題はもっと別のところにある。

 トドオカは後衛を振り向く。

 居るのは一人の療術師と、一体の死体。


長女イチルさん、四女フィアさんの蘇生を……長女イチルさん?」

「……この子が悪いの」


 独り言のように長女イチルが言った。

 なんの光も宿さない目は、見開かれたままの妹の死体の目と、よく似ていた。


……ですって!? わたくしがどれだけ普段あなた達のために尽くしているか知りもしないで!」


 残る二人の姉妹は、黙って顔を見合わせた。

 きっと、彼女がなるのはそう珍しいことではないのだ。


「わたくしが傷を治してやらないとまともに戦えもしないくせに!」

長女イチルさん、彼女を蘇生してください。我々には彼女が必要です」

「必要?」


 トドオカの口にした言葉を、長女イチルが繰り返す。


「わたくしが居ますよ、トドオカ様。こんな恩知らずで、無礼で、トドオカ様の偉大さを少しもわかっていないような人間ではなく、わたくしが……わたくしが居るんです! ! ! !」


 迷宮は巨大な密室であり、長い間閉所に閉じ込められると、人間は大なり小なりなる。

 過酷な状況下で発生したストレスは疲労を増大させ、時に些細な諍いを致命的な不和に変える。


「そ、そうだ! トドオカ様、わ、わたくしと結婚しましょう! そうしたら他のおかしな女に言い寄られることもなくなって、トドオカ様はお仕事に集中できますよね! トドオカ様がわたくしだけを必要としてくれるなら、四女フィアだって蘇生します! どうですか!? ねえ!」


 この女は、とっくになっている。

 トドオカは、そう結論せざるを得ない。


(四女フィアが居なくては、竜を倒せない)


 竜鱗による防御を貫通して竜に致命傷を負わせられる攻撃力を持っているのは、四女フィアだけだ。竜の討伐には、彼女の力が必ず必要になる。


 だが、長女イチル

 今のおかしくなった彼女は、トドオカが自分以外の人間の力を必要とすること自体に拒絶反応を示している。

 他人から必要とされ、尊重される事に飢えきっていた。妹たちのために行動しているという意識が、自分を一番に尊重してほしいという欲求を生んでいた。


(考え得る限り最低の療術師ヒーラーだ。治療する相手を選り好みするとは……迷宮でこれをやられると、他に回復手段を持たないパーティーは、療術師ヒーラーに逆らえなくなる)


 迷宮は巨大な鼠返しの密室だ。

 地上までのローリスクな瞬間離脱を使用できるパーティーなど攻略都市においてもほとんど存在しない。

 トドオカは以前に転移術で竜から逃げおおせたが、それもまた療術師の技であり、リスクの低い手段でもない。


 死体を一体担いだままでは、ただ来た道を引き返して地上へ戻る事すら難しい。

 ましてや、竜を殺すなど。


 なんとかして長女イチル四女フィアを蘇生させなくては、生きて帰ることすらままならない。

 そして何より、任務を達成できない。


(なんとか──)


 トドオカはその方法を検討しようとした。

 思考を遮るように、断続的な地響きが起こった。

 それは、徐々にこちらへ近づいてくる。


 足音だ。


 トドオカの危機感知能力は、その音の正体を既に看破している。

 その音の主が、同様にこちらを捕捉していることも。


「冗談でしょう」


 足音はどんどん大きくなる。

 

 竜がこちらへ近付いていた。


 それは、死を告げる音だった。

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