第3話 勇者トドオカと恐怖の誘惑

 ロンガリア大迷宮は地下へと伸びる階層状の迷宮であり、その内部はアリの巣のように複雑で広大なものだ。


 地下深くへ降るに連れてその危険度は増す。

 より複雑化した順路。より強大な魔物。より致死的なトラップ。そして、より希少な財宝。


 探索者の目的とはまさしくこの迷宮をその最奥まで踏破し尽くし、莫大な財宝をその手に収める事に他ならない。


「だあああああっ!」


 迷宮地下第一層の探索は、全く危なげなく侵攻した。

 三度目の戦闘は、進路を塞いだ四匹の大蝙蝠が相手だった。

 真っ先に突撃した四女フィアが戦斧を振るうと、大蝙蝠の群れは一瞬で血の霧と化した。


「どうだ! トドオカ! 見たかオレの実力!」

「ええ。見ましたよ。流石です」


 トドオカがそう答えると、四女フィアは得意げに「にしし」と笑った。その言葉遣いや仕草は、どこか少年めいている。


「自分は?」

「ええ。次女リヤンさんも……ナイス……待機でした」

「そうか」


 次女リヤンは満足げにむふーっと鼻を鳴らして、ずかずかと迷宮を歩んでいった。


 事実として、彼女達の実力は高いと言えた。迷宮に入って数度の戦闘で、それがわかった。

 各々が、迷宮内の戦闘に場慣れしている。足取りに不安がなく、同時に油断もない。

 経歴に違わぬ実力者と見て間違いない。


「トドオカ様、その……どうでしょうか」


 長女イチルは、囁くように言った。

 今のパーティーの構成においては、トドオカと彼女の二人が後衛にあたる事になる。


「第一層の戦闘だけではなんとも言えない部分もありますが……少なくとも私の見立てでは、皆さん素晴らしい実力を持っているように思えますよ」

「それもそうなのですが、その……妹達は皆、我が強くて」

「はあ」

「それで、その……同行者の方の不興を買うことも……しばしばあり……」


 長女イチルは、バツが悪そうに微笑んだ。


「トドオカ様は、その……お仲間の経歴や素行を重視なさると聞きましたので……」

「『勇者』トドオカは偏屈もので、気に食わない仲間はすぐに追放クビにすると?」


 長女イチルは一瞬ぎくりとしたように目を見開いて、やがて恐る恐るトドオカの表情を見上げた。


「ご安心を。妹様方は皆優秀です。それに、今回は私が頼みこんで探索に同行して頂いている形です。気負わず、いつも通りにしていただければそれで結構ですよ」


 トドオカは、可能な限り柔和な印象を与えるような微笑を形作って長女イチルに笑いかけた。

 長女イチルは少し安堵したように、トドオカに笑い返す。


(悪評とはこれか?)


 同業者との折り合いが悪い探索者というのは、しばしば居る。

 かくいうトドオカ自身が、攻略都市においてはその典型として知られている。

 仲間にする相手を選り好み、挙句追放する。


 『勇者』などと呼ばれる立場にありながら、時としてそのように横暴な──トドオカ自身にとっては至極健全な仕事に対するスタンスではあるが──振る舞いをする。


 ヨ=メオカの姉妹達は、実力があるとは言え新参故に選り好み立場にあるのだろう。

 だから、都市有数の偏屈者であるトドオカに対して、そのような警戒心を抱く必要がある。


「お願いついでで恐縮ですが、今から見聞きする事は口外しないでいただけますか?」

「え?」


 トドオカは口元に指を立てて苦笑する。


「おい、こっちは行き止まりだぜ」

「あまり大きな声を出さないでください」


 トドオカは周囲を警戒しながら、レンガの壁を規則的に叩く。


「……『野菜の屑は』」


 壁の向こうから声が返る。


「『ブイヨンに』」


 トドオカが答えると、レンガの壁がみるみるうちにくみ代わり、通路を形成した。


「これは……隠し通路ショートカット……!? こんなもの、ギルドの発行する地図には……」

「私が書いた地図です。少しワケありで、内緒にしていました。どうぞご内密に」


 壁から現れた通路を通ると、そこには広大な空間があった。

 壁には蜂の巣めいた空洞が無数にあり、その一つ一つに人一人の居住スペースが設けられていた。


「ここは……まさか、『喰い残しガーべッジ』の……!」


 四姉妹が一斉に武器に手をかけるのを制しながら、トドオカはただその場に立って、何かを待っていた。


 喰い残しガーべッジとは、迷宮に生活する者達の俗称である。

 迷宮探索に挑み、様々な理由から帰還が叶わなくなった者達の成れの果てこそが、彼らの始祖であると伝えられている。

 彼らは迷宮内で魔物を狩って糧とし、変化する迷宮の構造を住処としている。


 

 攻略都市で探索者に仕事を斡旋する組合ギルドからはす、迷宮へ逃げ込む犯罪者達の温床となる『喰い残しガーベッジ』の積極的な『駆除』が推奨されている。


「落ち着いてください。彼らは我々に危害を加えません」


 トドオカは姉妹達を制し、時を待った。


 やがて、居住区の奥から数名の護衛を伴って一人の女が現れた。


「エ、エルフ……!?」


 現れた女の風貌に、長女イチルが驚愕の声を漏らした。

 長い耳に銀の頭髪は、まさしく連合王国の成立に伴って地上からそのほとんどが消え去ったエルフの特徴であった。


「『平らげる者』よ」


 エルフの女は、トドオカへ向けて言った。

 彼女こそがまさしく、『喰い残しガーベッジ』達の女王だった。


「此度は如何なる用でここへ参った? 珍しく客人を連れておるようじゃが」

「あなた方の用いる通路を、通らせていただきたい」


 エルフの女は、品定めをするようにトドオカと、彼の率いるヨ=メオカの姉妹達を順に眺めた。


 エルフやドワーフをはじめとする異種族は、連合王国の制定に伴う戦乱によってその多くが駆逐され、地上から姿を消した。

 彼女もまた、何処からか逃れ、流れた果てにこの迷宮へ来たのだろうか。

 『喰い残し』という名は、迷宮内で死に損なって帰還が叶わなくなった者達が迷宮生活者の始祖である事から取られた蔑称である。


「はは! 大きく出たのう、トドオカよ」

「第十五階層に火竜が出現しています。我々はその討伐のために迷宮入りしました」


 女王は笑みを浮かべたまま、その眼差しを鋭くした。


「我々の居住区はこの一層から四層までじゃ。深層に竜が出現したところで被害を被ることはない」

「わかっているはずでしょう」


 皆まで言わせるな、というようにトドオカは女王の言葉を遮る。


「迷宮からは常に魔物が産まれ続けています。それが自然発生なのか、あるいは何者かの作為によるものなのかは現代をもって不明ですが、少なくとも竜が生じたのは十五階層などという階層ではない」


 女王の表情から笑みが消える。

 人形じみた美貌に埋め込まれた氷のような瞳が、トドオカを冷たく見つめた。


「竜は、誰もが最奥を目指すこの闇深き迷宮を遡上しています。このまま放置しては、いずれあなた方の居住地にも被害が及ぶ可能性がある」

「だから、我々の生命線である生活用路を我々と敵対するおぬし達に解放しろと?」

「そうです」


 攻略都市で探索者への仕事の斡旋を行う組合ギルドからは、『喰い残しガーベッジ』は迷宮内の魔物同様に駆除することが推奨されている。

 地上で犯罪を犯した者や後ろ暗い経歴を持つ者達が迷宮内に逃れ迷宮生活者のコミュニティを活用することがあるからだ。

 『喰い残しガーベッジ』は、その存在自体が犯罪の温床であり、都市の治安悪化の一因である──とされる。


 それ故に、『喰い残しガーベッジ』もまた探索者を警戒する。


「おぬしは竜を殺すと言う。じゃが、妾たちはおぬし達以上に長くこの迷宮で時を過ごした。故に、本来竜とは人の手には負えぬ災害のようなものだと知っておる。おぬしがそれを殺せるという根拠はなんじゃ」

「根拠など要らない。私は竜を討つと決めた」


 『勇者』は言う。


「私は諦めた事がない」


 一度決めた事を、途中で投げ出した事がない。

 そうするための機能が欠如している。

 それが変えられぬ『勇者』の生き方だった。


 エルフの女王はしばし黙考し、やがて大声をあげて笑い出した。


「ははは! そうじゃった、おぬしはそういう男じゃったな」

「ご協力いただけますか」

「九層までの直通路を案内しよう。じゃがこの経路は内側からしか開かぬ。深い層の魔物が侵入できぬ仕組みじゃ、帰りはおぬしたちの足で帰るのじゃぞ」

「感謝します」

「『平らげる者』よ、地上の『勇者』トドオカよ。深き地にて生きる者達の長たる妾から、お主に頼む。どうか、我らの脅威を残さず平らげてくれ」


 トドオカは礼をし、胸の前で両掌を合わせた。

 地上では見慣れぬ仕草だった。恐らくはそれは迷宮の中で過ごす者達の間で形成された習慣であり、信仰だったのだろう。


「それにしても、隅に置けぬのうトドオカよ」

「は?」

「そんなに若い娘を侍らせておるとは、妾もうかうかしてはおれぬな」

「はあ」


 トドオカとエルフの女王との付き合いはそれなりに長い。

 この迷宮で長く活動する者は、どのような形であれ『喰い残しガーベッジ』と関係を持たざるを得ない。

 その中においても、トドオカは彼らと比較的友好な関係を築いていると言える。

 純粋な利害によって繋がった関係だ。

 エルフの女王は喉の奥でくつくつと笑い、何名かに声をかけて一行を通路の奥へ案内した。


 促された先にあったのは、巨大な昇降機だった。

 これが、トドオカが知る限り地下九層まで直通で、かつ最速で降ることの出来るショートカットの正体だった。


「……まさか、『喰い残しガーベッジ』の……迷宮生活者の遺構を見ることになるとは……」

「これをギルドに報告するだけで、一生暮らせるだけの報奨金が貰えるだろうね」


 女王の前では口を開かずに黙っていた姉妹達は、昇降機が下降を始めるとようやく口々に話し始めた。


「トドオカはどうやって『喰い残しガーベッジ』達と仲良くなったんだ?」

「たまたま機会がありましてね。もし四女フィアさんも彼らと仲良くなりたいのなら、迷宮の外の野菜や塩、香辛料なんかを持参すると喜ばれますよ」

「へー」

「『平らげる者』と呼ばれていたな。トドオカ殿は異名がたくさんあってズルいぞ。自分もそういうの欲しい」


 真剣そのものの表情で目を輝かせる次女リヤンに、トドオカは苦笑を返した。


「そんなかっこいいものではありませんよ。『勇者』というのも『無謀』や『死に急ぎ』を言い換えただけの皮肉で呼ばれ始めたものです。中々死なないもので、意味を勘違いする方が多いのですが」

「『平らげる者』というのは?」

「ああ、あれは迷宮生活者の方々からの歓迎で出された魔物料理を残さず全部食べたからでしょうね」


 トドオカが言うと、四女フィアは露骨に顔をしかめた。他の姉妹達も概ね同様で、長女イチルなどは顔を青くしている。

 地上生活を送る人間にとっては極めて平均的なリアクションだ。


「魔物食ったの!?」

「ええ。大サソリですとか、アリアドネの大蜘蛛ですとか。同じ食卓を囲み同じものを食すことで彼らの信頼を得られたのです」

「うげ〜……よくやるよなそんなこと……」

「単に食事を残すのが嫌いなだけです」


 提供された食事を極力残さないのは当然のことだ。

 トドオカにとってはそれは当然のことで何らおかしなことではなかったが、ついぞ誰からも理解される事はなかった。『勇者』は常に孤独だった。


「……トドオカ様は、本当に色々なことをご存知なのですね」


 独り言のように、長女イチルが呟いた。

 

「魔物料理というのもそれほど悪いものではありませんよ。視覚から入ってくる情報を積極的に無視すればの話ですが」

「いえ、そうではなく……」


 今回のように準備期間が極めて短い状態で探索が長期化した場合、トドオカはしばしば迷宮内の魔物を捕獲し、自ら調理して食している。

 そう伝えようとして、やめた。トドオカにも、それが異常だということは理解できる。


「きっと、トドオカ様が彼らの拠点をギルドに報告しなかったのは、それが不要な血を流す事に繋がるからだったのでしょう?」

「このような時に役に立つと判断したからです」

「ふふ、『勇者』様もご謙遜はあまり上手ではないようですね」


 姉妹たちが各々雑談に興じる中で、内緒話のように声を潜めて言う。


「わたくし達姉妹は、使命を帯びて故郷を出ました。わたくし達は、故郷とこの迷宮しか知りません」

「私も似たようなものですよ」

「いいえ。同じ迷宮を歩いていても、トドオカ様の目に見えているものと、わたくしの目に見えているものは、きっと違うのです」


 長女イチルは少し微笑んで、トドオカを見上げた。


「トドオカ様と共に歩けば、わたくしにも『勇者』の見る景色が見えるでしょうか。故郷と、使命しか知らない私には見えない、何かが」

「どうでしょう」

「ずっと、そんな風に考えていたんですよ。おかしいでしょう。わたくし、ずっと前からあなと迷宮を歩いてみたかったんです。『勇者』と呼ばれる人がどんな人なのか、ずっと想像してました」

「そうですか」


 他人から一方的なイメージを押し付けられるのは慣れた事だった。

 決して心地よい事ではなかったが、どうでもよかった。他人にどのように思い描かれたとしても、自分の中の何かが変わることはないと考えていた。


「思っていた通り……いいえ、思っていたよりも……その、尊敬に値する人物だと思えました。改めて同行出来て光栄ですわ、トドオカ様」


 トドオカは、照れくさそうに微笑む長女イチルを見下ろした。

 虫か何かを見るように。


(面倒なタイプだな)


 身勝手な理想や願望を『勇者』という存在に仮託する人間は、しばしば居る。

 無下に扱うと願望の裏返しで攻撃的になる厄介な手合いだ。


(だが、この程度ならまだ相手にできる)


 致命的な不和を引き起こすことなく関係を継続し、かつ、必要以上に親密にもならない。

 それが、トドオカが求めるパーティーメンバーとの距離感だ。

 だが、多くの場合においてそれは叶わない。迷宮という特殊な状況で生死を共にした人間の間には、特別な絆や、修復不可能な亀裂が容易に生じる。

 数値化することのできない、厄介な感情だ。

 それこそが、『勇者』を最も苦しめる迷宮の罠だった。


「さあ着きました。行きましょう」


 昇降機が重苦しい音を立てて静止する。


 第九階層。

 『始源の密林』と呼ばれている。被造物の迷宮の天蓋の中にあって、仮初の空すら再現された鬱蒼とした密林地帯である。


「この辺嫌いなんだよねぇ。暑いしジメジメしててさあ」


 迷宮内には様々な環境、天候が再現される。階層を下るごとに、環境はより過酷なものになっていく。

 二十一階層より下を探索して帰還した者は過去に存在しない。

 それより下は、もはや環境自体が人間の生存を許さないのではないかと言う者も居る。


「ここからは階層を跨ぐ大幅なショートカットは使用できません。可能な限り迅速に十五階層の黒竜を目指します」

「はーい」


 姉妹達は大人しくトドオカに従う。

 良い傾向だ、と考える。

 パーティーのリーダーと定めた相手の方針に従う事が結果的に生存率を高める事を、彼女達は言われるまでもなく理解している。


(この辺りで一度実力も見ておきたい所だな)


 竜と戦うための戦略を組み立てるにあたって、各人何ができるのかを把握しておかなくてはならない。



(それに、確認したいこともある)


 あるいはそれは、戦力以上の懸念点であった。

 

「トドオカ様? どうされましたか?」

長女イチルさん、私が入る以前の欠員というのは、一体どういった──」

「あっ! 敵襲!」


 トドオカの声を遮るように、パーティーメンバーで最も感知能力に長けた三女トロワが声を上げた。

 指し示した先には人間の大人ほどの大きさの蠍が威嚇行動を取っている。

 強力な毒と、鎧のような甲殻を特徴とする種である。


(デスストーカーか。実力を確かめるには丁度いいか)


 九階層に生息するなかでは、強力な魔物ではある。

 トドオカは一切の動揺を見せることなく、弓を構えた。


「落ち着いて対処しましょう。うまくすれば、今夜は唐揚げを御馳走しますよ」

「げっ」


 トドオカと同じ速度で、既に四女フィアが戦闘態勢に入っている。

 姉妹の中で最も、戦闘に対する意識が高い。野性的ともいえる闘争本能によって、一瞬でその意識を戦闘に没頭させる。


「オレ、サソリはやだかんな!」


 鎧のような甲殻に、長柄の戦斧が食い込む。

 申し分なく鋭い一撃だった。場合によっては竜の鱗を削ぐ事すら可能だろう。


「戦闘中に無駄口を叩かない!」


 叱責しながら、長女イチルはパーティー全体に精霊の加護を施し、あらかじめ毒への耐性を付与している。

 敵の種別を適切に見抜き、戦線を維持するための戦術支援バフを使い分けられる。こちらもまた、申し分ない。


「ふふ、勇者殿の前だ。いいところを見せなきゃね」


 三女トロワの術は、奇怪なものだった。

 彼女の輪郭がおぼろげに揺らいだかと思うと、その場に二人の三女トロワが出現している。


(幻覚の類か?)


 否、二人の三女トロワは、それぞれ刃渡りの短い片刃の剣を手にして敵に対して物理的に干渉しているように見える。


「だああああっ!」


 四女フィアの戦斧が嵐のように旋回し、蠍の尾を切り飛ばす。

 紫色の体液が迸り、蠍はひどく耳障りな金属質の絶叫を上げた。


「はい、おしまい」


 三女トロワの短剣が的確に急所を貫き、蠍は動きを止めた。

 九層の魔物を相手にして、全く危なげのない戦闘であった。

 やはり、この姉妹は高い実力を持っている。

 であれば、尚のこと。


(私が加入する以前の元のメンバーは、なぜこのパーティーを抜けた?)


 パーティーを抜ける理由など、星の数ほどもある。

 負傷や死亡、金銭トラブルや、人間関係の不和。

 どれも珍しくない話である。トドオカ自身も、何度となく経験してきたことだ。

 だが、彼女たちのような若く実力溢れるパーティーを抜ける合理的な理由は余り多くは思いつかない。

 彼女たちは、今がまさに稼ぎ時だ。これからどんどん実力を上げ、どんどん稼ぐだろう。今パーティーを抜けるのはわかりきった勝ち馬から降りるようなものだ。


 何かが引っかかる。

 トドオカのカンが、何かに警鐘を鳴らしている。


「どうだいトドオカくん、このぼくの実力、見てもらえ──」

「後ろ!」


 既に倒したはずの蠍に背を向けた三女トロワに、後衛の長女イチルが悲鳴じみて警告を発した。

 尾を切り落とされ、急所を貫かれて完全に動きを止めたはずの蠍が起き上がり、爪を振り上げていた。


「え」


 反応が遅れる。

 防御も、回避も間に合わない。


 (死──)


 刹那、視界外から飛来した矢が蠍の爪を直撃し、地面に縫い止めた。

 ほぼ同時に放たれた第二矢が、藪の中に隠れた別の敵を直撃する。


「とどめを!」

「オラァっ!」


 放たれた矢に匹敵する速度で駆け出した四女フィアが、藪の中に隠れていた敵を両断した。

 それは、魔術師めいた黒いローブを纏った、球体関節の人形だった。


「死霊使いですね。この階層の魔物ではない。おそらくは竜の動きが活発化するのに伴って生息圏を追われて上まで上がってきたのでしょう」


 矢を放ったトドオカは、まるで何でもないことのように淡々と言った。


「……かっこ悪いとこ見られちゃったな」

「不測の事態は常に起こります。そのカバーをするのが私の役割です」


 トドオカは、尻餅をついた三女トロワに手を差し伸べる。


「立てますか?」

「……ん」


 手を取って立ち上がり、トドオカの背に向けて微笑む。


「……話に聞いていたより優しいじゃないか」


 聞こえない程の声で呟いた言葉は、トドオカには聞こえていなかった。


「ともあれ、皆さんの実力が噂に違わぬものだということはわかりました。対竜戦の戦略については検討の上お伝えいたします。」

「自分は?」

「え?」


 一連の戦闘で出番の無かった次女リヤンが、不服そうにトドオカの前に立ちはだかる。


「自分の実力は?」

「ええ。次女リヤンさんも……ナイス……待機でした」

「そうか」


 次女リヤンは満足げに腕を組み、頷いた。


 彼らのやり取りを、長女イチルは輪の外側から眺めていた。


「卑しい」


 虫か何かを見るような、冷たい目だった。




***




 最短距離で下層までの階段を目指して最短距離で九階層を進み、階段前までたどり着いたところで日が暮れた。


 迷宮の天井には空が再現されており、昼夜の概念が存在する。迷宮生活者が迷宮の中でだけで生活を完結させられるのは、この環境によって必要な資源が得られるからだ。


 幸いなことに、サソリを調理する必要に迫られる事はなかった。

 勘違いされる事があるが、トドオカはこのんで昆虫や魔物を食すことはない。ただ必要に駆られた時に、そうする事に躊躇がないだけだ。


 どこまでも迷宮を踏破するための合理を追求する。

 ある意味では、『勇者』と呼ばれながら誰よりも迷宮に住まう魔物に近しい精神構造をしているのかもしれなかった。


 姉妹とトドオカ自身が持参した食料で簡素な食事をし、眠りに着く。

 明日は更に下層に潜る。

 この勢いならば、数日中に竜の居る十五階層に到達できるだろう。


 トドオカは、どんな状況でも寝つきが悪くなるということはなかった。どんな時も眠りたい時に眠り、目覚めたい時に目覚める事ができた。

 彼自身の理性を超えて惰眠や暴食を貪る事は一度もなかった。


 そんなトドオカも、眠る前には何かに思いを馳せる事もある。

 竜との対決。酒場の店主の口にした言葉。解散した、前のパーティー。


(私は、!)


 意味のわからない言葉。

 合理と理性という、最も信頼に足る概念から逸脱してしまった者。


 不安な眠りだった。

 これまでどんな深い迷宮の中でさえ夢も見る事なく熟睡できていたというのに。


 だから、気づけなかったのかもしれない。


「────ッ」


 不安な眠りは、寝袋の中の異物感で破られた。

 何かが自分の肌に触れている。暖かくて、柔らかい何か。


「ふふ」


 声だ。

 笑い声だった。

 それは、息のかかるほどの距離で耳元でくすぐるように空気を揺らして、トドオカに届いた。


「今度は触れた」


 三女トロワは、溶けるような笑みを浮かべながら、愛おしげにトドオカの頬に指を這わせた。

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