第17話 今までの俺は
十一月の寒い日、会社の駐車場の片隅にあるベンチで俺は言った。
「誠司さん、俺に恋人らしいことをできないから俺に申し訳ないと思ってる?」
生方さんのお通夜に参列したあと、誠司さんは俺にあいまいにほほえんだ。そのほほえみは恋人でもお兄ちゃんでも先輩のものでもなかった。だから俺はずるいと思ったのだ。
「でもそれは違うよ」
誠司さんは俺を綺麗な目で見つめている。なぜか誠司さんはリュックサックを持ってきて、足もとに置いている。
「誠司さんの考える恋人らしいことって、俺といつも一緒にいることなのでしょ。だけど俺はそうじゃない。一緒にいたい時に一緒にいられれば、それでいいんだ」
「君にはかなわないな」
ようやく誠司さんが笑って、リュックサックからハードカバーの本を一冊取り出す。
「今日は定時で上がるんだ」
「じゃあ、俺も。何か用事があるの?」
「まずはこれを見て」
手渡されたのは、国営放送が一年間放映する時代劇の原作となった本だった。誠司さんがモデルになった若い武士の横顔が描いてある。誠司さんが初めて愛した、一年前に亡くなったイラストレーターの聡さんが描いたのだ。
「この本がどうかした」
誠司さんが表紙を開く。
俺は目をみはった。
表紙に描かれた武士はかぶとをかぶっているけれど、ここに描かれているのは誠司さんの横顔だ。下の方にサインらしき筆記体の走り書きがある。
「サトシ・Mって、聡さんじゃないか」
「昨日、見つけたんだ」
余田の前で愛する聡さんが描いてくれた自分の絵を全部処分したことのある誠司さんは、辛そうだ。
「急いでリュックサックに入れて。描いてくれたのを完全に忘れてた」
「余田に見られたの」
「見られてない」
「これ――どうするの」
「捨てたくない」
誠司さんは表紙を閉じ、本を自分の胸にそっと押しつける。
「俺、預かるよ」
誠司さんが俺に顔を向ける。
もちろん俺が浮かべるのは邪気のないスマイルだ。
「守ってあげる。それなら安心でしょ」
「ありがとう」
本を受け取り、俺はもう一度、誠司さんの元カレが描いた絵を見る。鉛筆の一発描きだけど、誠司さんの特徴を正確にとらえているだけでなく、体温まで伝わってくるようだ。好きで好きでしかたなかったんだということも十分に伝わってくる。
「それで今日はどんな用事なの」
「知りたいの」
「言える範囲でいいよ」
「余田さんの誕生日。少し早いけど」
――聞くんじゃなかった。
ベンチの背もたれに音を立てて寄りかかり、俺は脚を組んで青空を見上げた。
「――じゃあ、二人でセックスするんだ」
「しないよ」
「なんで」
「俺が体を痛めるからって、今はしてない」
「そんなんで満足するわけ。お上品にもほどがあるでしょ」
口調が荒くなる。食道にマグマが逆流してるみたいに感じる。
――なんだよ、俺。嫉妬してんのか、あの腹パン野郎に?
今にもマグマを吐きそうな活火山になりかけている俺に、誠司さんは優しい響きの冷たい声をかけた。
「これは俺たちの問題だから。俺たちさえよければそれでいいと俺は思ってる」
誠司さんが俺の肩にそっと手を置いた。
「お礼はするよ」
俺はかみついた。
「フィニッシュまでつきあってくれるわけ」
「それでもいいよ」
「信じられない。誠司さん、ずるいじゃん。余田にも俺にもいい顔したいだけじゃん」
こういうものわかりが悪い奴にだけはなりたくなかったのに、今の俺は自分を止められない。
「君たちには誠実でありたいから」
俺の口は盛大にマグマを噴出する。
「じゃあ俺にしてよ。俺を選んで余田を捨ててよ。俺を彼氏にしてよ」
なんでだよ。
「あたしだけの健でいてね」なんて言われて瑠璃子に愛想をつかした俺なのに、なんであいつと同じことを口走ってるんだよ。
俺がまき散らす溶岩をものともせずに誠司さんは冷たいまなざしで告げた。
「それを決めるのは俺だから」
「じゃあいつ会うの。ここで決めてよ」
誠司さんの表情がやわらぐ。
「今度の土日はどう」
「どっちでもいいよ。今の俺にはワンナイトの相手さえいないんだからどうせ暇だよ」
「じゃあ土曜日ね。俺が迎えに行くよ」
「何時にどこ」
二人で裸で抱きあった夜に誠司さんに車を停めてもらった俺んちの近所にあるスーパーの名前と、待ち合わせする時刻を聞き終わった頃には、俺は六十パーセントくらいは落ち着きを取り戻していた。
「何をするの」
誠司さんが俺の耳もとでささやいた。
「君のしたいこと」
真っ昼間、人影は見えない。誠司さんの目は静かで熱をもっている。
俺も声を落とした。
「じゃあ、また、二人きりになりたい」
「いいよ」
「ほんとうにいいの? また余田の前で泣かない?」
大丈夫? そう口にしようとした瞬間、唇が唇でふさがれた。
「俺の大切なものを預かってもらうのだからこれくらいは覚悟するよ」
離したばかりの唇が物騒なことを言う。
「覚悟だなんておおげさすぎるでしょ。でもよくキスしてくれたね」
「これも覚悟」
「まただ」
「今日はごめんね」
「あやまらなくていいよ」
今夜は寂しくなりそうだと、初めて思った。
自宅でノートパソコンを開き、「三品聡」を検索する。
享年四十四歳。俺が出会った中でも最高のイケオジだ。誠司さんと二人で裸で抱きあっている場面を想像すると、その絵面があまりにも美しすぎて震える。
動画を検索するとインタビューがずらりと並んだ。イラストレーターがこんなに表に出ているとは意外だ。
一番上に出ている動画を再生する。国営放送の時代劇の公式チャンネルだ。キャプションには番組宣伝のショートムービーと記されている。インタビュアーは国営放送のアナウンサーだ。
――先生のイラスト……! 動くのを拝見した時はもう、感動しました。
――ありがとうございます。
声がすごくいい。耳から体にしみ込んでゆく。この声で「愛してるよ」なんてささやかれたらそれだけでイってしまいそうだ。
――原作者の方に頼み込まれてお描きになられたとうかがっておりますが、どんな思いでお描きになられたのですか。
――報われない武士なのですよね。史実でも若くして命を落としていますし。それでも仲間たちと力を合わせ、理想を胸に秘めて戦い、そして死んでいく。だから悲しいけれど明るく美しく見ていただけるように描きました。
――ほんとうにおっしゃる通りです。その他、特にこれまでで印象に残った場面や人物などはございますか?
――ちょうど彼と恋愛関係になる武士がいますよね。彼についても偏見なく、原作を尊重して、当時の風俗を踏まえて描写されているのがよかったと思います。
――先週は、その武士が亡くなる回でしたが、私も涙してしまって。
アナウンサーが声を詰まらせる。
――最後に二人で向かい合う場面、挿し絵を描いてよければ描きたかったですね。
――今、先生のイラストも掲載された番組の特集本が増刷されています。こちらについてはどのように受けとめていらっしゃいますか?
――非常に嬉しいことです。しかし一番は、原作者や、制作に携わった皆さんの力だと思います。
――最後に一言、お願いいたします。
――はい。
聡さんが画面の向こうにいる視聴者に視線を向ける。
――最終話まで残りわずかとなりましたが、応援よろしくお願いします。
そのまなざしの甘さと色気に俺までやられた。
これは誠司さん、聡さんを忘れられないだろう。気持ちの整理なんてつけられないし、つけたくなかったはずだ。
もう一度本を開き、聡さんが描いた誠司さんの横顔を見る。
幸せそうにほほえむ誠司さん。
きっと聡さんの前では、素の自分をさらけ出せたのだろう。
そんな、大切で大好きな人が亡くなって日が浅いのに、余田と接点をもってしまった。そして余田となんとか二人で生活を共にするようになれた矢先に、俺に好かれてしまった。
ノートパソコンの電源を落としてベッドに横になる。
どんな相手とも気軽にセックスできた俺が、今はする気になれない。誠司さんしか見えない。完全に想定外だ。
そして余田が怖い。もし俺が誠司さんと二人で会うことを知ったら、誠司さんはどうなるのだろう。
突然電話が鳴った。無料通話アプリの着信音ではない。
表示された十一桁の数字は――余田だ。
震える人さし指で応答マークを押す。
「よう」
午後十一時二十八分に何が「よう」だ。明るくのんきな声で挨拶してんじゃねえ。そう思いながら俺の恐怖心のメーターは最高値に振れている。
「……よう」
「明日、日野さんと出かけるんだって」
俺は両目を手のひらで覆った。
「だから何だよ」
「ただの確認だよ」
「誕生日だったんだろ。少し早かったみたいだけど。さっさと寝ろよ」
「日野さんから聞いたんか」
「そうだよ」
「これだけは言っとこうと思ってな」
心臓が止まりそうになる。
俺の動揺なんか知らないであろう余田は落ち着いた声で言った。
「俺は日野さんとおまえが何をしたかなんて知りたいとは思わねえ。日野さんが話したければ話せばいいと思ってる」
この展開は何だ。
「今、誠司さん、そこにいるのか」
「いる。俺も日野さんに隠し事をしたくねえからな」
「わざわざ言う必要あるのか」
「日野さんには言ったからおまえにも言う」
「なんで俺まで――」
「俺は日野さんが好きだ」
急に声に凄みが加わった。俺は飛び起きて正座してしまう。
「おまえはどうなんだ。ただヤりたいだけか」
「違う」
急に腹が据わる。余田への恐怖が瞬時に蒸発した。
「俺だって誠司さんが好きだ」
それきり俺たちは沈黙した。
机の上に置いた時計を見る。長針は午後十一時四十分を指している。余田の声がした。
「もうおまえと話すことはねえ。電話するのもこれがたぶん最後だ」
「俺だって、ない」
重みと熱をもつ鋭い声で余田が言った。
「もしも日野さんを粗末に扱うようなことがあれば、その時はただじゃおかねえ」
怒りが胃を焼き、食道を急上昇して喉で破裂する。
「はあ? そんなことするわけねえだろ。俺は誠司さんが一番大事なんだよ! もう今までの俺とは違うんだよ! ヤれればいいなんて思ってねえ! 俺は誠司さんを愛してるの! 誠司さんからも愛されたいの!」
言い終わって息が切れた。
また沈黙が訪れる。
嫌な予感がして俺は言った。
「これ、まさか、スピーカーホンになってねえよな?」
余田が笑った。屈託も陰もない笑い声。
「なってるよ。隠し事をしたくねえっつっただろ」
この会話を誠司さんも聞いていたのか。
余田め! なんて野郎だ。
恥ずかしい。くやしい。明日どんな顔をして会えばいいんだ。
誠司さんの声は聞こえない。
余田がよく晴れた秋空のような笑いと共に言った。
「明日、寝坊すんなよ」
俺は声も出ない。
通話を終了したのは余田の方だった。
両足に百キロもある鉄のかたまりをつけたような足どりでスーパーへ向かう。
俺にとってわかりやすいようにしてくれたのか、誠司さんは駐車場の端に車を停めてくれていた。俺が車に近づくと、にこっと笑ってドアを開けて出てきてくれる。
「ゆうべは大変だったね」
「あなたに合わせる顔がないよ」
「来てくれてよかった」
「どこへ行くの」
「君が行きたいところ」
「ほんとうにいいの」
「いいよ。案内してくれる?」
「スマホに履歴が残ってる」
助手席に座り、俺はスマホの地図サービスでこの間使ったワンガレージ式のラブホテルへのナビゲーションを開始する。
「あいつ、聡さんの絵のことも知ってるの」
「知らないよ。言ってないから」
「だよね。俺、聡さんの出てる動画見たよ」
「時代劇の番宣?」
「知ってたんだ」
「何回も見たから」
「素敵な人だった。誠司さん、忘れたくないよな」
「そうだよ。いつまでも胸に残しておきたい」
「余田はなんで聡さんを気にしてるの。会ったこと、ないんでしょ」
「ないよ。でも、聡が描いてくれた俺の絵も見てるし、俺がした聡の話も聞いてる」
「話さなければよかったのに」
「もっと俺が我慢すればよかった。愛する人には自分だけを見てほしいって、俺も余田さんも思う方だから」
「今の俺がまさにそうだよ。だから苦しい」
ほんとうにラブホテルに行くことが今の俺の望みなのだろうか。確かに誠司さんと抱きあいたいし、念のため男性同士がするセックス専用の潤滑剤もボディバッグに入れてある。でもセックスすることが、誠司さんや俺にとって、よい結果につながるのだろうか。
考えているうちに目的地に着いた。空いているガレージに駐車して二人で部屋に入る。
無言で見つめあう。
誠司さんは穏やかにほほえんでいる。
俺の目に涙がにじんだ。
「どうして俺のためにそこまでしてくれるの」
「君が好きだから」
「余田がいるじゃん。話せるの、今日のこと」
「それはあとで考える。ずっと君に申し訳ないことをしてきた。だから最後までつきあうよ。覚悟を決めてきたから」
「無理しないでよ」
誠司さんが俺を抱き寄せた。雄だけにある器官同士が密着して俺は驚く。
「どうするの、これ」
「俺の気持ち、わかってくれた?」
「どっちがどうするんだよ」
誠司さんの唇が俺の唇を割る。
「好きなようにして」
甘い声で言う誠司さんの手を取り、俺はベッドへ歩く。もうここから先は言葉はいらない。服を脱いで冷たいシーツとベッドカバーの間に二人ですべり込む。
さっきよりも長いキスをする。
抱きしめあい、お互いの背中を手のひらで押してさらに自分へと近づける。
「聡としていたようにしていい?」
「どうぞ」
「嫉妬しないの?」
「あの人、ほんとうに素敵だったから」
体の奥深くがじわりと温かいもので満たされる。肌と肌のぬくもりに胸のあたりがやわらぐ。快感を追い求めるよりもただこうして抱きあっていたい。
誠司さんの唇がするように俺もして、誠司さんの指先と同じ動きを俺もする。誠司さんも俺も、声を時おり漏らしたが、それはエロ動画でよく耳にするわざとらしい声とはまったく違う安らいだものだった。
誠司さんによって俺は解放された。俺も誠司さんの解放を手伝った。結局潤滑剤は俺のボディバッグから出ることはなかった。
後始末をして、二人で横になる。
天井を見上げて俺はつぶやいた。
「ついにしちゃったね」
同じように天井を見ながら誠司さんも言う。
「君は満足した?」
「したよ。誠司さんは?」
「もちろん。君はとてもかわいかった」
「あなたは素敵だったよ」
「少し寝たら。起こしてあげる」
俺は誠司さんの肩に頭を預けた。
「一緒に寝よう」
手をつなぐ。誠司さんが俺に布団をかけてくれた。
目を閉じて俺は言う。
「こんなセックス、いつもしていたの」
「うん」
「聡さん、誠司さんを愛していたんだね」
「その愛を君にも分けたよ」
「誠司さんは辛くないの。余田には言えないでしょ、俺と寝たこと」
「中途半端に君とつきあうよりはいっそのことこうした方がいいと思ったんだ」
もしかして、俺と寝た連中も、俺と深く関わりたかったのだろうか。そのことに俺は気づかなかったか、無視していたのだろうか。
「俺、ようやくヒトになれた気がする」
誠司さんが俺の頭を撫でた。
「今までは何だったの」
「ケモノ。交尾するだけのケモノ」
誠司さんが俺を優しく抱きしめた。
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