第18話 さよなら、誠司さん
誠司さんはよく眠っていた。
寝顔がとてもかわいい。ずっと見ていたくなる。
この寝顔を、聡さんは見ていたことがあって、余田は毎日のように見ているのか。
それに気づくと俺の腹の中に猛烈な怒りがわいてきた。
誠司さんに手を伸ばす。
その首を両手でつかむ。
次の瞬間、我に返った。
俺、何をしようとしてた?
誠司さんの首を絞めようとしてた?
怒りを恐怖が駆逐する。俺はすぐさま誠司さんから離れた。
――なんだよ、俺。どうしちまったんだ?
俺は誠司さんの顔をのぞき込む。息をしてる? よかった、息してる。
ねえ、早く目を覚ましてよ。
すでに亡くなっている聡さんはともかくとして、余田の奴に見せている顔なんか、俺に見せないでよ。
俺は誠司さんに覆いかぶさり、その半開きになった唇に口づけする。
――お願いだよ、早く、早く目を覚まして。
誠司さんがまぶたを開けた。
「おはよう」
ほっとした。泣きそうだ。でもさっきの殺意を思い出してあわててとりつくろい、わざと軽薄な調子で言う。
「起こしてあげるって言ったのは誰だっけ」
「俺」
笑って誠司さんは俺の頭を撫でる。
「今、何時?」
ヘッドボードの上に置いてあるデジタル時計を見る。
「十二時四十七分だよ」
「ずいぶん寝ちゃった。君は眠れた?」
「五分くらい前に起きたばっかり」
「もしかして、ずっと俺を見ていたの」
どきっとした。
首を絞めようとしたことがばれたらどうしよう。
俺は内心で震えながら作り笑いを浮かべた。動かない体を無理に動かして誠司さんの隣に寝そべり、頬杖をついて誠司さんを見下ろした。
「あなたの寝顔なんて見るんじゃなかった」
声が震えている。
――ばれませんように、ばれませんように。
誠司さんが眉をひそめた。
「どうして?」
――演じろ。軽薄な沢渡健を。演じろ。
「だって、かわいすぎるんだもん」
「なんだよ、それ」
誠司さんが屈託のない笑顔を見せた。
――俺は、誠司さんの前にいていい人間じゃない。
その笑顔が今、俺の首を絞めている。
俺は誠司さんに背を向けてから起き上がった。
――まだ演じろ。軽薄な沢渡健を。
テンションを無理やり上げた声を出す。
「メシ食いに行こうよ。腹減った」
「そうだね。どこに行こうか」
その声がとてもかわいくて、俺を信じて疑わない響きに満ちていて、俺の喉はまた絞め上げられる。
――だめだ。だめだ。もう、だめだ。
俺は振り返った。そして叫んだ。
「あなたは残酷だ。俺と寝て、俺が喜ぶとでも思ったの」
誠司さんが上体を起こして俺の前で顔色を変える。
「健――どうしたの」
俺はまた涙と鼻水を垂れ流す。
「もう恋人なんてたくさんだ」
「何があったの」
「俺は――俺は――あなたの」
だめだ。俺は口を両手でふさぐ。
言えない。首を絞めようとしただなんて。
誠司さんはただ俺を見ている。
涙と鼻水が止まらない。みっともないことこの上ない。
誠司さんが俺を胸に抱く。
しがみついて俺は泣いた。
「恋人なんて嫌だ。辛すぎる。こんな思いをするなら恋人になんてなれなくていい」
誠司さんの声はただ、優しかった。
「それが恋なんだよ」
俺を抱く腕も優しい。
「俺も、聡も、余田さんも、今の君と同じ思いをしてきた」
俺は声を上げて泣いた。
ここが、二人きりになれる場所でよかった。
俺と誠司さんが前に行ったラーメン屋の座敷でまた、俺たちは向かい合ってラーメンを食っている。
相変わらず混んでいて、騒がしくて、誰も他人の会話なんか気にしていない。
俺たちは無言でラーメンを食べる。
もう土曜日にこの人とこの店でラーメンを食べることはない。
そして土曜日にこの人と二人きりになれる場所で会うこともない。
職場では席が隣だけれど、昼休みはともかくとして帰り道に長く話すこともなくなる。
恐らくこの予想は的中するはずだ。
寂しいとは思わなかった。誠司さんにこれ以上面倒をかけるわけには行かない。俺は俺で誠司さんの次に愛せる人を見つけなければならない。
スーパーの駐車場に着いた。ここから俺んちまでは徒歩五分だ。
シートベルトをはずした俺を誠司さんが呼ぶ。
「健」
俺は誠司さんの目に視線を当てる。
誠司さんは優しくほほえんでいた。
そのほほえみは――恋人のものだった。
「そんな顔で笑わないでよ」
また泣きそうになる。
「お兄ちゃんとして、先輩として笑ってよ」
「はっきりさせた方がいいと思って」
「俺はあなたを――」
だめだ。言えない。
「他人より少し親しい存在でいさせて」
優しい笑顔に俺は言葉をぶつけた。
「俺はあなたの首を絞めようとしたんだよ。あなたの寝顔を見てるのは俺だけじゃないって思ったから。俺だけに寝顔を見せてほしかったから」
誠司さんの視線は俺を抱擁したままだ。
「話してくれてありがとう。でも俺、今、生きてるでしょ? 結局は絞めなかったってことじゃない。俺だって聡の奥さんなんか死ねばいいのにって思ったことがあるから一緒だよ」
「なんで平気でいられるの」
「ほんとに健は、愛することを知ったんだね」
「こんなに辛いなんて知らなかったよ」
「でもその分、嬉しいこともあるんだよ」
俺は誠司さんに言った。
「じゃあ、お別れだね」
「また会社で会うのに」
「二人きりではもう会わない」
俺の唇に誠司さんは人さし指を置く。
「いつでも君の力になるから」
指先が離れる。
やっと出せたのは涙声だった。
「……もう、ラブホには誘わない」
誠司さんの笑顔がわずかに悲しさを帯びた。
余田のもとに帰った誠司さんがどんなようすだったか、俺は知らない。
でも週明けの誠司さんはいつもと変わりなかった。だから余田の前で涙が止まらないなんてことはなかったのだろう。
その週の昼休み、俺は誠司さんから黙って離れて社屋から出る。日光が暖かいが風は冷たい。俺は余田の番号にかけた。
「おう、何の用だ」
「話がある」
「言えよ」
「会って話したい。長くなるかもしれない」
「じゃあまた駐車場だな」
「おう。定時で上がって駐車場の入り口で待っててくれ」
「ああ」
俺の方から通話を止める。
まさか余田とさしで話すことになるとは。
でもしかたがない。俺なりにけじめをつける時が来たからだ。
総務課の部屋に戻って自分の席に座ると、誠司さんがミスプリントの裏側にボールペンを走らせてから俺の机にそれを滑らせた。
――余田さんからメッセージをもらった。帰りに君と話すから遅くなるって。何かあったの
俺はすぐに書いた。
――もうあなたに会わないと伝える
誠司さんが持つボールペンが十秒くらい静止したあと、慎重に動き始めた。
――これからもどんな形でも君の力になりたい
俺は端正な文字の下に丁寧に書く。
――仕事以外では会わないと伝えるだけだよ
誠司さんと目と目を合わせる。
またミスプリントの裏が俺の机に来た。
――それだけ?
昼休みが終わる時刻だ。俺は心を込めて書いた。
――あなたに迷惑はかけない
午後五時に席を立つ。誠司さんも仕事を切り上げた。二人で並んで駐車場に向かう。
駐車場の入り口には余田がいた。誠司さんもいるのに、目を向けたのは俺にだけだ。威圧感はないが、表情は少し険しい。
誠司さんが黙って俺たちの横を通りすぎる。俺は今さらながら、誠司さんと余田が二人の関係を職場では隠していることを思い出す。
俺と余田は俺の車の前で止まる。他の社員が車に乗り込んでは去っていく。
なるべく早く余田を誠司さんのもとへ帰そう。俺は余田を見ずに言った。
「もう誠司さんには仕事以外では会わない」
「おまえと日野さんの話だろうが。俺にわざわざ言う必要があるのか」
余田の声には感情がない。温度もなければ湿度もない。
「ある」
俺は足もとの砂利を見ながら言った。
「あんたの誠司さんをずっと奪っていたのは俺だから。もう奪わない」
会話が途切れた。
あたりが薄暗くなってくる。
沈黙が破られた。
「俺が出会った日野さんは、三品の男だった」
余田の声は俺以外には聞こえない大きさだ。
「それを知っててこの話をしてんのか」
「そうだよ。あんたは最初から誠司さんを聡さんに奪われていたじゃないか。それがどんなにダメージが大きいのか俺はわかったんだよ。だからもう俺は誠司さんに余計な感情をもたないことに決めたんだ。俺なんかが好きになっていい相手じゃなかった」
スニーカーの甲に俺の目からしずくが落ちる。
ほんとうに最後だ。俺は誠司さんの単なる同僚で後輩に戻らなきゃいけない。
「おまえ、この間、日野さんと最後までヤったんだろ」
俺は弾かれたように余田を見た。
余田の顔は俺に、驚くことでもねえだろうが、とでも言っているようだった。
「だいたいそんなことだろうと思ったよ」
「なんで――」
「日野さんが妙にすっきりした顔で帰ってきたからさ」
心拍数が急激に上がりすぎて失神しそうだ。
余田は怒ってもいないしすごんでもいない。それなのに俺はフリーズする。
「ラブホで何かあったんだろ。知りたくねえから聞かねえけど」
俺は下を向く。余田に合わせる顔がない。
「――くやしくなったんだよ。誠司さんの寝顔、おまえがいつも見てると思ったから」
「しょうがねえだろ。日野さんは俺と一緒にいたいんだから」
確かに余田の言う通りだ。
負けた。
完全に負けた。
撤退しよう。それしかない。
「誠司さんが心配してる。早く帰れよ」
「話、終わったんか」
「終わりだよ」
「これだけなら電話で済んだだろうが」
俺は余田の目を見てきっぱりと言った。
「直接言いたかったんだ」
余田がにやっと笑った。
「おまえ、ほんと、素直だな」
余田が背中を向け、何も言わずに歩いていく。
その背中を見て俺は痛感した。
こいつは誠司さんが自分から心を離さないことを確信してた。誠司さんが俺を選ばないこともわかってた。だから誠司さんがしたいようにさせてあげていたんだ。俺を泳がせていたんだ。
誠司さん、と、胸の内で呼ぶ。
――さよなら、誠司さん。
夜空を見上げる。
雲が多いが、月と星の光は澄んで明るかった。
自宅に帰ってスマホを確認する。メッセージも着信もない。なぜか寂しいとは感じなかった。
寝る前に誠司さんから預かった本の表紙をめくった。聡さんが描いた誠司さんの幸せそうな横顔がある。
――いつ返せばいいんだろう。
誠司さんに聞くのは、明日でなくてもいい。
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