第三部 想定外の日々

第16話 あなたと俺との解釈違い

 もし誠司さんと俺のどちらかが女だとしたら、そして余田が誠司さんと法律婚でもしていたら、俺のしていることは不倫だ。つまり余田と誠司さんが法律婚を解消し、誠司さんを俺の法律婚のパートナーにしない限り俺は勝利者にはなれない。

「面白いことを考えるんだね、健」

 誠司さんが笑いながら俺をにらむ。

 ここは会社の駐車場の端っこだ。桜の木が等間隔に植えてある。俺と誠司さんと余田が派手にやりあったところだ。

 今はもう十一月。日によってはダウンジャケットを羽織りたくなる。今日はまだ上着を着なくても暖かい。

 そして、「何かしたらぶっ飛ばす」俺のために二人きりの時間を作ってくれる誠司さんのハートも温かい。

「余田さんに勝ちたいの」

「まさか」

「だって今、勝利者にはなれないって」

「誠司さんは余田さんを愛しているのでしょう。誠司さんの気持ちが一番」

「わかってきたね。もう完全に君は俺から卒業できた」

「でも俺とこうして二人きりでいてくれる」

「君は特別」

「俺だってあなたは特別」

 誰もいない。キスしたい。でも、あなたはそれを許さないよね。余田に隠し事をしたくないと思っているから。

 でも、言うだけはタダだよね。

「それより俺は今あなたにキスしたい」

「悪い子」

 誠司さんの目は笑っている。

「正直者と呼んでほしいな」

「職場だよ」

「じゃあ今夜、一緒に帰らない?」

「意地悪だね。俺が隠し事が得意じゃないことを知ってるくせに」

「うまい言い訳を考えてあげる」

「健。目がキラキラしてる。どきどきするよ」

「誠司さん。目つきがセクシーすぎるよ。俺もう我慢できない」

「二人で出かけても、ラブホテルだけはやめようね」

「そうだね。俺はあなたに何をするかわからない」

 そこへ誠司さんのスマホにインストールされている無料通話アプリが着信を知らせた。

「余田さんだ」

 あの腹パン野郎、千里眼かよ。

「もしもし、どうしたの」

 誠司さんの顔色が変わる。

「え――嘘だろ」

 何があったんだ?

 誠司さんが通話を切り、俺に言った。

「生方さんが亡くなった」

 ウブカタさんて、俺が社内便を届けに行った物流の癒し系おぢか。九月に定年退職したばかりじゃないか。

「ずいぶん急だね」

「健、物流の詰め所に行こう。近いから」

「は?」

 誠司さんが愛してやまない腹パン野郎と、そいつにくっついてる俺と身長が同じくらいのあいつがいる、あの詰め所に行くだって?

 誠司さんが走り出すので俺も走る。

「速いね!」

「中学の時、陸上部だった」

「俺だって中学の時、ベーランはいつも一番だったよ」

「ベーランて?」

「ベースランニング。ベースを一周すること」

 詰め所に着くと、あちこちで社員が集まって話している。

 出入り口に誠司さんと二人で立っていると余田が歩いてきた。新聞を右手に提げている。以前のような威圧感はない。

 こいつ、こんなに落ち着いてたっけ?

 余田は俺を見るなりにやっと笑った。

「よう」

 俺は笑顔を封印して応じる。

「よう」

 余田は誠司さんにも笑みを残したままの目を向けた。誠司さんもほほえみ返す。

 余田が俺たちに新聞を突き出した。俺たちが住む県の地元紙だ。お悔やみ欄に確かに生方さんの名前と享年と町名までの住所、通夜と告別式の日時と斎場の場所が載っている。

 俺と身長が同じくらいの遠藤も寄ってきた。俺を見るなり汚物でも踏んだみたいな顔をする。こんな奴にどう思われても俺は蚊に刺されたほどのダメージすら感じない。だから無視してやった。

 余田が言った。

「俺らはお通夜に行くけど、日野さんはどうする」

「行く。配車計画いつも手渡して、話もしていたから」

 余田が俺に目を向ける。

「おまえは?」

「行くよ。話したことがあるから」

「そうなんか」

「社内便を渡した。お疲れ様会の紙も誠司さんにって預かった」

「俺、礼服持ってないんす」

 頭をかく遠藤に余田が言う。

「俺も持ってねえ」

「お通夜、明日だからな。余田さん、今日仕事終わったら買いに行きます?」

「おう」

 俺は内心で拳を握る。やった。チャンスだ。誠司さんと二人きりになれるぞ!

 余田が俺の思考を読み取ったかのように無言で俺に視線を向ける。でも以前のような恐ろしさはない。誠司さんを好きなのはお互い様だとこの間わかったからだろうか。

 だから俺も無言かつ最高のダークスマイルでこたえてやる。

 ――帰りは遅くていいんだぜ、腹パン野郎。その分誠司さんをひとりじめできるからな。

 遠藤が誠司さんに尋ねる。

「日野さんは礼服持ってるんすか」

「持ってるよ」

「おまえも持ってんの」

 いきなり聞いてきた遠藤に俺は答えた。

「持ってる。就活のスーツと一緒に買った」

「おまえ、もしかして大学出てんの」

「そうだよ」

「へー。頭いいんだ」

 遠藤が急に俺を見直したみたいな顔になる。

「普通だよ。おまえ、高卒なの」

「おう。おまえ、すげえんだな」

「今どき大学なんて誰だって入れるだろ」

「でもさあ、勉強とか部活とか頑張ったから入れたんだろ。すげえよな」

 こいつ、ほんとに純粋で、いい奴だな。思って俺は気づく。

 ――今までの俺ならこんなふうに思わなかったのに。

「そろそろ行こうか」

 誠司さんが柔らかく声をかけてくれたので、俺たちはそこで別れた。


 午後五時、終業時刻、誠司さんがズボンのポケットからスマホを取り出す。

 俺はミスプリントの裏に書いて誠司さんの机の上に滑らせる。

 ――誰から?

 誠司さんが俺が書いた字の下に端正な字で書いて、返してくれた。

 ――余田さんから

 俺もその字の下に書く。

 ――何て?

 ――八時までには帰るって

 ――じゃあ、八時までならあなたをひとりじめできるってわけだwww

 ――君に伝言を預かってる

 ――教えてよ

 誠司さんが楽しそうに笑う。

 ――日野さんに何かしたらぶっ飛ばされんぞ

 俺も吹き出した。向かいに座る先輩社員が目だけで「何だ? 何が起こった?」と俺に尋ねてきたので、俺は自分の口を両手で覆った。

 誠司さんがまた書く。

 ――すっかり仲良しだね

 ――仲良くなんかない

 ――似た者同士だと思うよ

 ――んなわけない

 一文字ずつ刻むように否定する。

 筆談を楽しんでいたミスプリントをさっとリュックサックにしまい、俺は五時前にとりかかっていた文書を作るべく再びノートパソコンのキーボードに指を置いた。誠司さんは向かいの社員と仕事の話を始める。

 誠司さんの隣にいられること自体が幸せすぎてたまらない。こんなことを感じるのは生まれて初めてだ。

 誠司さんはほぼ毎日俺と一緒に上がってくれる。そして駐車場まで一緒に歩いてくれる。同性同士だから誰も詮索してこないし、誰からも不審そうな目で見られたこともない。

 暗くなった道を並んで歩きながら俺はにやけてつぶやく。

「二人きりだね」

 誠司さんの温かな声がこたえる。

「二人きりだよ」

「ずっとこうしていたい」

 こんなふうに感じることも初めてだ。

「まだ、新しい恋人とめぐり会っていないの」

「そんな話しないでよ。あなたが俺の恋人だと思いたいのだから」

「俺は君に恋人らしいことをできていないけど」

「こうして二人でいてくれる。もう十分だよ」

「さっきはごめん。無神経な発言だった。そんな簡単に愛する人に出会えるわけがないよね」

「ねえ、余田とはどんなふうに知り合ったの」

「サプライヤーが文句を言ってきたんだ。俺はその時たまたま物流の詰め所にいたから外に出ていった。聡が亡くなって七日目、いつ死んでもいいと思っていたから、自然とサプライヤーの前に足が動いた。それで対応したんだ。ほんとはクレーム担当に回さなきゃいけないのに」

 サプライヤーとは下請け会社を意味する用語だ。

「サプライヤーは急発進で帰っていった。その時サプライヤーの車が余田さんの前を急に横切ったんだ。俺は配車計画を立てていたから物流の社員の名前は全員覚えていた。俺が憧れてた余田さんに話しかけるチャンスだった。だから思いきって声をかけたんだ」

「何て?」

「怪我、ありませんか」

「余田は何て答えたの」

 誠司さんが、目の前に余田がいるかのように目を細める。

「あ、あ、ありません」

「はあ? マジで?」

「そう。俺を見て、すごく動揺してて。かわいかった」

「カッコわる」

「そのあと、余田さんのらしい煙草が落ちてたんで拾ってあげた。今はもう余田さん、煙草、やめたけどね」

「どうしてやめたの」

「俺が吸わないからだって」

 どんだけ愛してんだよ。

 誠司さんは幸せを噛みしめるように口もとを緩める。

「そんな余田さんと、ひとつ屋根の下に暮らすようになったんだなあ」

「いつか俺も、誠司さんにとっての余田のような相手にめぐり会うのかな」

「不謹慎だけど、そんなにすぐに出会ってほしくないな」

「どっちなの、恋人とめぐり会ったのって聞いたり、出会ってほしくないなんて言ったり」

「俺にとっての君は、恋人であり、弟であり、後輩でもあるから。こんな経験は初めてで、どうしていいかわからない」

「俺だって初めてだよ。あなたと愛しあっているのに、キスもセックスも制限だらけだ」

 言ってから気づいた。「愛しあっている」だなんて言葉、初めて使った。そんな人に初めてめぐり会った。

 誠司さんが足を止める。そこには誠司さんの車が停まっていた。

「キスしようか」

 言ったのは誠司さんだ。

「いいの?」

「いいよ」

「余田に隠し事をしたくないのじゃない」

「もう言ったよ」

「土曜日のこと?」

「うん。全部言った」

「大丈夫だった?」

「健。君には申し訳ないけど、俺は余田さんが好きなんだ」

「俺はかまわないよ。キスもセックスもコミュニケーションのひとつに過ぎないと思ってるから」

「俺にはそう思えない。キスもセックスも俺にとっては愛情を確認する大切な儀式なんだ。だから君とキスするのだってものすごく勇気を出さなきゃならない。でも君は、俺の恋人であり弟であり後輩で。キスしたいと思っても、恋人のキスはそう軽々しくはできないんだ」

 笑って、俺は言った。

「ぶっ飛ばす準備をして」

 周りに誰もいないことを確認して、俺は誠司さんの唇に自分のそれを重ねる。

「そんなこと、できるわけないでしょ」

 触れあうだけのキスをしたあとの誠司さんのほほえみは、いつものように切なそうではなかった。

 俺は誠司さんを抱きしめ、その肩に頬をつけて言った。

「ねえ、明日のお通夜、一緒に行こうよ」

 誠司さんも俺を抱き返してくれた。

「行こう」

「香典袋、もしうちにあったら誠司さんの分も持ってきてあげるね」

「じゃあ、お願いしていい? なかったら明日会社に来てから教えて。筆ペンは持ってる? なかったら貸すよ」

「誠司さん書いてよ。字、うまいじゃん」

「自分で書くことが大事なんだよ」

 俺は幸せだ。誠司さん、俺の恋人でお兄ちゃんで先輩。いつまでもずっとこの関係が続けばいいのに。そう思うことも俺にとっては初めてだった。

 結局香典袋はなかったので、昼休みに二人で会社の売店で買った。俺は誠司さんの筆ペンを借りて自分の名前と住所、入れた金額を書いた。


 斎場は会社の所在地と隣り合う自治体にあり、会社から車で三十分ほどかかる。

 目的地は同じだけど帰る場所は違うから、誠司さんと俺はそれぞれ自分の車で行く。

 帰宅する人が多い時間帯なので交通量が多く、到着したのは通夜が始まってから十五分経過したあとだった。

 斎場に入るとすぐ、生方さんの笑顔の遺影が飾られていた。猫を抱き上げて笑う彼の写真、若い時の写真なんかがボードに留めてある。

 喪服は性別問わず着る人の本質を見せると思うのは俺だけか。だから誠司さんはますます綺麗だ。

 参列者はすでに着席していた。香典を受付に預けて俺たちも座る。

 余田と遠藤も座っているはずだ。見回すがわからない。

 係の案内で焼香の列に並ぶ。三組前に余田と遠藤がいた。遠藤は会社で見る時と同じ印象だが、余田は違った。カッコいい。誠司さんを好きじゃなくて余田と初めて会うのだったら俺、奴に勃ってたかもしれない。

 香典返しを受け取ったあと、余田と遠藤、誠司さんと俺は出入り口近くで自然と集まった。

「お疲れ様会の時、言ってましたよね。健康診断で引っかかっちゃった、医者行かなきゃって」

 遠藤がつぶやいた。

「急だったよね。まだ退職して二か月も経ってないのに」

 誠司さんが言うと、余田がズボンのポケットに左手を入れて答えた。

「詰め所で聞いた話じゃ、家で急に倒れてそのまま亡くなったみてえだ。一緒に住んでたお父さんはその時たまたまいなくて、帰ってきたら倒れてたんで救急車呼んだんだって。お父さんは体が弱ってるんで、喪主はお姉さんだって」

 親族席に座り込んでいた、百五十センチくらいのか細い男性が、生方さんの父親だったのだろうか。彼の代わりに応対していた体格のよい六十代くらいの女性が姉だったのだろう。

 参列者は途切れない。それを見て誠司さんが小さな声で言った。

「慕われてたんだね」

「いい人でしたからね」

 遠藤が下を向いた。

 斎場を出て自分の車に戻る。

 誠司さんが俺の隣を歩きながら低い声で言った。

「生方さん、女の人とつきあったことがないのだって。つきあおうと思ったこともないのだって」

 俺も低い声でこたえる。

「そういう人、結構いるのじゃない?」

「愛する人がいるのと、愛することを知らずにいるのと、どちらが幸せなんだろう」

「それは、その人によると思うけど」

「誰かを愛することは幸せだけど、不幸せになることもある」

「一概には言えないと思うよ」

「君はどうなの」

「俺?」

 俺たちは立ち止まる。誠司さんの俺を見つめる顔は苦しそうだ。

「これまで、幸せと不幸せ、どちらが多かったの」

「どちらも感じてなかった。フィニッシュは気持ちよかったけど、ただそれだけ」

 誠司さんの目が俺をとらえて離さない。

「君はその時に戻れる?」

 俺も誠司さんの目をとらえる。

「戻れない。戻りたいとも思わないよ」

 あなたはこれから帰るんだね、余田と暮らす部屋に。でもこの言葉は言わないでおくよ。言えばあなたが苦しむから。

 これで俺たちのどちらかが結婚みたいに法律で保証された関係をゴールに定めているのだとしたら、このシチュエーションは不幸せの種になるだろう。でも俺にはあてはまらない。

「俺たち、愛しあうべきじゃなかったのかな」

「そんなことはないよ」

「どうして?」

 沈んだ声音を漏らす誠司さんに俺は笑ってあげた。

「俺は幸せだよ。あなたがどこへ行こうと、誰といようと。今は一緒にいるから」

「本心なの」

「もちろん」

 誠司さんが苦笑いする。

「自信があるんだね」

「それが俺の取り柄なんで。別に余田からあなたを奪おうなんて思ってないし」

 よし、誠司さん、少しだけ明るい顔になった。

「ありがと」

「何が?」

「想像して」

「じゃあ、明日、答えを教えて」

 俺に向けたそのほほえみは、どの役割のもの?

 恋人? お兄ちゃん? 先輩?

 ずるいね、誠司さん。

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