第9話 この世界は不確かだけど

 ここから先はまだ日記に書かない。俺の記憶の中だけにとどめておきたいからだ。

 正直、これを表すのにあてはまる言葉や表現が見つからない。

 だからこの話はまだ俺の頭の中にある。


 九月最後の金曜日、ウブカタさんのお疲れ様会が開かれる日でもある。

 俺たちは残業していた。今回は俺と日野さんの机の周りに他の社員が五人いる。同じフロアには別グループの社員たちがまだ二十人くらい居残っている。

 ほんとうは、毎日残業できるわけではない。残業手当は無限ではないからだ。しかしその日は特にやることが多かった。

 壁時計の針は午後七時三十五分を指している。

「今頃、物流は、お疲れ様会の真っ最中か」

 小声で一人言を言った俺に、日野さんがやはり小声で答える。

「生方さんは長く物流にいたからね。人柄もよかったし」

「酒、飲める人なんですか」

「焼酎のお湯割りが大好きだよ」

「ガチの飲んべえじゃないですか。途中で余田さんあたりに頼んで『日野さん呼んでー』とか電話してくるんじゃありません?」

「あり得るね」

 日野さんがほほえむ。

 そう、今夜、余田はウブカタさんや遠藤たち同僚と飲んでいるのだ。

 あの物流の詰め所がかもし出す雰囲気から想像するに、あいつらはどうせ二次会でキャバクラとかに行って飲み直すに違いない。しかしそこに余田と遠藤がついていくかといえば、行かないような気がする。

「晩メシどうするんですか」

「すぐ食べられる物をいつも用意してある」

「日野さんらしいですね」

 俺はミスプリントの裏側に走り書きして日野さんに差し出す。

 ――余田さん、迎えに行くんですか

 日野さんが俺の文の下に返事を書く。

 ――行かないよ

 あまりにも美文字なので目を奪われた。

 つまり、これは、またとないチャンスだ。

「総務課の沢渡くんと日野さん」から、ただの沢渡健と日野誠司になれる、またとないチャンス。

 俺は思いきって書いてみた。

 ――晩メシ、一緒にどうですか

 未練がましいと思われようがかまわない。

 三秒後、日野さんがボールペンを走らせる。

 ――ごはんだけ?

 すかさず俺は文字で答える。

 ――そうです。メシを食うだけ

 ボールペンの先が動いた。

 ――ほんとうに、それだけ?

 筆圧高く断言する。

 ――それだけです

 横顔をうかがう。疑いと恐れと困惑で塗りつぶされている。

 信じてくださいと、俺は笑って見せた。

 ボールペンが走る。

 ――出よう

 筆談した紙を素早くたたんでリュックサックに突っ込み、ノートパソコンの電源を落とす。

 日野さんも電源を落とし、リュックサックを背負って立ち上がる。

「お先に失礼します」

 俺の声が弾んだのは言うまでもない。


「酒、飲めるんでしたっけ」

「飲めない。弱いんだ」

 じゃあ、居酒屋はナシか。

「俺んちに近い所でもかまいませんか。会社から離れた方がいいと思って。あ、でも、日野さんちから遠くなっちゃいますよね」

「君は飲めるの」

「大好きです」

「俺が送ると言いたいところだけど、君が車を取りに行くのが大変になるね」

「大丈夫です。母親か弟に乗せてもらうんで」

「やっぱりそれぞれの車で行かない?」

「そうしますか」

 俺の車についてきてもらう。好きでよく行く個人経営のラーメン屋に入った。

 十分くらい順番待ちしたあと、座敷で向かい合って食べる。

「おいしいね」

「でしょう?」

「ラーメン、好きなの」

「この店のはすごく好きです」

 この店にしたのは混んでいるからだ。客同士の話し声が大きいし、漫画が三十冊近く置いてあるのでそれに集中している客も多い。

 つまり他人が話す内容なんて誰も気にしないし、込み入った話をしても聞き耳を立てる奴なんか誰もいない。日野さんと話すのにこれほど安全な店はない。

「あれから余田さんとどうですか」

「別に。いつもと変わりないよ」

「沢渡に何か変なことされてないかなんて、聞かれてるんじゃありません?」

「余田さんはそこまで疑い深くない」

「でも、ずいぶん聡さんのこと、気にしてるみたいでしたね。もう亡くなった人なのに、日野さんを取られたらどうしようって不安なのかな」

「自分が俺に見捨てられないか不安でいるのだと思う」

「こんなに気を配ってもらっているのに?」

「自分は俺にふさわしくないって思い込んでる節があるみたいに俺は感じる」

「信じてあげられてないんだ、日野さんを」

「信じていないというよりは、愛してくれているからこそ、そういう心配をするのじゃない」

「日野さんの幸せが最優先、てことですか」

「わかってきたみたいだね」

 日野さんが視線で俺を包み込む。

「でも俺は、もし余田さんが他の誰かを好きになったのなら、そっちへ行けばいいと思ってる」

 俺は頬杖をついて日野さんを眺める。

「なに」

「本心ですか」

「もちろん。余田さんは、もし俺が他の誰かを好きになったら、その人がどんな人か知りたいって言ってくれた。俺がその人と合わなかったりしたら、また戻ってくればいいよって」

「ちょっと待ってください。ということは、もし仮に、日野さんが俺を好きになったとしたら、余田さんに俺を紹介するってことになりますか」

「うん」

 余田は間違いなく俺を一発ぶん殴ると思う。

「日野さんはそのへん、どうなんですか」

「俺も同じ。余田さんが飽きたら戻ってくればいいって、言ってある」

「すごいですね」

 日野さんがラーメン鉢に残った昆布ベースの澄んだスープをのぞき込む。

「俺は、聡との愛を、自分の外側に流したかったのかもしれない」

「なぜですか」

「ずっと考えていた。聡から学んだ愛はどこへ向かうのか、何に生まれ変わるのかって」

「面白い視点ですね」

「聡を失った一週間後に余田さんと出会った」

「まだ生々しい時だったんですね」

「余田さんを愛してるのはほんとうだよ」

「でもこうして俺とメシを食べてくれた」

「おかしいね」

 あの夜のキスのあとみたいに、視線と視線が結びつく。

「もっと話したいです」

 ほほえんだまま日野さんは俺をにらむ。

「メシを食うだけって書いたのは誰だっけ」

「俺です」

「嘘つき」

「まだ、どこへ行こうとも、何をしたいとも、言ってないですよ」

「顔に書いてある」

「車の中で話しません?」

「そうだね」

 俺が支払い、駐車場をあとにする。

 別々に走り、ラーメン屋の近くにあるスーパーの駐車場で車を停めた。日野さんにはそこで俺の車に乗ってもらう。

 俺が住むのは県庁所在地だが繁華街は少ない。だから市外へ走りながら俺は尋ねた。

「帰りが遅くなってもいいですか」

「いいよ」

「何してたんだって聞かれたらどう答えるんですか。練習した方がいいのじゃありません?」

「今は考えられない」

「どうして?」

「俺、聡を亡くした直後、ゆきずりの男に抱かれた」

「らしくありませんね」

「目を閉じて、これは聡なんだって、一生懸命自分に言い聞かせた。快感なんて感じなかった。最後に無理やり頭をつかまれて、口に」

「もう言わないで」

 俺は強くさえぎる。

「運転中でなかったら、俺、キスして止めます」

「聡を手放したくないのは、俺なんだ」

 県道をひたすら走る。

「必死で気持ちの整理をつけようとしているのに、聡からもらった愛はそれでも生きている。時々わからなくなる。俺がほんとうに愛しているのは誰なのか」

「見失ってるだけです」

「君を見ているとうらやましい。正直で、自分の欲望に忠実で。俺も君のようならこんなに悩まなかったかもしれない」

 日野さんが弱く息をつく。

「だから俺は、君に惹かれたんだ」

 俺は途中で見つけたコンビニエンスストアに駐車した。

「どうしたの」

 俺はスマホで地図サービスを検索し、あの夜二人で入ったラブホテルの住所を呼び出した。経路を割り出し、ナビゲーションを開始させる。

 スマホを専用のホルダーに設置し、県道に戻る。

 日野さんが細い声で尋ねる。

「どこへ行くの」

「あの日に行ったラブホテルです」

「本気なの」

「本気です」

「俺、セックスする気になんてなれない」

「抱きあってよ、俺とも抱きあってよ」

 涙が出てきた。

「沢渡くん」

「沢渡くんなんて嫌だ。健って呼んで」

 ガキみたいにしゃくりあげてしまう。

「余田としたみたいに、裸で抱きあってよ。それだけでいいから」

 このまましばらく道なりです、とナビゲーションが平たい声で伝達する。

「もうそんな、悲しいこと言わないでよ」

 信号待ちで日野さんがティッシュを差し出した。受け取って顔を強くぬぐう。

「ごめん、勝手に君のティッシュを使って」

「いいよ。ありがと」

「泣いてると運転できないよ」

「わかってる」

「なら、落ち着いて」

「ほんとに抱きあってくれる?」

「いいよ」

「余田にばれたらどうするの」

「言わない」

 信号が青になった。

「今日のことは、誰にも言わない」

 穏やかだけど真剣な声に俺も応じる。

「俺も秘密にする」

 到着した。また、部屋が写ったパネルを押す。

 ドアを閉じてすぐに俺は日野さんを抱きしめた。

「ねえ、唇にキスして」

「できないよ」

「嘘でもいいから唇にしてよ」

「言ったでしょ」

 俺の頬を両手で優しく挟んで日野さんが悲しい笑顔を浮かべる。

「嘘のキスは、俺にはできない。唇は君がほんとうに愛する人のためにとっておいて」

 日野さんの指が俺のユニホームの第一ボタンからはずしてゆく。

 俺はその手を静かにはがし、自分から裸になった。最近運動してないけど、ぜい肉はついてない。

 日野さんも脱いだ。綺麗だ。引き締まってる。肌はなめらかで傷ひとつない。

 抱きあった。

 温かい。

 安らいでいく。胸の中にお湯が注がれてゆくみたいだ。

「誠司さん」

「……健」

 俺の体が内側から揺さぶられた。

 性衝動とは違う。この揺れを表現するための言葉は俺が習得した語彙には見当たらない。

 誠司さんの体温が俺の欠落した部分に流れ込む。

 こんな衝動は今までに体験したことがない。

 俺はこんなにも欠けていたのか。こんなにも空虚を抱えていたのか。

 俺は?

 俺は誠司さんを慰められるのか。

 誠司さんが流したかった愛を俺は受け止めることができるのか。

 聞こえるのは空調の音だけ。

 肌と肌が、そして男にしかない器官が触れあっているのに、性的な欲求はわいてこない。

 これが、そうなのか。

 誠司さんが俺に望んでいたことか。

 誠司さんは俺をうらやましいと言ってくれた。

 では俺が誠司さんに望んでいたことは何だろう。

 俺を好きになってくれること。

「総務課の沢渡くん」ではなく、素の俺に興味を持ってもらうこと。

 俺も誠司さんを好きでいること。

 俺たちは自然と離れた。

 誠司さんが俺に優しく語りかける。

「俺は君に、愛することを知ってほしかった。でもほんとうは、愛するということは何なのか、君を通して再確認したかっただけなんだ」

「ありがとう。俺を選んでくれて嬉しいよ」

「もう大丈夫」

「よかった」

「健は?」

「俺も大丈夫」

「ここから出たら、『総務課の日野さんと沢渡くん』に戻るよ。それでもいい?」

「うん。いいよ」

「『誠司さんと健』にはもう、戻れないんだよ」

「戻れなくていい」

「ありがとう」

「俺の方こそありがとう」

 俺は誠司さんの肩に手を置いた。

「キスしていい? 頬に」

「どうぞ」

 俺は、今感じている思いを唇に込めて誠司さんの右頬にキスをした。

 俺の唇はいつの日か、愛する誰かの唇に重なる。でもその誰かは誠司さんではない。そして誠司さんの唇は残念ながら、俺の唇を受けない。

 誠司さんが俺の額にキスをした。


 週明け、俺は「総務課の沢渡くん」として「総務課の日野さん」の隣で業務に携わる。

 昼休みにまた、ミスプリントの裏側で筆談した。

 ――大丈夫でしたか

 ――うん。何もなかったよ

 ――仲良くできましたか

 ――もちろん。君はどうだった?

 ――おかげさまで眠れませんでした

 ――今夜はゆっくり寝てね

 ――努力します

 ――俺も君のおかげですっきりしたよ

 ――よかった

 ――ありがとう

 ――何かあったら力になりますから

 ――頼んだよ

 俺たちは視線だけでほほえみあう。

 俺はミスプリントを丁寧にたたんでリュックサックに入れると、何事もなかったかのように仕事に戻った。


 この話を書けば、俺の日記は完結する。

 俺がバイセクシャルであること、恋愛イコールセックスだと疑わなかったこと、狙った相手は男女問わず必ず落とすと豪語していたこと、それらすべてが今の俺をかたち作ってきた。

 それともう一つ、「総務課の日野さん」つまり誠司さんと出会えたことも、今の俺を構成する要素となっている。

 愛は循環する。誠司さんが聡さんから学んだ愛を俺に注いだように、俺もいつか誠司さんから注がれた愛を誰かに注ぐことになるのだろう。

 皮肉なことに、愛する人には簡単には出会えない。

 マッチングアプリで出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。

 愛する相手の性別や性指向がどんなものかさえ、自分で選べるようでいて、実は選べないのかもしれない。

 そんな不確かな世界を、今日も俺は生きていく。


 第一部 完

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