第8話 恋人は似合わない
日野さんと秘密のデートをした夜から俺の日記は止まっている。
翌朝、職場で会った日野さんは、いつもと変わらない優しい笑顔で俺に「おはよう」と言った。
その笑顔を見て、俺は気づいた。
今、この人が優しい目で見つめているのは、俺じゃない。
「総務課の沢渡くん」なのだ。
「俺の後輩である沢渡健」なのだ。
決して俺という一人の男に関心を向けてくれているわけではない。
どれだけ秘密の話を聞かせてくれていても、ラブホテルで俺の頬に熱い唇を触れさせていても、この人の中では俺との一夜は、昨晩だけで完結した物語にすぎないのだ。続編が書かれることもなければ、特典としてボーナストラックが収録されることもない。
だから俺も、「総務課の先輩・日野誠司さん」に作り笑いで応じる。
「おはようございます」
席が隣でも、精神的な距離は地球半周ほども開いてしまっていた。
思考回路が正常に戻ったのは、昨夜だった。
俺が高校生の頃から徒歩三分のスーパーで勤務しているパートタイマーの母親が帰宅するのは午後十時。メシを用意してくれている時と、そうでない時が十日周期でめぐってくる。
今晩は、用意がない。冷凍庫を漁ると担々麺を発見した。弟の好物だ。奴も大学入学直後からドラッグストアでアルバイトをしているために帰りは深夜を回る。
俺にイギリスのロックバンドの魅力を教えてくれた父親は今年の四月から韓国に単身赴任中だ。「どうせならイギリスにしてくれればよかったのに」とぼやいていた。父親は俺たちに連絡を一切よこさないし、俺たちも彼にそうすることを一切求めていない。
俺は担々麺などの辛い食べ物が苦手だ。食べられそうな食品を探すうち、冷凍庫の底からチャーハンを発掘した。袋のまま電子レンジ加熱が可能な優れ物だ。
袋をフォークで三回刺して穴を空け、皿に乗せて六百ワットで三分三十秒加熱する。
チャーハンを食べたあと、スマホに日記を入力し始める。
ようやくまとまった文章を入力することができた。定時で退勤したあと零時までの七時間だけ、日野さんは俺の恋人を演じてくれた。
水筒の中に残っていた冷たいほうじ茶を飲み干す。どうして麦茶じゃないかって? 母親がほうじ茶を好きで、いつも冷水ポットで水出ししており、冷蔵庫に常備しているからさ。母親と俺と弟はそのほうじ茶を勝手に水筒に注いで職場や学校に持っていく。
また涙が出てきやがった。
高一の夏、準決勝で敗退した時だって泣かない俺だったのに。
新しい恋なんてまだできない。
好きになれる奴になんて出会ってない。
自慰する気にもならない。
SNSを確認しようとすら思わない。
食べ終わった皿とスプーンを流しに置く。水筒も置く。
いつものことだけど洗い物なんかする気はないのでそのまま歯を磨き、風呂に入って、寝た。
日野さんは今日もまた、真面目に作った弁当を食べている。まさか余田にも作ってやっているのではないだろうな。うらやましい。
今日の俺はうっかり寝過ごし、朝メシを食べずに車を走らせてきたため途中で弁当を買えなかった。だから売店で売れ残りのおにぎりを二個買って食っている。
あと二分で三時休憩になるという時、上司が俺を呼んだ。
「物流にこれ、置いてきてくれる」
社内便で使うリサイクル封筒を目の前にどさっと置かれた。
くそ。
よりによって物流かよ。余田と遠藤がいるじゃないか。
特に余田にだけは会いたくない。俺が失恋した日野さんと一緒に暮らしている余田にだけは。
社内便専用のトートバッグを肩にかけ、物流部門が入った棟に走る。
初めて足を踏み入れた。雰囲気が総務課と全然違う。
「はいどうも」
物流部門の責任者に社内便を手渡す。六十歳くらいのいわゆる癒し系おぢだ。一八〇センチはあるな。腹が出ている。
「君、総務課から来たの」
「そうですけど、何か」
「日野さんて知ってる?」
「ええ」
癒し系おぢはにっこりした。
「俺ら物流の配車計画表、わざわざ印刷して、持ってきてくれたんだよねえ。イケメンでさあ。八月から総務課に行っちゃって。元気?」
「元気です」
「そうかぁ。よろしく伝えてくれる」
「すみません、お名前をお伺いしてもよろしいですか」
「ウブカタって言えばわかると思うよ」
「お伝えします」
「よろしくー。あっそうそう、ついでにこれも渡してもらえると嬉しいなあ」
A4用紙を一枚手渡された。タイトルは『生方さんお疲れ様会』。日時と、会場となる飲食店の電話番号や地図、会費が書いてある。幹事は俺の知らない名前だ。
「俺さあ、今月で定年なのよ。日野さんにもお世話になったから、もし都合がつけば来てほしいなあってウブカタが言ってたって伝えてくれる」
「わかりました」
「じゃあお願いします」
「承知しました」
物流の詰め所を出る。大型トラックがずらりと並ぶ。
案の定、棟の壁際には余田と遠藤がいた。不幸にも俺は奴らと遭遇する。
「おまえ、何でいるんだよ」
遠藤が凄んできた。ちっとも怖くない。
「仕事だよ。おまえこそ何で前、総務の入り口にいたんだよ」
「日野さんが心配だったからに決まってるだろ。おまえがあんなこと言うから」
遠藤が慣れない巻き舌を使う。余田の真似か。
話にならねえ。
俺は空っぽになったトートバッグの持ち手を持って肩にひっかけ、空いた手をポケットに突っ込んで歩き出す。
余田は壁に寄りかかり、終始無言で腕組みをしていた。遠くに視線を投げている。
余田の前を通りすぎようとした時だった。
「待て」
俺を見ずに余田が言った。
俺は仕方なく足を止め、余田を見ずに返す。
「何かご用ですか」
「あの夜、何があった」
音量も感情も抑えた声だ。
「何の話ですか」
余田が俺を見た。
「とぼけるんじゃねえ。帰ってきた日野さんはずっと泣いてた。わけを聞いたけど話してくれなかった」
その目と声に殺気や怒りはないが、それだけに嘘やごまかしを許さない凄みを感じる。
「どうなんだ」
考えられる理由はいくつかある。
一つ目は、愛する人との思い出を俺に話したことにより、押さえつけてきた感情があふれ出した。
二つ目は、これは俺にとって非常に都合のよい解釈なのだが、俺の恋心を切り捨てたことを後悔した。つまり程度はどうであれ、日野さんも俺に好意をいだいてくれていた。
多分、一つ目の理由が正解なのだろう。
「知りませんよ。二人でメシを食って話した。それだけです」
「日野さんに何をした」
「何もしてません」
今でも、亡くなった元カレを愛している。そして俺が愛することを知るまでそばにいる覚悟を決めてくれていた。
明かせるわけがない。あの夜に日野さんと俺との間に起きたことはすべて、二人だけの秘密なのだから。
「何を話した」
俺も覚悟を決めた。
あの夜は誰にも渡さない。
体を張っても守り抜く。
そのために俺は話す内容を脳内でフルスピードで構築した。
「俺、バイセクシャルなんです。男にも女にも性衝動を覚えるんですよ。つまり男と女両方とセックスできるんです。そのことについて相談してました。こう見えて俺、生きづらいんですよ」
余田が俺の目を見据える。
俺も負けずに余田の目をガン見する。
実質二十秒くらいにらみあったあと、余田がぽつりと言った。
「どうせ三品の話でもしたんだろ」
余田は痛そうな顔で下を向く。
三品聡。
日野さんが今でも愛する、去年亡くなった恋人。
余田は全部わかっているのだ。日野さんの中に聡さんが今も生きていることを。
日野さんを守れるのは俺だけだ。俺は体内にある勇気をかき集めた。
「誰ですか、その人」
余田が顔を上げる。
「違うのか」
「ミシナってそもそも誰なんです。余田さんのお知り合いですか」
「知らねえのか」
「知るわけないでしょ。それより余田さん、俺のこと少しは理解してもらえましたか」
「野郎とも女とも寝られるってことだろ」
「そうですよ。日野さんに聞いてもらえてやっとすっきりしたんです。どうして泣いたかは知らないけど、日野さんが優しいからじゃないですか? 俺の人生こう見えて結構ヘビーだから、聞いていてまるで自分のことみたいに思えたのかも」
余田がしらけた目つきになる。
「あれはてめえが二股かけてたんが原因だろ」
それを指摘されると痛い。
「日野さんからも言われましたよ。二股はよくないよって。もうしませんて約束しました」
「そうだな」
余田がしんみりした口調になる。
「俺も日野さんも、二股かけられねえからな」
だから日野さんは、愛する聡さんが描いてくれた自分を、余田の前で処分したのだろう。
そんなことする前に、俺に相談してくれたらよかったのに。そしたらスケッチブックはみんな俺が預かって、守ってあげたのに。
「俺、もう行っていいですか」
余田がため息をついた。
「わりい」
「いいですよ別に。気持ち悪いからやめてくれません?」
あの夜余田が俺に言った言葉を、俺はそのままお返しした。
今日は残業する羽目になった。
ウブカタさんのお疲れ様会の案内を渡すと、日野さんはひと目見て、すぐに折りたたんでダストボックスに入れた。
「行かなくていいんですか」
「俺は飲み会が苦手だし、好きじゃない」
「ウブカタさんは日野さん元気、よろしく伝えてとおっしゃってました」
日野さんが口角を引き上げる。
「ああ、あの人ね。大きくて、癒し系だよね」
俺も笑い、もう三十年近く放映しているアニメに登場する、ウブカタさんを思わせるキャラクターの名前を言った。
「似てません?」
「確かに」
二人で笑いあう。
俺はむなしくなる。これは、「総務課の日野さんと沢渡くん」としての笑いだと悟ったからだ。
でも、これだけは聞いておきたい。
「泣いていたんですか」
「何の話?」
「今日、余田さんから聞いたんです。帰ってからずっと泣いていたと。わけを聞いても話してくれなかったと」
日野さんがあきらめの表情を浮かべる。
「言えるわけがないよ」
「聡さんのことなんですね」
「それだけじゃない。君のこともある。余田さんは他に何と言ったの」
「どうせ三品の話でもしたんだろって」
日野さんの綺麗な顔に陰が生まれる。
「君は何て答えたの」
ほんとうのことを伝えたら、日野さんはまた俺とデートしてくれるだろうか。今度は頬ではなく唇にキスをしてくれるだろうか。
「三品なんて知りませんと答えました」
日野さんの綺麗な瞳が涙で曇る。
「俺を守ってくれたの?」
俺の心臓に心地よい痛みが走る。
「はい」
日野さんの目から涙が滑り落ちる。
俺のかわいい泣き虫さん、ここは職場ですよ。
よかったですね、俺たちの周りに誰もいなくて。
「どうして? あんなに冷たくしたのに」
「本心じゃなかったってことですか」
「だってあの場で君に優しくしたら、恋人同士にならないと責任が取れないでしょ。俺は君みたいに、一晩だけのつきあいなんて、どう頑張ってもできないのだから」
俺は日野さんに見とれながら、口調だけは冷たく言った。
「俺たちに恋人という関係は似合いませんよ。これからも『総務課の日野さんと沢渡くん』のままでいた方が安全だと思います」
「そうだね。俺もそう思う」
「正直、わかりません。愛することがどういうことかなんて。でも、これだけは言えます」
俺は日野さんに笑顔を見せた。
「俺、幸せでしたよ」
今日の日記は楽しく書けそうだ。
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