第7話 突然の冷たい声

「あんまり、ひんぱんに出かけるのはまずいと思うんです。余田さんのこと、気にするなっていうのも俺には無理なんで。沢渡と出かけるなんて、今日は許しても次は厳しいでしょ。俺が余田さんの立場だったら絶対許さない」

 声がうわずる。

 日野さんは黙って俺の言葉を待っている。

「だから、今、行きませんか」

「どこへ行きたいの」

 俺は思いきって言った。

「ラブホテルです」

 日野さんの表情は変わらない。

「抱きあいたいです、日野さんと」

 言葉はすぐに返ってきた。

「抱かれたいってこと」

「どっちでもかまいません」

 胸がすーっと晴れ渡る。

 日野さんは澄んだ瞳で俺を見つめたまま、口を開いた。

「いいよ」

「えっ」

「ちょっと待って」

 日野さんは自分の車に入った。スマホを操作し、耳に当てる。

 何を話しているかは聞こえない。その目は静かで、横顔は落ち着いている。まるで仕事の話でもしているみたいに見える。

 五分くらい経った頃、日野さんが出てきた。俺に向かってにこっと笑う。

「大丈夫だよ」

「何がですか」

「オッケーもらった」

 俺は却って怖くなる。

「よ、余田さんがオッケー、出したんですか」

「うん。話が長引いてるって言ったんだ。俺が行こうかって言われたけど、丁重にお断りした」

 来なくていい。来るなら俺は全速力で逃げる。

「で、どこのラブホテルに行くの」

「あ、今、調べます。市内がいいですよね」

「君の家は大丈夫?」

「大丈夫です。今日は遅くなるって母親には言ってあるんで。メッセージ入れとけばあとから電話かけてくるとかないんで」

「君の家に近いところがいい?」

「いや、日野さんのアパートに近い方がいいと思います。どのあたりがいいですかね」

 二人で俺のスマホの画面を見る。大手検索エンジンが提供する地図サービスのアプリで探した市内のラブホテルの一覧が表示されている。

「どこがいいとかありますか」

「沢渡くんはどこがいいの」

「いや、どこも同じだと思いますけど。ここから一番近いところにしますか」

「それだと、ここ?」

 一覧の一番上にあるラブホテルを日野さんが指さす。

「じゃあ、俺、運転します。またここへ戻ってくればいいですよね」

 言って俺は、重要なことに気づく。

「あの、日野さん、余田さんとお互いに位置情報チェックしあったりしてませんか。そうするとどこへ行ったかばれません?」

 日野さんがほほえむ。

「そんなことはしてないよ。安心して」

 俺は自分の車の鍵を開け、助手席のドアを開いた。

「どうぞ」

「ありがと」

 日野さんが乗り込む。

「音楽かけていいですか」

「いいよ」

 無料動画投稿サイトの音楽サービスを検索する。葬式の時にかけてほしいと母親に頼んだ、俺の愛するイギリスの有名ロックバンドのメドレーを流す。それに乗ってエンジンをかけ、サイドブレーキを解除し、ギアをドライブに入れてアクセルを踏んだ。

 午後九時の県道を走る。

「ずいぶん昔の歌を聞いてるんだね」

「父親がしょっちゅう聞いてたんです。それで好きになりました」

 恋する日野さんが俺の隣にいて、愛するこのロックバンドの歌を俺と一緒に聞いてくれている。幸せだ。すごく幸せだ。

「ほとんど歌えますよ。もちろん英語で」

 ついついアクセルを踏み込みすぎて車間距離が詰まりかけ、あわてて減速する。追突事故なんか起こしてたらラブホテルにたどり着けない。

「音楽とか、聞くんですか」

「あまり聞かないな。でも、聡がオープニングのイラストを描いたあの時代劇のテーマ曲は繰り返し聞いてたよ」

「あれ、良かったですよね。じゃあ、帰りはそれ聞きましょう」

「日本史も好きなの?」

「教科書に書いてあることくらいしか知りませんけど」

 話してるうちに目的のラブホテルに着いた。県道沿いに建っていて、周りには飲食店やリサイクルショップ、カー用品店が並んでいる。

 車を停め、看板みたいな板でナンバーを隠す。周りに誰もいないけど、男同士で入るのは市村先輩とした時以来だ。

 建物の中は照明でセピア色だった。フロントはなく、従業員の姿も見えない。

 ずらりと並んだ部屋の写真パネルを眺めるうちに汗がにじみ出る。心拍数が急上昇する。

 いよいよ……抱きあうのか、日野さんと。

「どれがいいとか、ありますか」

「君は?」

「選んでいいんですか」

 部屋は皆、上品な印象だ。料金もそんなに変わらない。

「……ここ……どうですか」

 一番地味な壁紙とベッドカバーの部屋の写真パネルを指さす。

「じゃあ、入ろ」

 写真パネルを押すとその部屋の鍵が開くしくみだ。狭くて急な階段を上がり、二人で入る。

 室内の照明もセピア色だった。暗すぎず明るすぎず、情緒がある。料金は部屋にある精算機で払うしくみだ。

 鍵をかけたのは、俺だった。

 日野さんはベッドを見つめている。

 俺は日野さんの隣に並び、同じようにベッドに視線を据えた。

「余田さんとも……来たことあるんですか」

「あるよ」

「……したんですか」

「しなかった」

 何だって? 俺は日野さんの横顔に質問する。

「なんでですか」

 日野さんが自嘲する。

「初めてのドライブで、日野さんが行きたい所に行きますよって、余田さんが言ってくれたのに、俺が行きたいって伝えたのは聡のふるさと。最悪だよね」

「……やりますね」

「そしたら聡の元カレに、ボコボコにされた」

「殴られた?」

「ううん、言葉で。余田さんを見て、もう新しい男を作ったの、三品が草葉の陰で泣いてるぜって。聡と一緒に会った時は親切だったのに。そいつに言われたよ。あんたなんかにハマったからいけなかったんだって。聡に恥をかかせたって」

「どういうことですか」

「聡がね、セックスしてる時の俺を描いてくれたんだ。そのスケッチブックを奥さんに見られて。早くあんたが片づけないからだって。聡はその時入院してたし、退院したら片づければいいよって言われてたから待ってただけなのに」

「何ですか、そいつ」

 俺までムカついてくる。でも、なんで余田とラブホテルに泊まったんだ?

「余田さんが俺をつれて逃げてくれた。そのあと俺の運転で、もうとにかく風呂に入って寝られればいいやって、適当に目についたラブホテルに入っちゃった」

「……余田さん、驚いたでしょうね」

「その時は一緒に眠っただけ。何もしなかった」

 俺はごくりと唾を飲み下す。

「余田さんて、ノンケだったんですか」

「彼女はいたみたい」

 あんな喧嘩野郎に彼女がいたのか。まあイケメンだし、いてもおかしくないか。

「それで、体のつきあいになったのって、何かきっかけがあったんですか」

「俺があんまり聡のことを思い出して泣いてばかりいるものだから、余田さんがね、自分のアパートに俺を連れていって」

「連れていって?」

 日野さんが幸せそうに口元を緩める。

「好きです、って」

 何やってんだあいつ。恥ずかしくないのかよ。

「だから俺も、好きです、って」

 今どき小学生でもしないだろ、そんな会話。

「でもね、俺、挿入が怖くて。だからただ、裸で抱きあってただけ」

「いつ、成功したんですか」

「去年の年末。潤滑剤もゴムも用意して、すごく優しくしてくれた」

 考えられない。あのいかついツラでそんな真似ができただなんて、嘘だろ。日野さんは幻覚でも見たのじゃないか。

 日野さんがほほえんだまま俺に視線を移した。

「さて、どうする?」

「どうする、って……」

「抱きあいたいのでしょう?」

「それは……そうですけど」

「俺に抱かれたいのだっけ」

 はい、と、素直に言えない俺がいた。

 なんでだよ。

 あんなに日野さんとふれあいたいって思い詰めてたのに。

 今はただ、日野さんと二人で同じ空間にいるだけで幸せで、話してるだけで幸せで、セックスなんかしてもしなくてもどうでもよくなっている。

 おかしいな。

 俺にとっては恋愛イコールセックスであるはずなのに、恋愛イコールセックス「だった」になりかけているじゃないか。

 セピア色の照明の下で見つめ合う。

 二人の唇と唇の距離は、わずか三十センチ弱だ。どちらかが一歩近寄るだけで触れあう。

 日野さんはほんとうに綺麗だ。見とれてしまう。

 余田はこんなに綺麗な日野さんを優しく抱いているのか。事実は小説より奇なりとはこのことだ。

「どうしたの。抱きあわないの」

 甘く優しく色っぽく日野さんが言う。

 こんな声を余田はいつも聞いてるのか。

 だめだ。さわれない。

 俺の腕も俺の脚も動きやしない。

 これまでヤりたいと思った相手とは迷わずセックスしてきたのに、なんで俺は動けなくなってんだよ?

 すると日野さんのズボンのポケットでスマホが振動した。

 日野さんが取り出し、画面を見て苦笑いする。そして俺に振動するスマホを差し出した。

 そこに表示された漢字三字は――

「余田明」

 俺の体を循環する血液が瞬時に凍結する。

 終わった。

 何もかも終わった。

 しかもなんと日野さんは、画面上の「応答」マークを指で押したじゃないか!

 その上スピーカーをオンにする。WHY?

 余田の必死な声が飛び出した。

「大丈夫か、日野さん!」

 おい、余田。

 一体おまえは何を心配してんだよ。

 日野さんがおかしそうに笑いながら答える。

「大丈夫だよ、余田さん」

 深い仲なのに「さん」づけで呼びあう二人が俺には絶滅危惧種みたいに見えて仕方がない。

「帰りが遅すぎやしねえか?」

「ごめんね、ようやく話がついたところなんだ」

「『沢渡の腐った根性を叩き直してくる』なんて言ってたけど、ずいぶん時間がかかったんだな」

 日野さん。

 あなたは俺と会うことを、そんな風に余田に説明していたのですか。まるで昭和のドラマに出てくる、頭に無駄に血がのぼっている教師のようではありませんか。

 しかもなんでスピーカーをオンにしているのですか。沢渡健は理解に苦しんでおります。俺を余田の前にさらし者にするおつもりでしょうか。

 日野さんがまるで余田が目の前にいるかのように明るい笑顔を浮かべる。

「でも、すごく良い子になったよ」

 今までの俺は悪い子でしたか。否定できません。

「マジで?」

「話してみる?」

 うわッ、無理だって!

 何の罰ゲームだよ!

 日野さんが俺を色っぽい流し目で促す。

「沢渡くん、余田さんと話してあげて」

 俺はガクガクブルブルしながら画面に向かって声を出した。

「こんばんは、沢渡です……」

 画面から恐怖の巻き舌が静かに襲ってくる。

「沢渡。てめえ、日野さんに、変なことしてねえだろうな」

「いえ……しておりません……」

 歯がカチカチいう。冷凍庫に閉じ込められているようだ。

「今、どこにいるんだ」

 ラブホテルにおります。

 ……なんて言えるかーい!

「室内です」

 事実を述べる。

「店の中か? それにしてはずいぶんと静かじゃねえか」

「個室です」

 嘘はついてないぞ。

「つまり二人きりってわけか」

「はい」

「日野さんからいろいろ教わったんか」

「ハイッ!」

 俺、なんでそこだけ大声で返答するんだ?

 そこへ日野さんがにこにこしながら割り込む。

「ね、素直な良い子になったでしょ?」

「もともと素直だったのかもしれねえな」

 余田の声が笑っていたので、俺は耳を疑う。

 ――俺が素直? この俺が?

 日野さんが嬉しそうに胸を張る。

「だろ? 見たか、俺の指導力」

「はいはい」

 二人は楽しそうに笑いあった。

「じゃあ、もう帰るね」

「おう、待ってる」

 沢渡くん、とまた促され、俺は画面の向こうにいる余田に言った。

「いろいろ、申し訳ありませんでした」

「いいよ別に。気持ちわりいからやめろ」

 ああ、やめてやるよ。

 俺は見えない余田の前でそっぽを向いた。

 日野さんが通話を終了する。画面に余田が映っているかのように優しくほほえみ、俺に向き直る。

「沢渡くん、今日はありがとう」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

「腐った根性を叩き直してくるなんて、あれ、冗談だから」

「だと思いました」

「帰ろうか」

「はい」

 俺は精算機に五千円札を入れるとおつりが小銭で出てきた。日野さんと一緒にいられた三十分の価値はこの値段を上回る。

 小銭を財布にしまう俺の右肩に日野さんがそっと手を置いた。

 日野さんが俺に顔を寄せる。

 その唇が俺の唇に重なる瞬間、すっと動いた。

 俺の頬に日野さんの唇が触れる。

 熱い。そう感じた直後、視線が絡んだ。

 ――離れないで。

 思って俺は日野さんに手を伸ばす。

 日野さんが一歩引いた。同時に肩から手が離れる。

 温かいまなざしと笑顔で日野さんは言った。

「こんなに短い時間だったのに、君はきちんと理解できたね」

 何を理解できたと言いたいのだろう。

 俺はただ、日野さんに包まれていただけなのに。

 俺は短い呼吸をしながら問う。

「どうして、唇にしなかったんですか」

「唇は君がほんとうに愛する人のためにとっておいてほしかったから」

 俺がほんとうに愛する人。

 その人は、俺の目の前にいるのに。

 その人の唇はもう、俺に触れることはない。

 その人と秘密のデートをできるのは、今日が最初で最後だ……。

 涙があふれる。

 俺は日野さんの胸に倒れ込む。

 日野さんは俺を、そっと包んでくれた。

 その愛は俺に痕を残し、一瞬で燃え尽きた。

 俺の涙は日野さんの胸に残るだろうか。

 耳元で日野さんの優しい声がする。

「帰ろうか」

 はい、と答えたのに、声にならなかった。


 本屋の駐車場まで向かう道中、日野さんがよく聞くという時代劇のテーマ曲を流そうとしたが、日野さんは悲しそうな笑顔で俺を止めた。

「気をつかわないで」

「じゃあ、音楽なしでいいですか」

「いいよ」

 時刻はすでに深夜零時を回っている。

「余田さんに怒られないように、俺、言いましょうか」

「大丈夫だよ」

「やっぱり連絡先、交換しません? 何かあればすぐに駆けつけたいので」

「やめてくれ」

 突然の冷たい声。

 どうしてですか、という問いかけが喉で止まる。

「スマホに俺の痕跡があると、君は今夜のことを忘れられなくなってしまう」

 俺はさすがに怒りをあらわにした。

「忘れられないままではだめなんですか」

 信号が黄色から赤になる。

 日野さんの冷たさに固さが加わる。

「君はもう俺から卒業したのだから、俺を忘れなければだめだよ」

 駐車場に着いてしまった。

「気をつけて帰って。おやすみ」

 日野さんと俺との間に、目には見えない冷たい鋼鉄の壁が築かれる。

 日野さんの車が駐車場から出る。

 その車が見えなくなった時、俺は、この恋が終わったことを悟った。

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