第二部 誠司さんと余田と俺

第10話 誠司さんの独白

 これは沢渡健が書いている日記だけれど、俺という男に大きな影響を与えてくれたのは誠司さんだ。

 確かにもう、「誠司さんと健」には戻ることはできない。

 でも、俺の中では、永遠に「誠司さん」なのだ。だからこれからも「誠司さん」で通すことにする。

 だから、誠司さんにも、語ってもらう必要があるというわけだ。

 それに誠司さんも、俺と会って初めて気づいた感情や、処理できた思いがある。それについて語ってもバチは当たらないだろう。

 それに、これだけは声を大にして言いたい。

 誠司さんは余田を裏切ってなんかいない。

 誰も、誰かを裏切っていない。

 俺は誠司さんを守りたい。守ると決めたんだ。だから言っておく。

 そんなわけで今回は、誠司さんに語ってもらうことにする。

 なお、誠司さんは余田と一緒にいる。だから今後は余田の語りも入ることを書き添えておく。




 ラブホテルを出たあと、結局は車を停めたスーパーまで、俺は「健」――沢渡くんと一緒にいることになった。

「スーパーに着くまで、『誠司さん』でいい?」

 健がエンジンをかける前に俺をひたむきな目で見つめる。

「じゃあ俺も、健、って呼ぶね」

「嬉しい」

 健が駐車場から出た。腕時計を見る。午後十一時三十分だ。

「誠司さん」

 健の横顔は無邪気でにこやかだ。

 こんな、かわいらしい表情ができたんだ。これまで彼は身の周りにいる人たちとどう折りあいをつけてよいのかわからないまま、やみくもに戦ってきただけだったのかもしれない。

 今、俺は彼から好意を寄せられているし、俺も彼に好意をもっている。けれどそれは恋愛に発展するたぐいの感情ではない。むしろ兄弟がもつ愛情に近い。

 俺は一人っ子だけど、もし血のつながった弟がいたら、こんな愛情をその子にいだいたのだろうか。

 健が優しい声で言う。

「連絡先、交換しない? そしたらいつでも俺が助けに行けるよ」

「やめておこう。俺は家に帰ったら君に連絡できないから」

「じゃあ俺の番号だけ登録しておいて。お守りがわりになるでしょ」

 困った。彼は引き下がらない。

「SNS、やってないの」

「高校でやめた。俺のテストの順位が少し上がっただけで無視するような同級生と話したくなかったから」

「ごめんなさい、嫌なこと思い出させて」

「いいんだ。俺が、人づきあいが得意じゃないだけだから」

「そんなことないよ。誠司さんは一人一人を大事にしてくれる」

「健。スマホの電話帳に君の電話番号があるというだけで、俺は君を思い出してしまいそうになる」

「思い出していいのに」

「君とのこれは、なんと表現すればいいのか、わからない。恋でもないし、愛でもない。友情とも違う気がする」

 赤信号で止まる。

「誠司さん、明日は土曜だから、ゆっくり休んで」

「眠れるかな」

「余田さんがいるじゃん。大事な人なんでしょ。きっと癒してくれるよ」

 ほんとうは俺がそうなりたいのに、という、声にしない彼の声が俺には聞こえた気がした。

「余田さんの前で普通でいられるかな。俺、隠し事が得意じゃないんだ。聡にも言われたことがある」

「しゃべってもいいよ、今日のこと。俺のせいにしちゃっていいよ。俺がボコされればいいだけの話だから」

「それだと君が傷つくでしょ」

「慣れてるから平気」

「だめだよ、そんなものに慣れては」

 スーパーの駐車場に着いた。午前零時まで営業している、本社が県外にあるチェーン店だ。

 健があっけにとられた顔で俺を見る。

「傷つくことに慣れてはいけない」

「なんで? 今まで俺、そうしてきたのに」

「そうすることで君は確実にダメージを負っているんだよ? 今は気づいていないだけなんだ。だから俺と抱きあいたかったのでしょう?」

 健の目は見開かれたままだ。

 俺はスマホをリュックサックから取り出した。

「俺の連絡先を教える。何かあったら連絡して」

「そんな……いいの?」

「放っておけない」

 健がズボンのポケットからスマホを引っ張り出し、ロックを解除する。

 今や誰のスマホにもインストールされている無料通話アプリの名前を健が言った。

「入れてる?」

「入れてるよ」

「それで交換するのはあり?」

「いいよ」

 二次元コードを交互に読み取る。

「ken」、「日野誠司」と表示された。

 聡ともこのアプリを利用していたけれども、彼は亡くなる直前にログアウトしてアプリを削除した。奥さんが、彼が俺に連絡を取っていないかどうか確認しようとしたから、アプリをすべて削除した上で聡は自分のスマホをサイドテーブルの角に叩きつけて壊したのだ。

 健が俺に顔を近づける。小さい子供がお母さんを求めるような表情で言う。

「ごめんね、遅くまでつきあわせちゃって」

「楽しかったよ」

「何かあったらすぐ連絡して」

「うん。君もね」

「これだけは忘れないで。誠司さんは誰も裏切ってなんかいない」

 健――沢渡くんが体を引く。

「さよなら……日野さん」

「さよなら、沢渡くん」

 目に涙をいっぱいに浮かべる彼を背にして助手席から出て、ドアを閉めた。


 肌と肌を合わせたけれど、俺の中に性衝動は生まれなかった。わだかまっていた聡への想いが中和され、昇華しただけだ。

 もう抱きあえない聡の身代わりを俺はずっと探し求めていたのかもしれない。それが、沢渡くん、もとい――健だった。俺の中ではずっと彼は沢渡くんではなく「健」でありつづけるだろう。

 恋でもなく愛でもない。友情ともいえないし同情や共感にもあてはまらない。

 アパートに帰ると日付が変わってから二十五分後だった。余田さんの車が停まっている。もしかしたら遠藤くんに送ってもらったのかもしれない。

 鍵を開けて部屋に入り、給湯設備のスイッチを入れて風呂をためる。歯を磨いている間に浴槽の三分の一くらいまでお湯が満ちた。

 健と重ねた体を洗い、湯船に沈める。

 俺は余田さんを裏切ったのか。

 それなら最初から裏切っている。俺の中にはずっと聡がいたのだから。聡から注がれ俺が学んだ愛が血液と同じようにめぐっていたのだから。

 俺はなぜ、余田さんと暮らしているのだろう。彼の肌に触れていたいと願っているのだろう。

 それに彼はなぜ、聡を愛したままの俺と一緒にいてくれるのだろう。

 浴槽の縁に両腕を乗せ、頭を預ける。

 ドアが開く音がした。余田さんが帰ってくると思い、鍵をかけなかったのだ。

 足音が浴室に近づいてくる。

 死刑を宣告される死刑囚になった、と俺は思ったが、抵抗しないつもりで目を閉じる。

 ドア越しに余田さんの落ち着いた響きの声がした。

「日野さん?」

「……余田さん。おかえり」

「ごめんな、遅くなって」

「俺もさっき帰ってきたところ」

「風呂、入っていいか」

「いいよ」

 もう何もかも彼に話してしまおうか。そうしたら俺は楽になれるのかもしれない。その結果余田さんを失うことになったとしても、それは俺の罪に対する罰なのだ。甘んじて受けなければいけない。

 ――俺のせいにしちゃっていいよ。

 健はきっと、俺を受けとめることはできないだろう。彼にとって俺は重い。重すぎる。

 余田さんの、火傷が彩る締まった体が現れた。その体を目にしたとたん、俺の懊悩はぴたりと止まる。

「どした?」

「――なんでもない」

「遅かったじゃん」

「残業してた」

 余田さんが体を洗い始める。それを見て、俺の体ははっきりと反応した。もと高校球児だった健の敏捷そうな体を見ても変わりなかったのに。

 余田さんが俺の隣に座った。お湯が揺れ、同時に抱き寄せられる。

 健に触れさせなかった唇は自然と、余田さんの唇に吸いつく。

 俺の体は余田さんをほんとうに求めている。聡よりも健よりもずっと。健には申し訳ないけれど、余田さんは俺にはなくてはならない人なのだ。余田さんにとっても俺は、なくてはならない人なのだろうか。そうであってほしいと俺は切に願う。

「どうしたの。積極的だね」

「日野さんが疲れてるみてえだから抱っこした」

「キスもしてますけど」

「また考え事してるみてえだから現実に引き戻した」

「何それ」

 二人で笑う。余田さんの手が俺をおさめる。

「すげえ感じてんじゃん」

 俺も余田さんを手のひらで包む。

「余田さんもね」

「弱ってる日野さん見たら我慢できなくなった」

「余田さん、俺、必要?」

「必要に決まってんだろ。日野さんはどうだか知らねえけど」

「必要だよ」

 ――ごめんね、健。君に冷たくすればよかった。そうすれば君を傷つけずに済んだのに。

「嘘でも喜んじまう」

 余田さんが唇にキスをする。

「嘘じゃないよ」

 俺からも唇を重ねる。

「お酒、飲んでないの」

「生中二杯だけ」

「長かったんだね」

「おう。生方さん、話し足りないみたいだったから、ほぼ全員で二軒目行った」

「女の子がいる店?」

「いや。居酒屋。生方さん、女、好きじゃねえって言ってた」

「え。じゃあ――」

「独身だと。実家でお父さんと猫と暮らしてる」

「男の人が好きなの」

「そこまでは言ってねえ。女とつきあったことねえし、つきあいたいと思ったこともねえんだと」

 生方さんまでそうなのか。世間は狭い。

「余田ちゃん最近明るいけど、幸せなのって聞かれたから、チョー幸せですって答えといた」

 俺は声を出して笑ってしまった。

「よかったね、楽しそうで」

「日野さん、メシ食った?」

「ラーメン食べた。おいしかったよ」

 今度二人で行こうね、とは言えない。

「どこにあるん」

「総務課の同じグループの人たちについていっただけだから、よく覚えてない」

「同じグループって、沢渡もいた?」

 心臓がその問いにわしづかみにされる。

「うん」

「あいつ、最近どう? 素直になったみてえだけど、それ、続いてる?」

「素直だよ」

 心臓はまだ痛む。健を背にかばい、両手を広げて立っているような気分だ。そんな俺は余田さんの、大きな火傷がある胸に抱かれたままでいる。

「なら、よかった。でもあいつも、もう心配ねえかな」

「どうして?」

「この間、日野さんの電話で話したじゃん。その時のようすが、これまでと全然違ったからさ」

 余田さんは、聡の話をしたのかと健の前でつぶやいたことは俺には言わないつもりのようだ。だから俺もふれないでおく。

 聡はもう、俺たちのあいだでは、いないことにしてよいのだ。むしろ、いる必要はもう、ないのだ。

「上がろうぜ」

 俺は言って、余田さんから離れた。


 余田さんが俺の肩に頭を乗せる。

「日野さん、癒されるんだよな」

 俺はほほえんで余田さんを抱く。

「ありがと」

「なんでだろ」

「自分でもわからない」

「日野さん、苦労してきたからな」

 聡と死に別れ、母親は二度離婚している。実の父親は愛しあったドイツ人男性と同棲したまま亡くなった。

「余田さんだってそうじゃん」

 個人で工場を経営していたお父さんは実家と折りあいが悪く、一人悩んで家族を道連れに自宅に放火した。生き残ったのは余田さんだけ。全身に残る火傷の痕がその証拠だ。余田さんのご両親と弟くん二人は皆、帰らぬ人となった。余田さんは母方のおじいちゃんおばあちゃんの戸籍に入って名字が「余田」になった。

「俺の傷は目に見えるけど、日野さんの傷は目に見えねえ」

「うまいこと言うね」

「沢渡もいろんな所にぶつかって生きてきたんだろうな」

 俺のスマホはまだマナーモードだ。着信があったかどうかわからないし、確認していない。

 余田さんが俺の体に腕を回した。

「あいつ、バイなんとかって言ってた。野郎とも女ともヤれるって」

「バイセクシャル?」

「そう、それ。好きイコールセックスなんだろ。それも大変だな」

「どうしてそう思うの」

「あいつ、ほんとに誰かを好きになったことねえだろ」

 俺の呼吸が一瞬止まる。

「どうしてわかるの」

「だって、セックスなんてキャッチボールかパス練習みたいなもんだって言ってたからさ。俺らみてえに、好きだからヤるんじゃなくて、ヤりたいからヤるんだろ。むなしくね?」

 俺を見る、お母さんを求める子供のような目を思い出す。健はその空虚に気づいたのだろうか。

「日野さんのこと、兄ちゃんみてえに見えてるんだろうな」

「そう、なのかも」

「兄ちゃんになってやったら」

「俺、一人っ子だから、兄ちゃんなんてわからない」

「かまってやればいいんだよ」

 余田さんが甘えるように頬をすり寄せる。

 翌朝開いたスマホの画面には、着信はなかった。

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