第5話 この展開、想定外

 日野さんがいきなり俺の肩をつかんで後ろへ引いた。

「余田さん、遠藤くん、何でもないんです。これは俺と彼との問題なんだ。だからもう行って」

 この展開をどう解釈すればいいんだ?

 日野さんが俺をかばってくれてる?

 それ以外の解釈が成り立つか? 成り立つとしたらどうなる?

 余田がズボンのポケットに両手を入れた。

「いや、俺とそいつの問題でしょ。これは俺に売られた喧嘩なんで。日野さんこそ遠藤と戻ってください」

 日野さんが震える声で言いつのる。

「できません。ほんとうに二人には関係ないんです。俺が彼と話をつけるから」

 つまり日野さんは余田と遠藤をかばっている。

 いや、違うな。遠藤は関係ない。

 余田だ。

 余田を巻き込むまいと日野さんは、頑張っているのだ。

 ムカついた。俺は日野さんの手を払い落とす。

「簡単な話だろ。あんたが余田に言えばいいんだよ。一度だけこいつの相手をしてくるって。そしたら余田のとこへ戻ればいいだけだよ」

 突然俺の顔が強制的に九十度回転した。

 余田と遠藤が目を見開いて口を開ける。

 何が起こったのかと考え始めたとたん、左のほっぺたがじんじんと熱を持ち始めた。

 日野さんを見る。

 肩で息をしている。

 肩で息をしながら、右手を下ろす。

 俺はようやく自分を見舞った現象を理解した。

 日野さんは俺を、平手打ちしたのだ。

「沢渡」

 日野さんの綺麗な目が燃えるようだ。

「俺はおまえなんか抱かない」

 その一言で俺は完全にスイッチが入ってしまった。

 許さねえ。こいつ、絶対俺に従わせてやる。

 俺は凶悪な笑顔を作った。

「だよなあ。いつも余田に抱かれてるんだもんなあ。どんなプレイしてんのか知らねえけど、俺と寝れば絶対俺の方が良くなるぜ」

 日野さんが即座に凍りつく。

 ああ、ほんとうにこの綺麗な人は、あんなガラの悪いもと不良とセックスしてるのか。

 俺は絶望する。頭の中は真っ白、目の前は真っ暗だ。

 そこへ足音がした。

 余田が俺をどかして日野さんの前に立つ。

 俺としたことが固まった。

 すげえ威圧感だ。

 余田は日野さんに静かに言う。

「落ち着いてください。早く行ってください」

「でも、余田さん……」

「いいから早く」

 この二人はなんで敬語を使ってるんだ。深い仲のくせに。

「おい、何なんだよ」

 遠藤の情けない声がする。

「余田さん、日野さん、どういうことですか、二人ってどういう関係なんですか」

「遠藤。日野さんと戻れ」

 余田が日野さんを遠藤の方へ押しやる。

 日野さんは今にも泣き出しそうだ。

「余田さん」

 余田は日野さんを見ない。

 遠藤が日野さんを連れて足を早める。

 日野さんは振り返り、もう一度呼んだ。

「余田さん、無理しないで」

 その声は切なくて、聞いている俺まで胸が苦しくなる。

 余田の顔は厳しいままだ。相変わらず威圧感が強い。俺をいきなり呼んだ。

「おい、沢渡」

 俺も負けじとにらみつける。

「余田、何で邪魔すんだよ」

 余田は相変わらず無表情だ。威圧感も消えない。

 俺は焦った。だから怒鳴った。

「俺だって日野さんのことが好きなんだよ! だから俺のこと一度だけ抱いてほしいだけなんだ。何も俺が日野さんを抱くわけじゃねえ。てめえの損にはならねえだろうが」

 余田がふいに尋ねた。

「てめえにとって誰かと寝るってことはどういうことなんだ」

 俺は吹き出した。

「何がおかしい」

「おかしいだろ。誰かと寝るって、どういうこともクソもねえだろうが。キャッチボールかパス練習と変わらねえよ」

 俺は余田をにらむ。

 互いに視線を外さない。

 風が吹いて、木の葉が鳴った。

「話にならねえ」

 余田がつぶやいた。

 俺は余田の両目を見てゾッとした。

 冷たい。

 こんなに冷たい目で見られたことなんて初めてだ。

 脚が震える。

 情けないが脚の震えが止まらない。

 両目と同じくらい冷たい声で余田は言った。

「日野さんは、てめえなんか抱かないって言っただろ。てめえはもう、日野さんから手を引くしかねえんだよ」

「なんでだよ」

 また生暖かいものが目から垂れやがる。

「好きなんだよ。初めてこんなに好きになったんだよ」

 言いながら嗚咽する。

 情けねえ。

 カッコわりい。

 なんでこんな姿、余田なんかの前でさらさなきゃならないんだよ。

「だから抱きあいたいだけなのに、なんでてめえは邪魔すんだよ」

「甘えてんじゃねえ!」

 雷が落ちたのかと思った。

 余田は完全に怒って目がぎらついてる。

 おあいにくさまだが、俺は部活でしょっちゅう怒鳴られてた。だから怖いと感じない。

 対処法は心得ている。直立不動で真顔をキープすればいいだけだ。相手は気が済むまで怒鳴れば勝手に通常運転に戻ってくれる。

 ところが余田はすぐに無表情に戻った。

 そして、言った。

「てめえはてめえしか好きじゃねえんだろ」

 その言葉は俺の心臓を刺し、背中へと突き抜けた。

 余田は背を向けて歩き出した。

 昼休みが終わることを知らせる音楽が流れる。

 俺も職場に戻った。

 余田の一言が脳内に充満している。

 日野さんはちらっと俺を見ただけで、すぐにノートパソコンに接続したマウスを操作する。

 学生の時なら、メンタルが落ちてる時はサボればよかった。けど、社会人になった今は、そうするわけには行かない。

 俺もマウスに右手を乗せ、作成途中のファイルを選択し、画面に表示させた。


 自宅に帰り、夕飯も風呂も適当に済ませて部屋にこもる。

 俺の部屋は弟と共用だ。弟と一緒に、部屋に仕切りを入れてくれと両親に再三懇願したのだが、いまだ実現していない。

 ベッドに寝転がる。

 疲れた。何も考えられない。エロ動画を見て自慰する気にもならない。

 一日に数回眺めている、男女両方を恋愛対象とする人向けのマッチングアプリをスマホで見る。スクロールするが、何の興味もわかない。だからログアウトし、アプリを削除した。

 結局、俺は日野さんと、連絡先すら交換できていない。

 日野さんに平手打ちされた。

 日野さんと余田の詳しい関係すら俺には謎のままだ。

 俺が何したって言うんだよ。

 日野さん、今頃何してるんだろう。

 余田とベッドにいるんだろうか。余田の首に腕を巻きつけて、色っぽく笑う日野さんが脳内にフルカラーで浮かぶ。

 また目が涙でかすむ。

 今日は日記も書けそうにない。頭の中が散らかっていて、文字が脳内に存在しない。

 俺はスマホを充電コードにつなげ、布団をかぶった。


 それからというもの、俺は日野さんに話しかけるのをやめた。

 席が隣だし、関わる仕事が同じなので、挨拶とか仕事上の会話ならする。けど、前みたいにメシを一緒に社食で食べるとかはしなくなった。

 昼休みは、出勤途中にコンビニエンスストアに寄って購入した弁当を食って、小説投稿サイトをスマホで開いてそこに投稿された小説を読むことにした。

 ――俺も、ここ最近の出来事を、小説にでもして投稿するかな。

 ちょうどスマホで日記を書いていることだし、実名さえ出さなければ問題ないだろう。

 まったく、事実は小説より奇なり、だ。

 好きになった人は去年配偶者のいる同性の恋人を亡くしており、現在も同性の恋人と交際中だなんて、誰も思いつかないプロットだろう。

 俺のように男女両方に性衝動を覚える人間をバイセクシャルという。異性とも交際できるので、本来の性指向に気づかれにくい。

 俺がこれまで歩んできた人生は、十分に小説のネタになる。

 そこに日野さんと余田のエピソードを入れれば、立派な小説に早変わりだ。

 俺の前でお互いをかばいあっていた日野さんと余田。

 不自然な敬語で意志疎通をしていた日野さんと余田。

 余田を心配する日野さんが発した切ない叫び声。

 ――重い。

 俺はミネラルウォーターが半分残っていたペットボトルの蓋を開け、全部一気に飲み干した。

 あの二人のこれまでを詳しく知らないが、あいつらの関係を許容することは、今の俺には生理的に不可能だ。

 そして日野さんと俺がセックスする場面を想像してみる。

 ダメだ、まったく浮かんでこない。攻守交代してみた。それでも脳内のスクリーンには何も映らない。

 俺はスマホをリュックサックにしまい、ため息を一つつく。

 視点を変える。

 俺が余田だと仮定する。

 余田と同じことを日野さんにしてあげられるか。

 ――無理だ。

 俺はそこまで他人の人生に踏み込んだことなんかない。

 昼休みが終わるまであと十五分ある。俺は食べ終わった弁当のパックをプラスチックごみ用ダストボックスに、空になったペットボトルをペットボトル用ダストボックスに放り込んだ。そして自席に戻ると、仕事を再開した。

 仕事ははかどった。今日は「ノー残業デー」なので残業ができない。だから午後五時でみんな退勤する。

 俺は日野さんに目を向けずに声をかける。

「お疲れ様です」

 日野さんも俺を見ずに応じる。

「お疲れ様」

 日野さんと俺は同時にリュックサックを背負って出入り口から出る。

 なんとそこには余田と遠藤がいた。

 こいつら、午後四時五十分くらいに仕事が終わったってことか?

 遠藤がいきなり当たり屋みたいに総務課の社員の波にダイブしてきやがった。

「日野さん」

「遠藤くん」

 日野さん待ちだったのかよ。

 一体、何の用だ。

 面白くねえ。俺は遠藤と日野さんの間に割り込んだ。

「どけ。邪魔」

「あんだと?」

 遠藤がガンを飛ばすが、怖くもなんともない。

 日野さんが遠藤の肩に軽く手を添えて余田の隣に移る。

 余田は壁に背中を預けて、ズボンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。相変わらず、黙っていると威圧感が半端ない。

 俺もズボンのポケットに両手を入れ、余田に体を向けた。

 余田が俺を見下ろす。

「何でいるんだよ」

「遠藤についてきただけだ」

 横目で日野さんと遠藤の様子をうかがう。二人とも顔がこわばっている。遠藤なんか握りこぶしを作ってやがる。臨戦態勢じゃないか。

 言うことだけ言ったら離脱しよう。

「あれからいろいろ考えたよ。日野さんはてめえにくれてやる」

「いつから日野さんはてめえの物になったんだよ、日野さんは誰の物でもねえ」

「てめえらは俺には理解できねえ」

「わかってもらおうなんて思ってねえよ」

「もうてめえらには絡まねえ」

 俺は人の波に向かって歩き出した。

「沢渡くん」

 日野さんが呼ぶ。

 俺は顔を半分だけ動かした。

 日野さんが心配そうに俺を見ている。

 ――なんでそんな目で見るんだよ。

 胸がちりちりと痛む。

 余田と遠藤の手前、不機嫌そうな顔を作る。愛想よくすれば奴ら、また俺に敵意をいだきかねないからな。

「何ですか。急ぐんですけど」

 数秒おいて、困り顔のまま日野さんが言った。

「また、明日」

 ――何なんだよ。

 俺に話しかけるなよ。余田と遠藤が嫉妬するだろ。こいつら面倒くさいんだから。

 俺はあんたをあきらめようとしてるんだよ。そんな目で見られたら、またあんたのこと、気にしちまうだろ。また好きになっちまうだろ。

 声の温度を最大限下げて答える。

「お先に失礼します」

 振り返らずに人の波に割り込み、なかば走るようにして、俺は社屋から脱出した。

 ――何がしたいんだ、あの人は。

 結局その晩も何一つ思考はまとまらず、一文字も文章作成アプリに入力する気力も起きず、俺は布団をかぶって寝ることにした。


 翌日の昼休み、日野さんは俺と同じように自席で弁当を広げた。

 俺のは買い弁だけど、彼のは手作りした物だ。

 中身をチラ見する。結構真面目に作ってある。

 食い終わってから俺がスマホで小説を読み出すと、日野さんもリュックサックから文庫本を出して読み始めた。

 何、読んでるんだろう。聞いてみようかな。

「何、読んでるんですか」

「三国志」

「歴史じゃないですか。俺、高校で世界史選択してたんですよね。中国史は苦手でしたけど」

「そうなの? 俺は好きだよ。大学で中国史を専攻してたくらい」

「すげえ。俺、漢字が並んでるともう目が拒否するんですよね」

「俺はカタカナが不得意だったな。ルイとかチャールズとか何人も出てくるでしょ? 誰が何をしたのか覚えるのに苦労したな」

「わかります。俺は英米文学専攻でしたけど、文学って歴史も絡むところあるんで、苦手だったけど頑張って理解しました」

「沢渡くんは何を見ているの」

「小説です。小説投稿サイトの」

「見せて」

 日野さんの整った顔が近づいた。俺の心臓が跳ね上がる。

「これ、アニメ化されてない?」

「されました。来年、二期の製作が決定してます」

「見たの?」

「一度見て、やめました。声優がイメージと違ったんで」

「そういうの、あるよね」

 日野さんが笑う。優しくて、あったかい。

 ――よせよ。

 俺は顔をそむける。

 今、俺は、必死であんたをあきらめようとしてるんだよ。そんなに優しくするなよ。

「ねえ、沢渡くん」

「何ですか」

「俺もね、考えたんだ」

「何をですか」

「前に、君のことをたくさん話してくれたでしょう? だから俺の過去も聞いてもらいたいんだ。俺を理解してもらうために」

 どういうことだ。

 日野さんの過去だって?

 あの、妻がいる男と愛しあっていたって話か?

 余田とのなれそめか?

 日野さんの笑顔は相変わらず優しい。

「今日、予定ある?」

「いえ、ありません」

「じゃあ、ごはんを一緒に食べない?」

 ――まずいだろ。

 俺は声のボリュームを下げる。

「余田さん、心配すると思いますけど」

「許可は得てるから大丈夫」

 俺は壁時計を見上げた。午後一時。昼休みは終わりだ。

 日野さんも小さな声で言う。

「じゃあ、定時で上がろ」

「……はい」

 この展開、結末はどうなる。

 完全に想定外だ。

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