第2話 仲良くなりたいんです

 恋愛において押さえておくポイントはただ一つ、「自信をもつこと」であると俺は思う。

 今日は土曜日だ。

 日記をスマホの文章作成アプリに打ちながら、俺は女の子を待っている。

 彼女とはマッチングアプリで出会った。このアプリは、男女両方と交際できる人間向けに出会いの場を提供している。

 ここはチェーンのコーヒー店だ。冷たいカフェモカの紙コップがテーブルの上で汗をかき始めた。

 日野さんのことは気になるが、がっついてもよくない。だから落ち着くために今日は女の子と遊ぶことにした。

 モテない男女に共通している点は二つあると俺は考える。

 第一は、目の前に現れた相手が自分にとって最後の相手だと思い込んでしまうことだ。

 第二は、相手がいなくなれば、もはや自分を愛する、いや、違うな、自分の価値を認めてくれる人間は二度と現れないと勘違いしてしまうことだ。

 だから相手が自分にとって肌の合わない人間であっても従ってしまう。

 これらを克服するための方策としては、自信をもつ以外にないと俺は思う。

 俺が言う「自信」とは、猛勉強して定期テストで満点を取るとか、猛練習してスリーポイントシュートを入れられるようになるとか、血眼になって情報をかき集めて美人に見せるメイクをできるようになることなどによって身につくものではない。

 俺みたいに、自分は何があっても絶対に大丈夫だと、根拠もなく信じきることなのだ。

 でも、例外はある。

 高二の時、不登校を克服するまでの一か月間はさすがの俺も自信を失っていた。

 登校できるようになった日にまず俺がしたことは、部活の顧問に退部を願い出たことだった。

 俺は高校では部活をやらないつもりだった。しかし一年生の時の体育の教科担任だったこの顧問に誘われて入部することになったんだ。

 入部したのだって、顧問の熱意に打たれたからではなく、部活をやらないでいると体はどんどんゆるんでいく。

「これじゃ女の子にモテないぞ」

 と、危機感を抱いたからにすぎない。

 不登校だった一か月間、クラス担任の若い女もこの顧問も俺のスマホに毎日電話してきやがった。あんたたちに電話されたくねえから学校に来たんだよ。俺に電話するのなんて、あんたたちがきちんと俺を指導してますっつうアリバイ作りにすぎないだろ。わかってるんだよ。

「もう競技に興味を失ったんです」

 とか、

「一か月も欠席していて勉強が遅れたので、勉強に専念したいんです」

 なんて答えようものならこいつは絶対に俺を説得しにかかるから、仕方なく不登校前にこっそりつきあっていて今は別れた先輩の名前を出した。

「市村先輩からずっと嫌がらせされてて、それで学校に来れなかったんです。あの先輩に会うと思うと、もう部活に戻れません」

 ほんとは嫌がらせなんかされてない。むしろ楽しませてもらった。その話はまたあとで。

 けど、そういうことにしとかないと顧問は俺を引き止めるためにとつとつと語り始める。こいつの話は無駄に長い。

 部内の上級生と下級生との人間関係のトラブルに話をすり替えてしまえば、顧問の関心は加害者である先輩に向かう。被害者である俺を守るため、部活への参加を積極的に促せなくなる。だから顧問は俺を引き止めない。俺はそう踏んだ。

 まあ、先輩と関係を改善しろなんて抜かせば、先輩にされたことを全部ぶっちゃける。俺が被害者だっていうストーリーにすれば、先輩が俺にしたことは完全な「いじめ」になるからだ。ほんとは違うんだけど。

 体育教官室は西日がきつい。太陽の最後のあがきであるかのような光に、顧問はいかつい顔をしかめた。

「市村ならやめたよ」

 初耳だった。

 別れを告げられて以来、連絡を取っていなかったから。

「やめたって、どういうことですか」

 おい、そしたら俺、部活に出ろって言われるじゃないか。先輩がいないんだから出られるだろってことになるじゃないか。

 顧問は眉間を指の第二関節でぐりぐりともみほぐした。

「さっき、おまえ、あいつに嫌がらせされてたって言ったろ。実はな、あいつ、部内で、おまえ以外の下級生にも、嫌がらせしてたんだよ」

「嫌がらせって、どんな」

「おまえもされてたじゃないか。なんで聞くんだ」

「や、その、俺がされてたことと同じかどうか、わからなかったんで」

 顧問は腕組みをする。この人は身長が一七〇センチに満たないくせにガチムチだ。腕組みをしたせいで雄っぱいが目立つ。俺はそそられないけど。

「セクハラだ」

 やっぱりそうか。先輩はそうだったのか。まあ俺は楽しかったけど。

「だから、俺としても、やめさせざるを得なかった。市村には特別指導を受けさせ、連盟にも報告した。おかげで夏の大会は辞退したよ。部員も減った」

 連盟とは高野連、日本高等学校野球連盟のことだ。

 俺の退部は、すんなりと認められた。

「草野球でもいいから、野球は続けろよ。おまえ、いい選手なんだから」

 別れ際に言われた言葉は今も覚えているが、俺は退部したあと一度も白球をさわっていない。高校野球はおろかプロ野球のニュースすら見ない。まして海を渡ってメジャーリーグで活躍する日本人選手の話題にも、何も感じない。

 部活という拘束がなくなって以来、帰りのショートホームルームでクラス担任の長い小言が終わるや否や俺は教室からダッシュで離脱する。それからは親に頼んで予備校に通わせてもらい、着々と大学受験の準備を進めた。おかげで一般入試を現役で突破し、第一希望の私立大学に合格できたのだ。


 俺の黒歴史を書いてしまった。しかしこれがすべてではない。残りはいずれ書こうと思う。

 女の子が現れた。俺と同い年くらいに見えるけど、年下かもしれない。

 Dカップくらいかな。カップつきキャミソールの上からパーカーを羽織って、デニムのショートパンツを履いてる。むちむちの太ももがむき出しだ。足元はスポーツブランドのスニーカーだ。

 顔は正直気にしない。俺がイケメンだから。

 俺の運転でラブホに行った。

 女の子は柔らかい。そして、かわいい。

 俺も彼女も、会話なんてしない。触れあってること自体が立派な会話だから。

 最中だけど、俺は日野さんを思い出す。

 ユニホームの半袖からのぞく腕はしっかり筋肉がついている。毎日家で筋トレしてるのかもしれない。

 俺としたことが、日野さんに見とれてばかりいる。こいつを落とすと思うと、俺は妙に冷静になって、相手にかける言葉とか反応について脳内で綿密なシナリオを作るのだが、日野さんの前ではまったくできない。

 俺が見とれていると、日野さんが軽く眉間を寄せて心配する。

「どうしたの」

「あっ、いえ、何でもないです」

 日野さんに仕事の説明をする。今にも俺たちの肩と肩は触れそうだ。ぎりぎり我慢してるけど、ほんとはもっとくっつきたい。

 昼休み、俺は日野さんを社員食堂に誘った。なんとすんなりOKしてくれた。

 おい、俺、がっつきすぎてるぞ。落ち着け。

 うちの会社の社食では、「本日の定食」が四百円だ。けっこうな量を食べられる。男の俺でも腹いっぱいになるのに、女の子たちもきれいに完食する。要するにそれくらいおいしいのだ。

 日野さんとそれを向かい合って食べる。

 日野さんは食べ方も綺麗だ。

 食べることとセックスは同じことだと俺は思っている。ということは、日野さん、ベッドの上でも綺麗なんだろうなあ。

「陣内さんと同期だって伺ってますけど」

「そうだよ」

 俺は食べ終わり、箸を置く。

「陣内さんとは、親しかったんですか」

「うん」

 言葉少なだな。よし、探りを入れてみるか。

「陣内さんて、同性と、距離が近くありません?」

「そんな風には感じなかったけど」

 伏し目がちになってる。ああ、綺麗だ。

「俺、陣内さんに仕事教わってたんですけど、なんか距離が近くて。顔とか今にも密着しそうなことありました。だから同期の方にもそうだったのかなって気になって」

 俺は思いきって言った。

「陣内さんて、俺のせいでやめたんですかね」

「どういうこと? そんなことはないと思うけど」

「俺、上司に相談したんです」

 日野さんが俺を見る。

 俺も日野さんを真正面から見る。

「何を相談したの」

 俺は声を落とす。

「陣内さん、距離が近いって。俺、気持ち悪いですって」

「――そしたら?」

「上司が陣内さんから事情を聴いてました。そのあとすぐ、やめたんです」

 日野さんが心持ち、青ざめる。

 俺は薄ら笑いを浮かべた。

「タイプじゃなかったんですよね、あの人。タイプだったら黙っててあげたのにな」

 日野さん、動揺してる。

 これをきっかけに、日野さんから本音を引き出そう。

 もっと知りたいんだ、日野さんを。

「陣内さんとはただの同期だったんですか」

「そうだけど」

「何もされていませんか?」

「されてない」

 綺麗な目が揺れている。

 ああ、たまんねえ。

「それなら安心しました。あの人、気持ち悪くありません? 日野さんにまで同じことしてたらと心配だったんですよね」

 それはそうと、と、俺はわざと明るい口調で言った。

「日野さんて、今、フリーですか」

 日野さんの唇が震える。

 俺はたたみかけた。

「おつきあいされてる方、いるんですか」

 答えない。俺をにらんでいる。

 あくまでも笑顔で俺は続ける。

「日野さんともっと仲良くなりたいんです。先輩と後輩としてだけではなくね。俺、女だけじゃなくて、男とも大丈夫なんで」

「こんな所で話すことじゃないでしょ」

 日野さんが低い声でびしりと言った。

 厳しい言い方も素敵だ。

「俺、何かおかしなこと言いました? 古今東西、同性愛はあったじゃないですか。今でも同性愛を違法とする国もありますけど、少なくともこの国では違法じゃない。偏見はあるかもしれないけどね。でも、おかしなことじゃないでしょ? 人が人を好きになる、ただそれだけのことでしょ。別に隠さなくてもいいし、当人同士がよければそれでいいと俺は思いますけどね」

 俺が言い終わらないうちに日野さんが鋭い声でさえぎった。

「俺は君にまったく好意を持ってないから」

 お、本音をおっしゃったぞ。

「やっぱりつきあってる人、いるんですね」

 日野さんがテーブルに置いた手をぐっと握りしめる。

 俺は頬杖をつき、口角を引き上げる。

「性別は聞かないですけど」

「君は俺に何がしたいの」

「さっきも言ったでしょ。仲良くなりたいんですよ。そのために日野さんのこと、もっと知りたいんです」

 日野さんが立ち上がった。

「出ようか。混んで来たし」

 おっと、動揺してるのかもしれないな。よし、ここはいったん話を切り上げよう。これ以上攻めたら嫌われちゃうからね。

「そうですね、出ましょうか」

 食器置き場にお盆を戻し、社食を出た。昼休みはまだ十五分残ってる。

 廊下で日野さんに声をかける奴がいた。

「あれっ、日野さん!」

 誰だよ。

 見ると、俺と同じくらいの身長、同じくらいの年頃の男がにこにこ笑っている。

 俺は日野さんとの間に、知り合いと思われない程度の距離を取った。この男に日野さんとの関係を勘ぐられたくない。

 俺とほぼ同じ身長の奴と日野さんはきわめて友好的に会話している。

「遠藤くん、久しぶり」

「久しぶりですねー! 総務に異動になったって聞きましたぁ」

「そうなんだ。物流の皆さんは元気にしてる?」

「ハイ、もう、元気ですぅ」

 遠藤の口ぶりからすると、日野さんと遠藤は、どうやら仕事上だけではないつきあいがあるみたいだ。友人に限りなく近い間柄と見える。

 日野さんが心配そうに聞いた。

「余田さんは一緒じゃないの?」

 誰だ、余田って。

 遠藤が答える。

「午後に配送する会社が遠くなんで、もう出ました」

 日野さんがふわりと笑う。

 尊いそのスマイルに俺は魅せられる。

 遠藤がまた聞いた。

「日野さん、今でも居合、続けてるんですか」

 居合やってんのか。すげえ。

「もうやめた。道場は東京だし、通うのも大変だからね。遠藤くんは弓道、続けているの」

「最近は月一くらいかなあ」

「彼女さんとのデートが忙しい?」

 こいつ、彼女がいるのか。見た目によらないな。

「まあ、そうっすねー」

「大事にしてるみたいだね」

「ぐへへ」

 キモい笑い方するなよ。

「またね、遠藤くん」

「はい。じゃ、また!」

 職場に戻りながら俺は日野さんに聞く。

「誰なんですか」

「物流の後輩だよ」

 俺は日野さんに体を寄せ、小さな声で尋ねる。

「余田さんは一緒じゃないのって聞いてましたよね。その方もお知り合いなんですか。そこにいなければ尋ねるくらいの」

 日野さんがまたにらんだ。怖い。けど、カッコいい。

 今日はこのくらいにしておこうか。


 そこまで思い出した頃には、俺たちは事を終えていた。

 日野さんにがっつかないためのガス抜きだ。けどあの昼休みは、けっこう攻めちゃったな。反省しよう。

 そして俺と彼女も一晩限り。メシを食ってさっぱりと別れる。

 余田って奴、今度、見てみたいな。

 日野さんにとっては、ただの知り合いじゃないんだろうからな。

 好きな人がいるっていうだけで、職場に行くのが楽しくなる。

 来週の月曜日が楽しみだ。

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