総務課の沢渡くん
亜咲加奈
第一部 沢渡くんの日記
第1話 必ずあなたをゲットする
自分で言うのもなんだけど、俺はかわいい。そしてイケメンだ。体つきだってバランスがとれてる。
これまでゲットしようとしてできなかった相手は、男女問わず、いない。
そんな俺に運命の出会いが待っているだなんて、この時の俺は知るよしもなかった。
アンネ・フランクは自分の日記を、「キティ」という架空の友人にあてる形で書いていた。
彼女にならうならば、俺も架空の友人にあてて書くことになる。
でも、そのやり方は俺には合わないな。
だから今の俺そのまま、「総務課の沢渡くん」として書くことにしよう。
「総務課」とつけたのは、ただ単に全体の語呂がいいからに過ぎない。
つまりこれは『アンネの日記』ならぬ『沢渡健の日記』というわけだ。
アンネはナチスの強制収容所で病死した。収容された理由は彼女がユダヤ人だから。しかも彼女とその家族をナチスに密告したのは、彼女たちと同じユダヤ人だったと、海外メディアの報道から俺は知った。
俺はちょっとだけアンネに親近感がわいた。俺も密告されたのではないけど、誰にも言わないでほしかった情報を拡散されたことがあるからだ。高校二年生の夏、期末テスト前だった。そのせいで俺は学校に行けなくなった。登校再開するまで一か月かかったよ。その上、当時つきあっていた人とも別れる羽目になった。その人とはまあ、楽しむだけ楽しんだからもういいんだけど。詳しくはあとで書くが、とっておきの黒歴史だ。トイレットペーパーみたいにくしゃくしゃに丸めて和式の水洗便所に流してしまいたい。もちろん流すレバーは足で踏んづけるやつ限定で。
だけどここは八十年前のヨーロッパじゃない。とりあえず平和でのんきな令和の日本だ。
だけど、いつの時代にもアンネみたいな思いをしている奴らはいる。ナチスによく似たことを言ったりやったりする連中もいる。まるで強制収容所じゃねえかって言いたくなるような場所だって結構ある。つまり人間がやりそうなことや考えることなんて、いつでもどこでもそんなに変わりない。俺はそう考える。
大学を卒業してすぐ、俺は地元で歴史と定評のある製造業に就職した。専攻は英米文学だったから配属先は開発部門と製造部門以外の全てになる。総務課を希望したら、ほんとにそうなった。希望どおり総務課に配属されたのは同期の中では俺の他にあと二人だけで、見事に三人別々のグループに散った。まあ、そいつらとはそこまで親しくしてないから別に何の感慨もない。
なんで英米文学なのかって?
教科の中で一番成績が良かったのが英語だったのと、海外の文学作品をよく読んでいたからだ。もちろん日本語に翻訳したものをだけど。原語で読んだのはあとにも先にも卒論を書く時だけだ。
俺の勤め先が同業他社に合併されそうだという情報は、就活の時にはすでにつかんでいた。それでも合併先が超安定企業なので、そのまま受けた。志望動機は「得意な英語を生かして海外のお客様との関係をより深め、御社のさらなる発展に貢献したいからです」とか言ったっけ。そしたら内定をもらった。実際に合併したのは俺が就職したあとだったけど、今のところ給料も減ってないし、人員削減も行われていない。まあ、生産拠点が徐々に合併先に吸収されているから、合併先の製品が増えたけど、うちの生産量は減っている。物流部門も来年一月には子会社になり、他社の製品も運ぶことになる。
その物流部門の配車計画を作ってきた人が、八月一日付けで総務課に異動してきた。
なぜその人が異動してきたのかというと、こちらで退職者が一人出たからだ。
その人が退職するきっかけの一つを作ったのは、実は、俺なんだけどね。
そして、配車計画を作ってきた人に俺は、強い関心をもった。
この日記の第一回目だし、そのことを書こうか。
黒歴史はいつ書くのかって?
まあ、そう焦るなよ。
書くよ。
そのうち、な。
退職したのは、俺の先輩だ。名字は確か陣内っていったな。
下の名前については興味がないので知ろうとも思わなかった。
だいいち、生理的に無理だったし。
彼の恋愛対象は男性なのじゃないか。会った瞬間から俺はそう感じていた。
俺は家族以外の誰かに会うと、そいつとセックスしたいかどうかをまず考える。これは俺の癖だ。
そいつとベッドにいる俺を、俺は想像できなかった。だから完全に彼はアウトだ。
けどそいつにとって、俺は守備範囲内だったみたいだ。そいつの俺を見る目は気持ち悪かった。当時、俺のすぐ脇に便器があったら、迷わず便器にしがみついてゲロ吐いてたと思う。
でも耐えたよ。新人だから。相手は先輩だから。
そいつが会社の人間でさえなかったら、俺は白い目で見ながら冷ややかに言ってるね。
「キモい目で見るの、やめてくれません? 今、自分がどんな顔してるか、鏡で見た方がいいと思いますけど。鏡、持ってきましょうか?」
誤解のないようにつけ加えると、そいつは一八〇センチの爽やかかつ人畜無害なイケメンだ。その上、体型は逆三角形で、腹なんてぜい肉なんかなさそうに見える。
そいつはいつも、一六六センチの俺の背後から覆いかぶさるようにしてた。ほっぺたとほっぺたが密着するくらい寄って、ノートパソコンの画面を一緒にのぞいてた。
それでも我慢したよ。何度も言うけど、俺は今年度入社したばかりの新人で、相手は先輩だから。
我慢の毎日が続いた。月曜、火曜、水曜、木曜、金曜と、我慢が積み上がっていき、土曜日には三十八度の熱が出た。
俺が拒否しないで黙ってるもんだから、そいつは俺の腕まで数ミリのところに座ってる。相変わらずほっぺたも貼りつきそうだ。
何か言ってる。気持ち悪いから聞きたくない。だから今でも何て言われたか思い出せない。
何なんだよ、これ。
何かの罰ゲームか?
俺、また不登校になっちゃうよ。あ、今は会社員だから、出社拒否って言えばいいんだろうか。
毎日眠れない。俺が住む県は電車やバスなどの本数が少ないため、家族の一人一人が自家用車をもつ。だから通勤時は居眠り運転しないかめっちゃ気をつかいながら運転し、それが原因でまた疲れる。
その上職場ではそいつと仕事する。
毎食ごはん大盛り食ってたのに、今はごはん茶碗半分食べるのがやっとだ。配属されてから二か月で四キロやせた。
俺は実家から車で一時間かけて通勤している。母親が死にそうな顔と声で俺に聞く。
「あんた、どうしたの。高二の時みたいじゃない。あんたがまた学校じゃなかった会社に行かないなんてことになったら」
母親の脳内では、俺が学校に行けなかった一か月間が、つい昨日起きた出来事のようにフルカラーで再生されているらしい。
言えないだろ。会社の先輩社員が俺に寄りすぎててキモいなんて。
俺は母親に、いつもと同じ表情と口調で、スマホの音楽配信サービスの画面を見せた。
「俺、マジ、死にそう。葬式では、ここにある曲、流してくれない」
今から五、六十年前に活躍したイギリスの有名ロックバンドの曲のメドレーだ。
もちろん最近の海外アーティストの曲も聞いてるけど、自分の葬式で流すとしたら絶対このロックバンドの曲にする。何回聞いても飽きないし、すべてが完璧だと感じるし、何より耳に心地いいからだ。
「もうっ、あんたはっ。何があったのっ」
母親が目に涙をためて俺の肩をひっぱたく。この人は、自分が理解できないことに直面すると、いつも泣くんだ。泣いて、俺や弟に八つ当たりする。理解できないのは、あんたが悪いんでしょ。あんたが俺を理解しようとしないのが悪いんでしょ。そんなことにも自分で気づけないの?
大学三年生の弟がその時たまたまアルバイトから帰ってきた。居間にいる俺と母親から二メートル離れた廊下に立って、俺と母親の話を聞いていたらしい。
弟は、俺に聞いた。
「兄貴さ、会社のことで悩んでるの」
「当たり」
「俺らには言えないこと?」
「先輩だよ」
「パワハラみたいな?」
「うん」
まあ、俺にとって、あれは立派なパワハラだ。しかも俺が観察するに、相手には悪気はないみたいなので、始末に負えない。
弟はあっさりと言った。
「なら、会社の上の人に相談すればいいんじゃね?」
おお。こいつ、たまには役に立つじゃねえか。
確かにそうした方がいい。
翌朝、俺は意を決して上司に声をかけた。
「内密にご相談したいことがあるのですが」
会議室に通された。
上司と俺の二人きりだ。
上司を見ながら俺はいつものように、この人とセックスしたいかどうかを考える。五十歳代くらい、髪はまだ量があり、白髪も少ない。身長は俺と同じ一六〇センチ台だろう。脱いだらわからないが、会社のユニホームの上から見る限りでは太ってはいない。
うーん、遠慮したいなあ。
「陣内さんなんですけど、距離が近いんですよね。密着されそうで」
「ああ、俺もね、妙だなっと思って見てたよ」
見てたんかい。見てたんなら止めてくれよ。俺はあの先輩のせいでメシも食えずに体重が四キロ落ちて、毎日眠れないで運転にも一苦労してるんだからさ。
脳内で目の前の上司の頭を思い切りひっぱたいてから、俺はしおらしく続ける。
「やっぱり、そうですよね。私、気持ち悪くてたまらないんですよ。陣内さんが私を見る目も普通じゃないって感じるんですよね」
もう、言ってもいいよな。言おう。
「陣内さん、そっちの『気』があるんじゃないかって思うんですよ。だから、こんなこと言うのは偏見なのかもしれないけど、そういう目で見られてる気がしてならないんですよね」
俺も他人のことは言えない。
なぜなら、俺は小学六年生の時から家族以外の人間を男女問わず、こいつとエッチなことしたらどうなるんだろう、って考えているのだから。
こいつ、脱がせたら、どんな体つきしてるんだろう。さわったら、どんなだろう。そんなことを考えるのが大好きで仕方ない。
こうして考えてしまうことは、母親にはもちろん、父親や弟にも言ってない。
言えないに決まってるだろ。言ったらどういう風に思われるか目に見えてる。
しかも俺は、女にも男にも、同様に性欲を覚えるのだ。そして、そいつらとまるでキャッチボールかパス練習をするみたいに寝てきた。しつこくされると俺の方からあいまいな態度でフェードアウトする。その繰り返しだった。
相手をストーカーするなんて、カッコ悪いからしたことない。そこまで病んでないし。
そんなことを考えていると、上司が言った。
「いや、言いたいことはまあ、わからないでもないよ」
上司が俺の話をノートにメモする。
「君は、配属時よりもずいぶんやせたようだけど、やっぱり陣内くんのせい?」
「はい。先輩のせいで食欲も落ちました。その上、眠れません」
「病院には行ってみた?」
「いえ、まだです」
あの先輩と会わなければ治る気がする。
「じゃあ早めに行ってもらって、診断が出たら診断書出してもらって。万が一、何かあった際には使えるから。とにかく、明日から陣内くんを君から離すよ。このあと彼を呼んで話を聞く」
「私の名前を出さないでもらえますか」
「もちろん出さない。あくまでも俺が感じたこととして話すよ。ちょっと距離が近すぎやしない? そんなにくっつく必要ある? 相手の状態、見えてる? って」
意外と使えるじゃねえか、この人。
「今日はもう帰りなさい。ちょうど他の部署に届けてほしい書類があるんで、それを届けたら上がっちゃって」
二人で会議室から出た。上司は俺に社内便の封筒を十ばかり預ける。封筒には届け先を書いた表がのりづけしてある。確かにこれを全部届ければ、五時までかかる量だ。
俺と入れ替わりに陣内が上司と会議室に入る。
総務課の出入り口を出たとたん、俺は息を吹き返した。
翌朝出社すると、陣内の姿が見えなかった。机の上には貸与されていたノートパソコンと付属のマウスしかない。
上司に呼ばれてまた二人で会議室に入る。
「陣内くんね、退職するって」
「えっ」
俺としてはありがたい限りだが、それにしても急すぎないか?
「彼ね、今年の三月に奥さんのお父さんが亡くなったんだよ。そのお父さんが税理士事務所を開いてて、奥さんのお兄さんが継いだんだけど、そこを手伝いたいって。さっき辞表を持ってきた。そのあとは有休消化期間に入るから、君と顔を合わせることはないと思うよ」
それは表向きの理由だろう。
「ずいぶん顔色がよくなったね」
俺は上司に笑顔を見せた。
「ええ。よかったです」
「また、困ったことがあれば言ってね」
「はい、ありがとうございました」
あいつが消えた。
帰りの車の中、大好きなあのイギリスの有名ロックバンドのメドレーをスマホから流しながら一緒に歌う。もちろん英語で。
「やったあああ!」
曲と曲の間に叫ぶ。
「これで自由だぜえ!」
俺の食欲は戻り、朝まで眠れるようになった。体重もいつもの五十五キロに戻った。
八月一日、彼は総務課の職場に現れた。
俺たちの前で上司が彼を紹介する。
「今日付けで赴任した日野誠司さんです」
俺の目は日野誠司さんにくぎづけだ。
なんて綺麗な男なんだろう。二十五、六歳くらいだな。身長は一七五センチってとこか。髪型も顔だちも整っていて、体つきも引き締まっている。彼が着ると会社の野暮ったいユニホームさえカッコよく見えてしまう。
きわめつけは彼の声だった。
「はじめまして。生産管理部より参りました、日野誠司と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
キリッとしているのに、優しい。
俺の心臓がフル稼働し始める。
この人に、近づきたい。
体の奥の方からそう思った。
すると上司と日野さんが、俺の目の前に来たじゃないか!
あわてて背筋を伸ばす。
俺、赤くなってないよな?
にやけたり、してないよな?
ああ、日野さんになら俺、密着されてもかまいません。むしろ、ウェルカム、熱烈歓迎!
上司が言った。
「日野くん、こちら、沢渡くん。陣内くんと組んで仕事してたんだ。日野くんには陣内くんの業務を担当してもらいます。それについては沢渡くんが詳しいから、聞いてくれる?」
マジか!
俺は最高の笑顔を浮かべる。
「沢渡健です。よろしくお願いします」
日野さんも笑顔を返してくれた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その笑顔に俺はやられた。
超かわいい。
超イケメン。
そして超、癒される。
俺がゲットそしてハントした連中の気持ちがわかる気がする。俺の笑顔もきっと、今の日野さんみたいだったはずだから。
胸がキュンとするってよく言うけど、ほんとなんだ。日野さんの笑顔は尊い。
上司が自分の席に戻る。
日野さんはさっきの笑顔のままで俺を呼ぶ。
「沢渡くん」
「はいっ」
「いろいろ、教えてね」
俺は、これまで落としてきた連中に見せたのとは違う笑顔を浮かべる。
誠実そうな、素直そうな「後輩」の笑顔だ。
必ず日野さんを、俺はゲットする。
そのための決意表明として、俺は自己ベストのイケボを発動した。
「何でも聞いてください」
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