序章 おはよう

 序章 おはよう



 何でもない日を三百六十五日繰り返して生きてきた。そうして、愛しい不変を置き去りに佐伯國春はその日を迎えた。閏年だった。

 佐伯は、はらわたを掻き出された自分を見ていた。

 詰まっていたものが落ち窪んでいく喪失感の後に、痛みはひどく遠ざかっていた。

 言葉にならない声ばかりが佐伯の喉から搾り出されている。唸り声のようなそれを、どこか他人の声のように感じながら、意識は少し上から浮かぶようにして、破れた胴体を見ていたのだ。

 ずる、と、胴体に残っていたはらわたが引かれて、まだ繋がっている胃袋から喉へと、血泡が湧き出すように逆流してきた。


 ――ずぅ、ごっ ずぅ、ごっ


 喉の奥が詰まった排水口のような音を立てていて、佐伯は畳の上で溺れている。

 救いを求める相手を探すが、視界は半ば黒くかすみ、すでに定かではない。ただ、猛烈な嘔吐感と窒息がせめぎ合い、思考は鈍化していた。とにかく寒くて寒くて、体をさすりたいほどなのに、指をぴくりとも動かせない。それが嫌でたまらなかった。

 高く鳴っていた耳鳴りが、じゃわじゃわと喧騒のように変化した。あまりの喧しさに堪らず目を閉じると、瞼の裏側に鳥居が見えた。

 

 瞬く。朱色。

 もみじ。漁火。

 青蠅。砂浜に魚とくらげが並び。

 ぬいぐるみを抱いた小さな手が。

 青天白日と、緑色のかまきり、夕焼けに旋回する蝙蝠。

 麦秋。愛しい笑顔。

 

 濁流のような一瞬を超えて、足の裏に、ささくれた畳とねばつく血の感触。

 佐伯は目を開けた。

 畳には血溜まりと、佐伯の着ていた制服がそのまま残されている。まるで衣服から佐伯だけを抜き取って、横に立てたようであった。

 先程に感じた、腹の中を掻き回す鋭いものの感触と、猛烈な眩暈と視界の明滅感の名残があり、血の気の引いた自分の指を見つめた。

 それは信じ難く、けれどあまりにも死の感触が生々しく肌に残っていた。鮮血に染まったシャツが、自身を殺したものがいる事実を視覚的にも物語っていた。

 茫然と手のひらを見つめているうちに、足元の血痕が、薄くなっていく。まるで佐伯の皮膚が血溜まりを吸っているように。

 ――俺の死の痕跡は、跡形もなく消えて失せてしまうのだ。ならば俺は、死ななかったのだろうか――

 疑心に駆られ、混迷する思考の中、未だ恐怖に冷え切った手足と、自分の中身が脱落していく感覚は、白昼夢のようだった。

 制服をべったりと染め上げていた血液すら消失している。

 べったりと濡れていたはずのシャツを広げて、佐伯は恐ろしくなった。冷え切っていた指先が体温を取り戻していたが、全身がわなないていた。

 警察手帳を取り出して、食い入るように写真を見る。確かに記憶の中の自分の顔。名前。佐伯國春に間違いない。間違いない。何度も反芻するように、己の身分を確認した。

「おはよう」

 ふいにかけられたその声に、佐伯は顔を上げた。ほんの三十分ばかり前に、山田夏朗と名乗った彼のことを、佐伯は覚えていた。夏朗は山刀をぶら下げながら、佐伯を見てにんまりと笑った。

 それは佐伯が意識を取り戻した喜びの笑顔でもあった。

 佐伯の全身の筋肉が、恐怖に締まる。手のひらの警察手帳を握り込み、何があったのかを思い出していく。

 痛みの記憶は明瞭で、佐伯の全身を骨の髄まで冷やすには充分だった。

「……どんなこともじきに慣れる。どこをどうされたら、どれほど痛くて、どこまでなら動く事ができて、どうなったら一度死んだ方がましか」

 夏朗は、床に落ちていた出刃包丁を拾い、佐伯に差し出したが、佐伯は手を伸ばさなさった。佐伯に受け取る気がないと知ると、夏朗は出刃包丁を佐伯の足元に放った。

「いいよ。ぼくはいつまでも付き合うぜ。帰れなくて困るのはあんただけだし」

 山刀を気だるそうに肩に置き、夏朗が一歩佐伯に近づいた。

 冷え切った佐伯の身体は、肺すら凍てついてしまって空気を吸うたびに痛みを覚えた。それがさらに全身を萎縮させる。

 帰りたいと、全身の肉と血が、懇願する悲鳴をあげていた。

 こどものように頭を振って拒絶したくなる。

 しかし記憶は、山刀をしのぐ硬いものを欲しがって、出刃包丁を拾おうとする。その右手首を、分厚い刃が薙いだ。

 佐伯の引き攣った喉奥が、短く笛のように鳴った。

 どたり、と、重たい音が聞こえて、目を閉じたくなる。

 顔を歪ませて切り飛ばされた自信の右手首を探す。

 床に落ちた手首を視認した途端、飲み込めた状況によって脳天に向かって激痛が駆け抜けた。どっと両目から涙が溢れる。

 佐伯は奥歯を割らんばかりに食いしばり、右手首を拾い上げる。離れた片手は、みるみるうちに白く変わっていく。

 死の色に焦り、傷口をあわせて再びつながることを願ったが、ぬちゃぬちゃと粘膜をすり合わせるばかりで、いたずらに痛みが増すばかりであった。

「くっつきゃしねぇよ、カニじゃねえんだから」

 そんな佐伯を見て、夏朗はケラケラと笑った。

 それは紛れもなく漫画のセリフを誦じた軽口で、無駄な足掻きを繰り返す佐伯を嘲笑うような感情はなかった。

 夏朗には、殺意も悪意もないのだ。あるのはただ、己のあとに続くものを育て、指南するという気持ちだけなのだろう。夏朗はひとしきり笑うと、佐伯の前に膝をつき、よくよく顔を覗き込みながら言った。

「じきに、相手の死角から戻ってくる感覚もつかめるようになる。全てが終わった時、この山刀も出刃包丁も、あんたの付属物になるんだ」

 そうなるまで何度だってやればいい。そう言って首筋にあてがわれた刃は冷ややかで、それは死の感触であった。

 まず、喉の皮膚が裂ける、ぴりとした小さな痛み。

 それに続く大きな死の痛みに怯え、佐伯は祈るような思いで目を閉じた。

 

 ――俺は何になるのだろうか。



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