エピローグ


 教室での一件は、どうやら部長の悪ふざけが発端らしい。実際のところは、よくわからないけれど。

 あれを機に、僕は鳥川さんとも、なぜか黒木田とも何日も会話が成り立たなくなっている。非常に気まずい状況で、僕にとって教室中が針のむしろだった。動揺のあまり、自分の原稿までもが滞っている。

 そんな中、僕は鳥川魚美を小説家にするための新しいアプローチを思いついた。己の知る、もっとも高みにいる作家――万田凛に話を訊くのだ。

 もちろん、師匠に彼女を託そうというわけではない。そこまで頼りたくはない。ただ、どうすれば彼女を上の舞台に押し上げられるのか。そのヒントがほしかった。


「相変わらず、いい度胸じゃないか」

 僕からの電話に出た途端、師匠はそう言った。やさしげな声が、こちらの不安をより煽る。

「ご無沙汰しています、先生。ドラマ化決定と幕内残留、おめでとうございます」

 恩師であり家主でもある彼女からの着信をちょいちょい無視していた僕は、畏まってご機嫌取り。前者は師匠の既刊についてで、後者は休場していた彼女の推し力士の番付事情についてだった。

「そんなことはどうでもいいんだよ。……いや、よくない。よくはないな。ありがとう」

 僕はこっそり、ほくそ笑んだ。師匠は気性が激しいせいか、プライベートで付き合える相手が極端に少ない。ゆえに身内からのストレートな賛辞や祝辞は、効果覿面てきめん

 が、

「次に私の電話をシカトしたら、家賃取るからな」

「……はい」

 けっして僕ごときに転がされるほど、甘い人ではなかった。

「まったく。……人がせっかく新刊の感想を伝えてあげようとしていたのに。もう月を跨いでしまったじゃないか」

「……え。僕の? 読んでくださったんですか」

 喋りながら、僕は自分の声が強張っているのを実感した。

 残酷かつ冷徹、辛辣。なのに希望の残る読後感。不思議な魅力の詰まった青春サスペンスや猟奇ミステリを次々手がける稀代の作家、万田凛。彼女にラブコメ満載の拙作を読まれていた羞恥と歓喜は、僕の頭と胸をぐるぐるぐるっと旋回し、この身を苛んだ。

「当たり前でしょう。っというか、おかしいだろう。新刊が出たなら、なんで恩師の私に報告しない? 小説のいろはを教わったら、私なんて用済みか? やり捨てか?」

「いや、すみません」

 大人の女性からの際どい比喩は、ちょっと洒落にならないので勘弁してもらいたかった。

「僕なんかの本、わざわざお目汚しするのも悪いと思って」

「はあっ?」

「ひえっ。……な、なんですか」

 かつての蜜月の日々の賜物か。僕はこの人に凄まれると、途端に身が竦んでしまう。部長よりも、黒木田よりも恐ろしい。

「ウシオくん。また卑屈になる悪い癖が出てるぞ。なんだよ、『僕なんかの本』って」

「あ」

 しまった。萎縮していたせいで、うっかりミス。

「プロを名乗るんだったら、虚勢でもなんでも、胸を張れ。自分の書いたものを誇れ。そうでなくては読者さまに失礼だ。できないんなら、腹切って死ね」

「……はい」

 昨今のコンプライアンスを無視した、最後の一言はともかく。自信。矜持。自負。それらは、この人から何度も指導されてきた大事な精神だったのに。僕はなにも成長していない。だから弟子失格だというんだ。

 しかしながら、僕の身にもなってほしい。まわりに万田凛や、あるいは鳥川魚美のような才媛がいるのだ。浮ついていたデビュー当初はともかく、どうして僕ごときが調子に乗れよう。しかも、当事者相手に。

「まったく。キミは私の言うこと、ひとつも聞かないよな。せっかく付けてあげたペンネームも、勝手にイジるし」

「いや、だって。〈佐藤〉なんて、名前負けもいいところですし」

 そんなイカつい名前で、ラブコメなんて書けないし。だから僕は、せめてもの敬意を込めて、師匠の本名〈佐藤菓子〉に近い、〈佐藤椰子〉を名乗っている。

「どうだか。……私と初めて会った日、キミは酔い潰れている私の頭をバリカンで刈ったろう。『小説家になれない』と、そう言われたからってさ。キミの本当は苛烈な気性に合う、いい名前だったと思うよ?」

「いや、待て。待ってください」

 しみじみ語る師匠を、僕は慌てて制止する。なにか、とんでもない誤解をされている。

「先生の頭にバリカンを当てたのは、近所のガキ大将です」

 その名も来海緋衣子という。

「へっ? キミじゃないの? あの鬼の形相したクソガキ」

「ちがいますよ。いくらなんでも、僕はそんなことしません」

 当時の僕は物陰でメソメソ泣いていた、しょうもない意気地なしのチキンです。

「そういえば、あの子……肌が焼けてて、スカートを穿いてた気がする」

「それ僕の要素ひとつもないだろ。……いや、まあ。いま誤解が解けてなによりです」

「えぇー、そうなのか。それがあったから、後で原稿持ってきたとき、『コイツいい度胸してんなー』と思って弟子にしたんだが」

「嘘でしょ? 嘘ですよね?」

 僕の声が掠れる一方、師匠はケロッとしている。

「まあ、どちらにせよ。私の目に狂いはなかったけれどね。そうだろう?」

「……はい」

 謙遜したいところだったが、叱られたばかりで卑屈なことは言えなかった。

「で、今日はどうした? キミからかけてくるなんて、初めてじゃないか」

「ええ、実は――」

 僕は恩師に、本題を切り出した。ある小説家志望の女の子の話を。

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鳥川魚美は小説家になれるのか? 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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