第七話 少女には向かないお仕事

「お金は出すって言ってるじゃない」

「受け取るわけないでしょ。そういう話をしたいんじゃないの。貴方の親としての責任感のなさを問題にしてるの」

「あー、もう。うるさい、うるさい。姉さんは専業主婦なんだから、もうひとりくらい増えたって面倒みれるでしょ」

「――さん。自分の子どものことなんだから、もっと真剣に」

「私は真剣ですっ。……姉さんやお義兄さんみたく、田舎に引っ込んでる人にはわかんないんだよ。東京でバリバリ働くシングルマザーの苦労なんてさ」

「だからって、魚美ちゃんを引き取れっていうのはちがうでしょ」

「なんで私ばっかり責められなきゃなんないの? もう限界なんだってば!」


 十年近く前、初めて私がこの島に訪れ、そして鳥川家へ連れてこられた日。

 元お母さんと、その姉である今現在のお母さん、お父さんの間で、このような話し合いが行われていた。向こうはリビングで、こちらは二階にいるのに、元お母さんの金切り声はよく響く。

 しかし、この後の会話の内容は、よくわからない。ひとつ下の従姉妹が貸してくれた小説に、私が我を忘れていたから。いや、読書中、気を利かせた従姉妹が、私の耳を手で塞いでくれていたのだっけ。

 とにかく、私はほかのことを気に留めず、ただ目の前の物語にだけ没頭していた。正直、振り仮名のない本は就学前の私にはハードルが高かったけれど、それでも十分にのめりこめた。

 異常な直観力により、一目で死が近い人を見抜ける少女。少女は相手が自覚なき重病人なら忠告し、死を受け入れている者なら慰めようとする。ときにはバスの転落事故を防いだり、殺人犯と戦ったり。不器用で口下手な彼女は誰にも理解されず、なにか行動を起こすたび、いつも口汚い言葉を浴びせられる。嫌われ、罵られる。「アイツはイカれてる」と、指を差して嗤われる。しかもほとんどの場合、奮闘の甲斐なく、助けたかった相手は命を落とす。

 それでも少女は止まらない。かつて大事な人を救えなかった罪の意識か、彼女本来の善性か。泥をかぶり、〈死神〉とまで呼ばれても、少女は人を救おうとする。

 幼児には重たすぎるストーリーだったが、私はぞっこん惚れ込んだ。夢中になっていた。自分が産みの親に捨てられかけている場面で、その小説に魅入っていた。

 私の過集中症が生来のものでなく、もし後天的なものだったとしたら。きっと、このときの体験が影響しているにちがいない。

 絶望的といって差し支えない状況を、読書でやり過ごした経験。物語に救われた経験。それが幸か不幸か、私に行き過ぎた集中力をもたらした。

 何時間も経って、小説の中の少女が、ついにひとつの命を救わんとした頃。大人同士の話し合いが済み、私は元お母さんに置いていかれる結末となった。

 子どもながらに生活圏が変わるのは地味に面倒くさくて嫌だったけれど、もうあの人に腕や髪を引っ張られたり、耳元で怒鳴られたり、繰り返しブスって言われなくて済むなら、安いものだ。

 別れ際、さっきまで母だったはずの人に肩を揺すぶられ、「じゃあね、魚美。しっかりね」と力強く言われた。

 いや、しっかりしなきゃいけないのはそっちだろ。

 そうツッコミたかったけれど、いつもみたいにヒステリーを起こされては堪らない。私は黙って頷いた。

 新しいお母さん、お父さんはやさしく私を受け入れてくれた。しかし、ほとんど初対面だった従姉妹は、「このひと、いっしょに、すむの?」と戸惑っている。

 私はといえば。

 この人たちに嫌われたら、どうしよう。

 この人たちにも捨てられたら、どうしよう。

 これから私、ちゃんと生きていけるかな。

 そんな不安でいっぱいだった。

 だから、精一杯お行儀よくしなければ。わがままひとつ言わない、いい子でいなければ。そう思った。

「おじさん、おばさん。ユズ、さん。よ、よろしくおねがいします」


「柚子! ちょっと待って! なんであんなことしたの!」

 佐藤くんと来海先輩が帰った後。私たち姉妹は、リビングでバタバタ追いかけっこ。走るだけなら私も自信はあったのだけど、地元中学最強の剣道部員は、瞬発力と運動神経がちがう。どうにもこうにも捕まらない。柚子は「んー」だのと唸りつつ、なぜだか私のスマホを操作しながら、こちらの手をひょいひょいかわす。

「アンタたち、いい加減にしなさいよー」

 テーブルでお父さんとお茶を飲んでいるお母さんが、のんびり諌めてきた。

「だってお母さんっ。私のと、ともっ……学校の人を、竹刀でつとか。信じらんないよ。隣の席なんだよ? 明日から、どんな顔して会えばいいの」

 お母さんは、にこやかに言う。

「大丈夫よ。あの子たち、魚美の汚部屋を見ても平然としてたんだから。きっと水に流してくれるって」

 私は足を止め、もうひとりの戦犯を睨んだ。

「そう、それ! それも! なんで勝手に部屋まで通したの? 娘に恥をかかせたいの?」

「アンタが部屋を片付けてれば、なーんにも恥ずかしいことはなかったのよーん」

 おどけて歌うように言う母を前に、私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「全然わかってないっ。デリカシーゼロ。……部屋の散らかりようだけじゃなくってさあ。自分のせいで、娘がほぼ下着姿同然の恰好を同級生男子に見られたんだよ。よく平気でいられるねっ」

「ほーん」

 私の悲鳴じみた責め立てに、お母さんはお煎餅を摘みながら適当な相槌を打った。ちっとも効いてないっぽい。

「あああ、転校したい。引っ越したいっ」

「お姉ちゃん、そしたら私もついてくからねっ」

 そう言って柚子は駆け寄ってきた。

「あ、ありがとう。……スマホ返して」

「うんっ、もう用は済んだから。アイツ佐藤潮っていうんだね。名前覚えたよ」

「勝手にLINE開いたのっ? あっ、待て。コラッ」

 柚子はピューッと素早く階段を上がり、自分の部屋へ消えていく。あああ、もう。佐藤くんが闇討ちされたら、どうしよう。

 それまで黙っていた、この場で唯一の男性が口を開く。

「お父さんも、男を部屋に入れるのはよくないと思ったな」

「お父さんは黙ってて!」

「ええぇっ?」

 私の八つ当たりに、お父さんはひどく狼狽えた。

「あと、ごめんなさい。借りてた眼鏡、柚子が竹刀で折っちゃった」

「なんでっ?」

「私が訊きたいよ、そんなこと」

 明日から眼鏡なしで登校しなきゃ。それも気が重い。柚子のバカッ。


 お風呂を済ませた後、私はひとりベッドで、また『ルウちゃん大奇行』を手に取った。

 柚子曰く、一巻は微妙とのことだったけど。事実、荒いところも多々あるけれど。それでも構成なり文章なりは、物書きのお手本みたいによくできていた。

 なにより、文体が気持ちいい。言葉のリズムが私に合う。私が本格的に小説を書き出したのは一年かそこらだけど、そんな自分と、佐藤椰子先生の文体のテンポは近い気がする。これはたぶん、私がこの家に来て初めて読んだ、大好きなあの本の作者さんが、彼のお師匠さまだったことに由来しているのだろう。

 その上で、このライトノベルは、やはり低俗。稀に幼稚。時に残酷。しかして、希望の差し込むやさしい結末。

 その緩急が。メリハリがクセになる。気づけば、また読みたいと手が伸びてしまう。

 何度読み返しても、とても同い年の人間が書いたものとは思えなくてゾッとする。しかも一巻が出たのって、中二のとき? ひえっ。

 こんな感想、本人には言えなかった。称賛なんてしたくなかった。悔しくて。羨ましくて。妬ましくて。

 でも、おかげでライトノベルのこと、少しわかった気がする。

 一般文芸が心のご飯なら、ライトノベルはスナック菓子。人生に絶対必要ないけど、あったら凄く楽しい。きっと、そういうものなんだ。

 もしかして、それが佐藤くんのいうエンタメ性? いまの私に足りないもの? だとしたら、改めて渡した原稿では……全然ダメだ。

 いっそ佐藤くんの言う通り、私もライトノベルを書いてみる? いや、私に向いているとは思えない。そもそも自分の書きたいものと重ならない。

 明日、彼に相談してみようか。いや、待ちきれない。そうだ、LINEだ。せっかく連絡先を交換したのだし、メッセージを送ってみよう。

 人生初、男の子との電子上やり取り。少しドキドキする。

「ん……あれっ?」

 いくら探しても、登録したばかりの佐藤くんのアカウントが見つからない。しばらく粘ってみたけれど、無理そうなので諦めた。

 まだスマホ自体、使い慣れてないからなあ。

 仕方なく、私はひとりで彼の言葉を思い返す。


 ――誰のための小説?


 言われたとき、ハッとなった。目が覚めた気がした。だって、いままで考えもしなかったから。

 そうか。小説って自分じゃなくて、人のために書くものなんだ。

 私は、私のために。私が気持ちよくなるために書いていた。ときどき柚子に読ませると、ヨダレを垂らして喜んでくれていたし。それでいいと、そういうものだと思っていた。

 ちがうのか。

 私がやっているのは、佐藤くんが批評の前置きで書いていた通り、自……じ、ジイッ行為のようなものなのだろうか。

 例えば。

 主人公を裏切り、逆に縁を切られる幼馴染み。

 ガールスカウトで一緒になった子を崖から落とし、その罪を主人公になすりつける親友。

 若い男を作って消えて、子どもを餓死させた母親。

 私の小説に毎回ひとりは登場する、忌まわしい悪役。あるいは枷。

 こいつら、アレだ。

 あの、私を産んで、そして捨てていった女だ。

 あの人を恨んでいるわけじゃない。むしろ感謝している。あの人が置いていってくれたおかげで、私はいまの家族と一緒にいられるんだから。お母さんと、ついでにお父さん。そして柚子。

 でも私の作中のこいつらは、必ず最後に重い罰を受けるんだ。

 私、小説の中であの人を酷い目に遭わせて。そして、憂さを晴らしてた。自分を救ってた。

 無意識的に、とは言わない。私はそれを、望んでやっていた。

 卑しい。いやらしい慰め行為。

 あのとき佐藤くんたちの前で、不覚にも泣いてしまったのは。私のことを。私の小説のことを、深く考えてもらえて嬉しかったから。そういう理由も、たしかにあるけど。

 一番は、私の心の中の醜い部分。気づいていない振りをしていた部分。そこを突かれたようで、びっくりして。それが、じわじわ来たんだと思う。

 心の闇に。泥に。澱に。そういう、汚いものに気づかれた。知られた。触れられた。

 悔しい。恥ずかしい。死にたい。殺したい。。気持ちいい。

 どうしよう。小説を通して人に想いが伝わるのって、快感だ。

 あるいは創作の醍醐味って、こういうこと?

 だとしたら私、もう戻れない。一生、小説のとりこかも。

 そして、この衝動を理解した上で、もっと執筆に活かせたら。自……行為で終わるんじゃなくて。佐藤くんのいう、エンタメに昇華できたなら。

 私の小説は、ちょっと凄いことになるんじゃないだろうか。佐藤椰子なんて目じゃない、もっと凄い作家になれちゃうんじゃないだろうか。

「おねーえちゃーん」

 ふと、私の機嫌を窺うように、柚子が猫撫で声で部屋に入ってきた。ノックの音は聴こえず。また私、没頭していたのだろうか。

 こちらを上目遣いに見る、柚子の様子がかわいくて。愛しくて。それだけで私は、さっきまでのことを水に流してしまう。いいなあ、美少女は得だなあ。

「もうっ。……なに?」

 表面上は怒ってる振り。でも柚子には通じない。

「お姉ちゃん大好きーっ!」

「あっ、柚子。ちょっと」

 布団にダイブして抱きついてくる妹を、私は拒めなかった。

「もう怒ってない?」

 私にしがみつきながら、この子はいけしゃあしゃあと訊いてくる。わかってるくせに。

「学校に電話してくれてたこと、ありがとね」

 柚子はパアッと顔を輝かせた。

「ううん、いいの。お姉ちゃん、疲れてそうだったし。呼びかけても反応なかったから」

「そっか」

「お母さんたち、もう仕事に出てたし。やっちゃえって。私、お母さんの声真似、得意なんだよ」

 いや、来海先輩が言うには、先生にモロバレだったらしいけどね。

「でも、もうしちゃダメだよ。嘘はダメ」

「はぁい」

 そんなことを言いながら、私は内心、楽になっている。

 ズル休みしてしまったのは、柚子が電話しちゃったせいだと。

 これも私の卑しい部分。

 きっと、あの自己紹介でのやらかしも一緒。自己責任だと自分に言い聞かせておきながら、私は心のどこかで、柚子が提案したせいだと言い訳していた。

 妹のやさしさや愛情に甘えて、私は自分を助けていた。

 卑怯だ、私は。


 ――夢を語る人間が、恥ずかしいわけない


 ふいに、彼の言葉が脳裏に響いた。

 佐藤くんは、私はカッコいいんだって言ってくれた。

 そんなわけないのに。でも。

「お姉ちゃんっ? どしたの? 顔真っ赤だよっ?」

 私の胸の辺りを顎でぐりぐりしていた柚子が、心配して声を上げた。

「あっ。う、うん。なんでもない。……柚子、それ痛い」

 私は柚子を抱え、からだを起こした。そして最愛の妹を見つめて言う。

「あのね、柚子。……私、カッコいいお姉ちゃんになりたい」

 佐藤くんの嘘を、本当にしたい。

 私を想ってくれる妹に相応しくなるために。

 私は、カッコいい自分になりたい。いいや、なる。

 私の覚悟は、「お姉ちゃんかわいいっ」と歓声を上げる柚子には、いまいち伝わっていないようだったのだけど。

 いまは、それでいいや。

 とりあえず。佐藤くんが言ってくれた通り。

 世に出よう。結果を出そう。そのために、なんでもしよう。

 私は――鳥川魚美は、果たして小説家になれるのか?

 これまで何度も、自分自身に投げかけてきた言葉。苦しいときも、浮かれているときも、ずっと自問自答してきた。

 いつだって答えはひとつ。

 そんなの、やってみなくちゃわからない。

 だから私は挑むんだ。だから私は小説を書くんだ。

 私には小説がある。いや、私には小説しかない。

 さあ、今日も書こう。

 私は、女子高生作家になるんだ。


 翌日。おろし立ての半袖パーカーを着て二日ぶりに登校した私は、部室で来海先輩とお昼をご一緒した。ソファに座ってお弁当を食べた後、いまはクマ隠しのメイクを教わっている。

 ちなみに佐藤くんとは、朝に挨拶を交わしたっきり。本当は、小説に関して山ほど言いたいことや訊きたいことがあったのに。彼の顔を見ると、それら全部が頭の中から吹き飛んでしまった。

 なんだろう。彼に対する、この不確かな感情は。

「はいっ、できましたー。どうよ、簡単っしょ?」

「は、はい。ありがとうございます。……わあ」

 鏡に写る、つやつやの顔。青クマなしの自分の目を久々に見た。オレンジコンシーラーなる、謎の筆みたいなやつをササッと塗るだけで、ここしばらくの悩みがひとつ解決。これなら眼鏡なしでも、今後は大丈夫そう。

「コンシーラー、よかったら使ってよ。余ってるやつだから」

「た、助かります」

 持つべきものはギャルの先輩だ。

 お母さんに相談すると、お父さんに伝わりそうで嫌だったんだよね。柚子は柚子で、顔をイジらせたら、眉を剃ろうとしたり、チークを塗ってきたり。自分好みに改造しようとしてくるから絶対ダメだし。

「本当、先輩にも。さ、佐藤くんにも。私、お世話になりっぱなしで。なにか、お返しができたらいいんですけど」

「んー、こんなん大したことないし、アタシは全然いいけどー。……たしかにシオちゃんには、お礼くらいしといた方がいいかもね」

「で、ですよね。どうしよう」

 彼が喜びそうなものなんて、思いつかない。

「チューかな」

「はっ?」

 あっさりと。しかし、とんでもない答えが飛んできて、私は困惑した。

「チューがいいよ。チュー」

「ち、ちゅう? き、キスですか? キッスってやつですか? いや、そんな」

「えーっ。いまどきチューなんて、高校生ならフツーじゃん? 軽い挨拶みたいなかんじでさー」

「……そうなんですか?」

 聞いたことないけど。来海先輩が言うなら、そうなのかもしれない。進んでるなあ、高校生。

「だ、だけど私なんかがやっても、ただの罰ゲームですし。シンプルに軽犯罪ですし」

 もし私みたいなのが佐藤くんに「キスしてあげよっか?」なんて澄まして言ったら、逆に怒られるかもしれない。ていうか言えない。言えるわけない。

「ミーちゃん、難しく考えすぎだよー。シオちゃんなら確実に喜ぶって。だってアイツ、スケベじゃん?」

 戸惑っている私に向かって、来海先輩は真面目な顔で言った。

「それは、そうですけど」

 私は確信を持って同意。最早、その点に関して疑う余地はない。

「中学んときもさ。アタシに告ってきたかと思えば、次の年にはスズちゃんと付き合ってたり」

「……スズちゃん?」

「知らん? ふたりと同じクラスのクロキダ――」

「あっ、あ。わかります」

 窓際最後列、佐藤くんの左隣に座るハスキーボイスの黒髪美人、クロキダイさん。

「あの人、佐藤くんと付き合ってたんですか。……へえ」

 個人的には、来海先輩に告白したという話も気になる。

「とっくに別れてるけどね? 結局アイツ、女なら誰でもいーんよ」

 来海先輩は、吐き捨てるようにして言った。その気持ち、私もちょっとわかる。

「サイテーですね」

「そう、サイテー。サイテーのムッツリスケベ。……だからミーちゃんが、ぶちゅーっとかましたら、スッゲー大喜びすると思うよ」

「そ、そうでしょうか」

 先輩やクロキダイさんみたいな、とびきりスタイルのいい美人ならともかく。卑屈な貧乳陰気女の唇でも、喜んでくれるんだろうか。

 もし、そうなら。

 あくまで、お礼として。

 礼儀として。

 ただの挨拶、挨拶、挨拶。

「なーんつってね。冗談、冗だ……ミーちゃん? なーんつって。ほら、なーん……ミーちゃん?」

 この後も来海先輩が、なにか横で言ってくれてはいたのだけど。言葉は届いていたのだけれど。とっくに没頭していた私は、その言葉を正しく認識できなかった。


 昼休みが終わる寸前、私はふらふらしながら教室へ戻ってきた。さっきの件について考えまくっていたこともあるし、昨日までの疲れも溜まっている。ボーッとして自分の席へ向かった。

 私の席の左側では、佐藤くんとクロキダイさんが、なにやら楽しそうにダベっている。

 このふたりが、付き合ってたんだなあ。キスとか、もっと別のこととか、してたんだなあ。先輩は前に佐藤くんのことを童……って、からかっていたけれど、それも怪しい。クロキダイさん、美人だし。

 私には小説しかないのに、佐藤くんは色んなものを持っている。そう思うと、なんだか腹が立ってきた。

「鳥川さん?」

 気づけば私は、佐藤くんの席の正面に立っていた。

 これは、きっと気の迷いだ。なにかの間違いだ。だけど。

 佐藤くん。佐藤くん。佐藤くん。

 小説しかないはずの私の頭に、ノイズが走る。胸が高鳴る。

 もし小説が〈人を描く物語〉だとしたら。この不確かな感情に沿って行動することも、いつか糧になるんじゃないか? 衝動に任せて行動してみるのも、いい経験になるんじゃないか? そう思った。

 それに、来海先輩が挨拶だって言ってたし。

 卑しい責任転嫁。またもや私の悪癖が、こんなところで顔を出す。しかし今回は、そんなに悪い気もしない。

 挨拶。挨拶。そう、軽い挨拶。

 私の中でゴーサインが出た。そして不審げな顔をしている佐藤くんのネクタイに手を伸ばす。

「うえっ、え?」

 グッと引き寄せ――正確には、私の腕の力では彼の身はびくともなかったので、私の方から近づいた。そして目を瞑り、飛びつくように。唇めがけてダイブする。

 少しして、教室のそこかしこで叫声が響いた。歓声のような。悲鳴のような。そういう声が、やたらめったら背後から。

 私が唇を離し、目を開けると。佐藤くんは鼻血を垂らし、こちらを呆然と見ていた。いま私のそれとくっついていた唇が、ぷるぷる震えている。

 それを見たクラスの人たちが、より騒ぐ。

「キス?」

「いや、鼻血だ。頭突きだ」

「痴話喧嘩だ。鳥川さんがキレた」

「やっぱり顔のいい女としか話さないヤツには、罰が下るんだ」

「潮っ、アンタ鳥川さんになにやったの」

 そうか。最後列の席で、みんなに背を向けて事に及んだから、ほかの人にはインパクトの瞬間が見えなかったんだ。

 実際の接触状況を知るのは、私と佐藤くん。そして、いま横で顔を青ざめさせているクロキダイさんだけ。

 そうだ、クロキダイさん。現代高校生の軽い挨拶とはいえ、元恋人の前で、キスはマズかったかな。

 フリーズする佐藤くんを横目に、私はクロキダイさんのご機嫌を取るべきと判断した。

「あ……挨拶、挨拶」

「テメッ、パーカー女ぁっ」

 激昂する彼女に追われた私は、放課後に来海先輩と小八木先生、そしてカエデちゃんから仲裁してもらうまで、延々逃げつづける羽目となった。もちろん佐藤くんは、この件に関して役立たず。さらに来海先輩から、改めて“冗談”について説明された私は、しばらく彼と目も合わせられなくなった。


 小説家への道は、まだまだ遠い。

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