第四話 なぜ、佐藤椰子に頼んだのか?

 五月中頃のその日、

「柚子、ちょっと魚美の様子見てきてよ」

 お母さんが私にそう頼んできたのには、理由がある。

 何十分か前、さあ家族揃って夕食だーっというときに、お姉ちゃんがおかしなことを言い出したのだ。

「今日はお味噌汁だけでいい」

 私と両親は「ええっ」とユニゾンで驚いた。

 からだが細い割に食べる……スゴく、モノスゴく食べるお姉ちゃんが、ご飯をいらないと言った。入学式の日も。ふたりで例の録音を聞いた日も。見る目のないポンコツ編集者から電話があった夜も。ご飯だけは、もりもり食べていたというのに。これは由々しき事態。ポンポン痛いのかなっと思って聞いてみたけど、そういうわけではないらしい。

 宣言通り、お味噌汁を二杯すすって、自分の部屋へ引き上げていくお姉ちゃん。その背を見送ったお父さんが訳知り顔で、「あれは恋だな」なんて言う。男親の浅はかな憶測をお母さんが鼻で笑う一方、私は父のむこうずねを蹴り上げ、一悶着を起こすなどした。とにかく各々、我が家の大事な宝物を気にかけているのだけはたしかだ。

「学校で、なにかあったのかな」

 どっかの壁画に描かれた天使や赤ちゃん猫すらリョーガする勢いで愛くるしいとはいえ、お姉ちゃんはあの性格だ。中学までと同じく、高校でも言いたいことを言えず、ひとり寂しく過ごしているにちがいない。そんなお姉ちゃんの力になりたい一心で、例の自己アピールを発案したのだけど。私としたことが、やりすぎた。結果的に、かつてない十字架をお姉ちゃんに背負わせてしまった。

 その件について、お姉ちゃんは口では大丈夫って言うけれど。私は痩せ我慢だと知っている。だってお姉ちゃん、高校でのことを話すとき、いつも笑ってるんだ。無理やり口角を上げた、引きつった笑顔。お姉ちゃんは辛いときほど、あの顔になる。意地を張り、無理をしている証拠だ。

 私は心に誓った。もし、お姉ちゃんがいじめられでもしていたら。責任を取って高校へ乗り込み、誰が相手でも竹刀で叩き伏せてやる。

 決意を胸に、私は家族を代表して部屋まで様子を窺いにいった。

「おねーえちゃーん」

 ドアをノックし、あえて陽気に甘え声。返事が聞こえたので、ノブを回す。

 中を見て、軽く溜息。かわいくない。棚、机、床。相変わらず、どこもかしこも本だらけの殺風景な部屋だ。

 肝心のお姉ちゃんは、ベッドで仰向けになっている。

 ピンクのキャミソールにパーカーを羽織っただけの、ラフな恰好。上着のファスナーが全開だから、フラット……げふんげふん、スレンダーな肢体を一望できた。こんなに未発達な体形なのに、十年近く一緒に住んでいる妹をムラーッとさせるお姉ちゃんは、ニンフかなにかの化身にちがいない。解いた髪も新鮮で、いつものローツインと同じくらい魅力的。ガンプクにして、カンガイムリョー。その身を包むのが私チョイスの上着となれば、尚更ね。

 お姉ちゃんは私の贈ったパーカーをよっぽど気に入ったらしく、部屋着にも使ってくれている。毎日学校に着ていくと言われたときは、慌てて同色や色ちがいの予備を何枚も追加発注したっけ。喜んでくれたのなら、お母さんにお小遣いを前借りした甲斐があったというものだ。お父さんのヘソクリに手を出したことがバレちゃった件もあり、お正月まで私のお小遣いはゼロだけど。やっぱり、お姉ちゃんが最優先。

「どしたの、柚子」

 お姉ちゃんは寝たままで、こちらを見て言った。なぜか両手を自分のほっぺたに当て、クリクリさすっている。

「んーん、なんでも。……お姉ちゃんこそ、なにやってんの?」

 私は訊ねながらドアを閉めた。そしてベッドにすり足で寄り、お尻を下ろす。

「痩顔マッサージ? 絶対お姉ちゃんに必要ないじゃん」

 すでにお姉ちゃんは完璧。叶うなら、いまこのとき、この状態のままで冷凍保存をしたいくらい。その際は、少し前から気にしだしたクマをメイクで隠してあげて、長めの前髪も整えよう。そしたら超完璧だ。もちろん学校用の黒ぶち眼鏡なんて、もってのほか。私は偶然を装い、いつかアレをへし折ってやろうと狙っている。だって伊達眼鏡だし。ゴテゴテしてて、お姉ちゃんには不釣り合いだし。なにより、お父さんのだし。だから一向にかまわんはずだ。

 クマなら私がメイクで消すよって言ってるのに。お姉ちゃん、髪は梳かせてくれるけど、顔へのタッチはNGなんだよね。姉としてのプライドが、そうさせるのかな。

「えーとね」

 私が思い耽っている間に、お姉ちゃんは手をほっぺから離し、からだを起こした。そして私に向かって口をかぱっと開き、弧を描くようにしてアゴを上下左右にカクカク動かす。いつか動物園で見た鹿そっくり。他人がやったらドン引きでも、お姉ちゃんなら全部かわいいで済ませられるから不思議。口の中でチロチロ揺れる舌が、なんかエッチだ。

「何事?」

 私がそう聞くと、お姉ちゃんは謎の顔面運動をピタッと止めた。

「ちょっとね、アゴが疲れちゃって。そのせいで食欲もなくって」

「へっ?」

「……その、学校で。お喋りしすぎたせい、かも」

 いつもの無理やり作った笑顔じゃない、照れくさそうな表情。これはまさか。

「とっ、と、友達ができたってこと?」

 ナントカっていう学級委員とは、よく話すって聞いていたけれど。お姉ちゃんの口ぶりから、たぶんアレは友達とは言いがたい。

「いや、友達っていうか。……部活にね、入ることになって」

「うわああぁ、おめでとおお」

 私は心から歓迎した。パンピーどもが私のお姉ちゃんとお近づきになるなんて、本来は許されることじゃあない。それでも、これ以上お姉ちゃんに学校でひとり寂しい思いはしてほしくなかった。例の音声を思い返すたび罪悪感で震える私にとって、朗報以外のなにものでもない。

「どこに入ったの? 陸上部? お姉ちゃん足早いもんね」

「う、ううん。文芸部。担任の先生が顧問をしてて。同じクラスの人も、誘ってくれて」

「わあぁ、ぴったりじゃん!」

 私の喝采に、お姉ちゃんは口元を綻ばせた。

「でも、ご飯が食べられなくなるくらい疲れるって、よっぽどじゃない? 大丈夫?」

「う、うん。もう平気。柚子相手なら、緊張せずに話せるし。……あ、終わってたみたい」

 お姉ちゃんの視線の先は、学習机の横に置かれた家庭用プリンター。そこには印刷の済んだA4用紙の束ができていた。

「新しい小説?」

 私は期待を込めて聞いた。お姉ちゃんが初めて長編小説を書き上げたのは、去年の夏休み。それ以降、未来の女子高生作家は二ヶ月に一本くらいのペースで書きつづけている。その内容は、大半がおどろおどろしい青春サスペンスだ。

「ううん。新作じゃなくて、前のやつ」

「そっかぁ」

 私はお姉ちゃんの小説が好きだ。お姉ちゃんが書いているからってだけの理由じゃなくて。そこには、私が普段読んでいるラノベとは異なる刺激がいっぱいなのだ。具体的には、大体リア充女がヒドい目に遭うか死ぬ。もしくはヒドい目に遭って死ぬ。そんなん痛快すぎて、次も期待しちゃうよね。

「読んでもらうの。文芸部の人に」

「……ソレ、大丈夫?」

 一瞬で不安になった。気心の知れた私でもなく、新人賞に携わるプロでもない。お姉ちゃんになんの愛着も責任も持たない高校生のクソガキども。そんなのに、魂を削って書いた小説を委ねるなんて。後でお姉ちゃん、イヤな思いをしないかな。

「うん。読んでほしいって、私から頼んだの。……そうだ柚子、ライトノベルを書いてる、〈佐藤椰子〉って知ってる?」

「佐藤椰子っ?」

 思わず私の声は跳ね上がった。嬉しいサプライズだ。個人的に注目しているラノベ作家の名前が、一般文芸一筋のお姉ちゃんの口から出てくるなんて。

「もちろん知ってるよぉ。その先生、ラノベ界隈では、ちょっとした有名人だよ」

「えっ? へ、へえ。そうなんだ」

 なぜか、お姉ちゃんはニマッと笑った。

「うん。としてだけど」

「えぇっ? ど、ど、どういうこと?」

 やった、期せずしてお姉ちゃんの裏返った声いただきました。かわいい! ごちそうさまです。

「えっとね。たしか、おととしデビューして早々、SNSの『描写が拙い』ってコメントに反応して燃え上がったとかいう話。それからも一年ちょっとくらい前までは、よくアンチとやり合ってたみたいよ」

「う、うわあああ」

「ほかにも小説ギョーカイを……えっと、なんだっけ。シャ、シャチョー……えー、シャチョーサンキュー?」

「……ひょっとして、〈シャヨウサンギョウ〉?」

「そう、ソレ。さすがお姉ちゃん。……あ、いいよう、わざわざ紙に漢字で書かなくて。……うん、ありがと。覚えた。……この、なんとかサンギョーとか言った相手に、自分から噛みついてったり」

「あっ。あー……っぽい。それっぽいなあ。そういうことやりそう」

 お姉ちゃんは、なにかに納得したようだった。それでいて眉は寄り、しかし口元は緩んでいる。なんとも複雑な表情だ。

「でも私が注目してるのは、ソコじゃないよ? いまのは、そんな欠点が界隈で目立ってるって話。最近はSNSで見ないし、出版社サイドに止められたのかもね」

「……じゃあ、どういうところが気になってるの?」

 オタク心をくすぐる質問に、私はにんまり笑った。

「デビュー作がさ、異世界ファンタジーなんだけど。テーマきっちり作って、キャラとかストーリーも練り込まれてて。でもラノベファンからすると、なーんかコレじゃないんだよなーって。わかる?」

「う、うーん」

 私の抽象的な物言いに、お姉ちゃんは首を捻った。

「よくダシの効いた美味しいお味噌汁だけど、注文したのは味噌ラーメンだった……的なこと?」

「さすがお姉ちゃんっ」

 言っても、そこまでの事件じゃないけど。『鳥川魚美は褒めて伸ばす』がウチの家訓なので。

「佐藤椰子、狙いはいいんだよ? ニッチなところをついててさ。ベタな異世界転生モノの、アフターストーリーみたいな。何十年も前に現実世界……あ、私たちのいる世界って意味ね。その、こっちの世界から転生してったヨネバヤシって人がいて。異世界を救って英雄になって。で、そのヨネバヤシの孫が主人公。王国の騎士団見習いをしてる男の子なの」

 私がウキウキしながら、佐藤椰子の新人賞受賞作兼デビュー作『ルウちゃん大奇行』について語る横で、お姉ちゃんは「異世界転生が……ベタ?」などと呟いている。ああ、そこで引っかかるんだ。遡れば、一応ラノベ文化の誕生以前から存在するジャンルらしいのだけど。それでも一般文芸畑の人には違和感のある展開らしい。もっと、かいつまんで話そうか。

「要は、英雄の孫と王女さまの恋愛ファンタジーだよ。ヨネバヤシ三世は王女のルウと幼馴染みで婚約済みで相思相愛なんだけど、ルウのわがままに振り回されっぱなし」

「ああ、うん。よくあるやつ」

「……まあ、そうだね」

 そうなのか。

 この人にとっては、それこそベタな、ありふれたパターンなのだろう。

 もし電子書籍隆盛の時代でなかったら。そして資金に際限がなければ。お姉ちゃんはこの部屋どころか、家中の床と壁を小説で覆い尽くしていた女。当然ラノベ要素を取っ払えば、私の知識と読書量がお姉ちゃんに及ぶはずもなかった。

 だけど、お姉ちゃんはラノベの奔放さと奥行きの深さを知らない。

「一巻でヨネバヤシはルウと一緒に、祖父が晩年に旅立った東方の国まで、ジパング風カレーを食べにいく」

「なんでカレーッ?」

 馴染み深いワードが出てきたためか、お姉ちゃんは大きめの声でツッコんだ。私は期待通りの反応に内心ほくそ笑みつつ、素っ気なく答える。

「知らなーい。お話考えてるとき、お腹空いてたんじゃない?」

「うぅ、ん。なるほど。……まあエッジは効いてるのかな」

「そもそもヒロインの名前もだしね」

「た、たしかに」

 私の適当な理由づけにも律儀に応え、謎の展開に無理やり納得しようとしているお姉ちゃん。真面目だなあ。

「よく言えば、インパクトはあったかな。でも、なんていうか……そんなことより、この作者は根本的にラノベをわかってない、みたいなね。お客さんより自分を見てるっていうか。独りよがりな文章を書く人だったよ。ジコトースイ? ってヤツ」

「……そうなんだ」

 お姉ちゃんは、いくらか落胆したようだった。そこで私はニヤリとしてみせる。

「あくまで、デビュー作ではね」

「……ほかは、ちがうの?」

「面白いんだよ。二巻も、こないだ出た三巻も」

 やけに多い、それでいて幼稚なサービスシーンはともかく。息をつかせぬ急展開の連続に、その世界独自の社会事情と複雑な人間関係。そして、ヤキモキさせられる恋愛模様。それらを簡素な文章で描ききる筆致。

「ラノベについて、かなり勉強したんだろうなあって。急成長してきてる有望株かも」

 少なくとも、絶賛金欠中の私が迷わず新刊を購入するくらいには、気になる作家であり、読みつづけたい作品なのであった。

「ふ、ふうぅん」

 お姉ちゃんの口元は緩みっぱなし。どういう感情が働いているのか、長い前髪の奥で、大きな瞳がせわしなく動いている。

「よかったら読む? 部屋から持ってくるよ?」

「あ、いまはいいや」

 ここぞとばかりに薦めてみるも、お姉ちゃんの返答は意外にドライ。

「なんで?」

「なんでって……読みかけの本があるし、図書館で借りた本も残ってるし。自分の作業だってしたいし。……私は一般文芸こそが最高のエンタメだって信じてるし」

 なぜか最後の一言だけ、拗ねているような口ぶりだった。こんなに私が熱っぽく語っても、お姉ちゃんの中でラノベの優先順位は低いらしい。

「前から思ってたんだけどぉ」

 私はちょっと意地になって食い下がった。大好きな人に自分の好きなものをわかってもらいたい。コレ、人情なり。

「お姉ちゃんって、ラノベを見下してるでしょ」

「……そ、そんなことないよ。ハ◯ヒは面白かったよ」

「ハ◯ヒは面白いに決まってんじゃん、ハ◯ヒなんだから! もっと、ほかにもいっぱいあるよ?」

「う、うん。でも読みたい本、たくさんあるし」

「そんなの後で読めるでしょっ」

「ええっ?」

 オタクの悪いとこが出てる自覚はある。でもコレを逃したら、次いつラノベを推すチャンスが来るかわからない。

 私はお姉ちゃんのほっそりとした二の腕を掴んだ。

「もちろん無理強いする気はないよ? でも、わかってほしいの。ラノベを甘く見ちゃダメ。ライトノベルはスゴいんだ」

「あっ。ちょっ、ちょっと柚子。お姉ちゃん、もう。今日はそのフレーズ、聞きたくないかな」

 お姉ちゃんは、あからさまにウンザリしていた。軽くショック。私はパッと手を離す。

「なにソレ。どういうこと?」

「う、うん。……文芸部に、ラノベ好きの人がいてね。もうラノベのよさは、十分に教わったから」

「……ふうん」

 ラノベのよさというより、ラノベオタクの厄介さを十二分に理解したような口ぶりだった。それなら、いま攻めても逆効果だろう。相手の気持ちや都合を考えない、余計なことをするヤツがいたものだ。

「で?」

「え?」

「なんで急に、佐藤椰子の話? あ、そっか。部活中に佐藤先生のこと聞いたんだ?」

「う、うん。まあ」

 お姉ちゃんは唇をふにゃふにゃさせ、宙に視線をさ迷わせた。

「そう、実は……部員の人のツテで。その佐藤先生に、私の小説を読んでもらえそうなの」

「ええっ」

 私はベッドの上で、大きく仰け反った。

「えっ、え。スゴい。スゴいじゃん。……そんなことある?」

「う、うん。あったみたい」

 急に愛読書の作者が身近に感じられ、私は鼻息を荒くした。

「佐藤先生の知り合いがいるの? 同じ部に?」

 なんて素敵な偶然だ。しかも先生、お姉ちゃんの小説を読んでくれるって。夢みたい。チャンスがあれば、私もサインとかほしい。

「そう……うん、知り合い」

「スゲーッ」

 そっか。さっき部の人に読んでもらうって言ってたのは、言葉のアヤか。正確には部員経由で、佐藤先生に原稿を渡すってことね。それなら納得。

「ほら、前に少し話したでしょ? 私の隣の席の男子」

「……はぁ?」

 途端、自分でも信じられないくらい冷めた声が出た。

「ゆ、柚子?」

「あの、横目でチラチラお姉ちゃんを見てくるっていう、ムッツリスケベのこと?」

「う、うん。まあ」

 あり得ない。

 ただでさえ毎日お姉ちゃんをシカンしてる変態野郎が、お姉ちゃんと同じ部に?

 私はにこやかに告げた。

「明日。退部届、出そっか」

「柚子っ?」

「お姉ちゃん、その男に騙されてるんじゃない? ソイツ適当に甘いこと言って、お姉ちゃんの気を引こうとしてるだけだよ。私にはわかる」

「いや、柚子はそう言うけど。話してみると、割と普通の人だったよ?」

「お姉ちゃんわかってない! 一見まともなヤツが、ホントは一番危ないんだよ」

「そ、そう?」

「そうだよ。私にはわかる」

「う、ううん。そうかなあ」

 我ながら強引だけど、お姉ちゃんはピュアだから、このくらいゴリ押しで吹き込んどかなきゃね。ソイツに限らず、いつか悪い男に騙されそうでこわいし。お姉ちゃんと結婚するのは私だし。

 それにしても、隣の変態が佐藤椰子の知り合いだったとは。羨ましいし妬ましい。なによりコネをダシに、私のお姉ちゃんに近づくなんて許せない。

 なんとか排除できないかな。なにしろお姉ちゃんって頭はいいけど、だいぶ天然入ってる。あからさまなホラ話を鵜呑みにしたり、ネットや週刊誌のゴシップを間に受けたり。そういう危うい人だから、私がしっかり守らなくっちゃ。

 お姉ちゃんと同じクラスの男子文芸部員ね。あとは名前と顔。そして住所。もしくは通学路さえわかれば、竹刀ひとつでカタがつく。

「柚子? なにか変なこと考えてない?」

「……んーん? 別にぃ?」

 さすがお姉ちゃん、表情だけで私の企みに勘づくとは。姉妹の絆のなせるワザだ。

「さっきも言ったけど、私から頼んだんだからね。意見がほしいって」

「……お姉ちゃんの方から」

 つづいてお姉ちゃんは小声で、「あ、でも最終的には」なんて呟いていたけれど。重要なのはソコじゃなかった。

「どうして?」

「……どうしてって。なにが?」

「なんで、佐藤椰子に読んでもらえるよう頼んだの?」

「そ、そりゃあ。……相手はプロだし。こんなチャンス、滅多にないし」

 お姉ちゃんは口をすぼめ、まるで言い訳でもするように答えた。

「でも、あの先生が書いてるのってファンタジーラノベだよ? もっと言えばラブコメだよ? お姉ちゃんの作風と、全然ちがくない?」

 未来の女子高生作家、鳥川魚美大先生が手がけるのは青春サスペンス。初めて書いた『オーバーナイト・ハイキング』も、その後の数本もそう。味つけ程度にファンタジーやSF要素が入ることもあるけれど、その舞台はまず、地に足のついた現実世界だ。

「そもそもお姉ちゃん、いま私が教えるまで佐藤椰子のこと、少しも知らなかったじゃん」

「う、うん。それは……そうなんだけど」

 お姉ちゃんは言い淀み、口をつぐんだ。

 あ、マズい。

 いつものアレが発動する兆候かも。お姉ちゃんが小学校や中学校で孤立した原因のひとつ。突然まわりを無視するようにして黙り、考え込む癖。目の前でアレをされると、置いてけぼりを食った気持ちになって、スゴく寂しい。おっかない。それは唯一、私が苦手としているお姉ちゃんだ。

 しかし幸い、お姉ちゃんは数秒で、また口を開いた。

「そうだね。最初は、とても腹が立った……と、思う」

 私は内心ホッとしながら訊ねる。

「隣の男に? 佐藤先生に?」

「……えと、隣の」

 そりゃそうか。この時点でお姉ちゃんが佐藤椰子に怒る理由はない。なんだろう。その男子、知り合いに作家がいるって自慢してきたのかな。もしくはセクハラとか? 後者なら、マジで万死に値する。

「でも、その……なんでか。気づいたら私、思ってたことと別のことを口走ってたんだよね。たぶん、その人が。その人も。小説のことを、好きそうだったから」

 そのとき、私はこわくてなにも言えなかった。お姉ちゃんが熱っぽい、まるで恋する乙女みたいな表情をしていたから。

「同い年で……小説の話ができそうな人、初めて見つけたんだ」

 私は砕けんばかりに奥歯を噛みしめ、言いたいことを呑み込んだ。

 ホントは邪魔をしたい。その男子を闇討ちしたい。だって、お姉ちゃんは私のだから。でも、なにより私は、お姉ちゃんに嫌われたくないのだ。

「仲良くできると、いいねえ」

「……柚子、どうして泣いてるの?」

「ううん、なんでも」

 私は目元をぐしぐし擦り、涙を拭った。

「だけど。そしたら尚更、佐藤先生の本は読んどくべきじゃない? 批評してもらうんだし、礼儀としてさ」

 私としては、割と真っ当なことを言ったつもりだった。しかし、お姉ちゃんは口を尖らせる。

「いいの。向こうより先に私が読んだら、なんだか負けたような気持ちになる」

「おおお、さすがお姉ちゃん。強気でかわいい!」

 やたら頑な。これが女子高生作家になる人の自意識かあ。本来なら、一高校生がプロの作家先生に向けていい対抗心じゃない。だって失礼すぎるもん。でも、お姉ちゃんなら許せちゃう。私が許しちゃう。精神的に向上心のない者はアレだって、むかしの本にも書いてたし。

 でも落ち着いて考えてみると、佐藤椰子に作品批判をされるのって、リスク高くないかな。なんか、やたら尖ってる、遠慮なさげなイメージなんだよね。ちょっとそう思ったものの、向こうはプロだ。さすがに、子ども相手に噛みついてくるようなことはしないか。

 だったら、ひとまず様子を見守ろう。

 私がお姉ちゃんの小説の、最初の読者。最初のファンなのに。私が一番、お姉ちゃんの小説を好きなのに。私がこの世で一番お姉ちゃんを愛してるのに。そういう気持ちはあったけど、口に出しはしなかった。

 お姉ちゃんの幸せが、私のなによりの幸せだから。

 隣の変態だって、所詮はメッセンジャーボーイ。お姉ちゃんと同じレベルで小説談義をできるはずがない。話を多少合わせたところで、どうせ、すぐメッキが剥がれるに決まってる。つーか剥げろ。いっそハゲろ。決めた。これから毎晩、そう祈りながら眠りにつこう。


 それからの数日、お姉ちゃんはホントに楽しそうだった。佐藤先生に原稿を受け取ってもらえたとか、ギャルっぽい先輩にオススメの本を教えてもらったとか。

 私はそんな取り留めのない話を何度も夢中で聞いた。内容はともかく、お姉ちゃんの幸せそうな顔と声だけで、ご飯三杯はイケるから。


 そして少し経って、六月上旬。返ってきた中間テストの答案をお母さんに見つからないよう、どう処分するかで、私が頭を悩ませていた夕方。

 お姉ちゃんは帰宅して早々、こちらの顔を見るなり鞄をぶんぶん振り回し、かつてないほど嬉しそうに、「佐藤先生の批評をもらえたよー、これから読むのーっ」っと笑った。

 複雑な感情を抱えつつ、私もお姉ちゃんの喜ぶ顔が見られて嬉しかった。


 でも。


 そして。


 そうして。


 翌日、お姉ちゃんは学校を休んだ。

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