第三話 青くて痛くてチョロい

「シオちゃん、現役のプロ作家なんだよ」

 失敗した。

 僕は部室のパイプ椅子に腰かけたまま、大いに悔やんだ。

 僕の本職については、あらかじめヒー姉――いや、文芸部部長にキツく口止めをしておくべきだった。しかもバレた相手は、よりによって鳥川魚美。おそらく、いまだ小説家を志している原石だ。

 鳥川さんが一体どれほどの書き手なのか。そして、どんな作品を書くのか。まったくもって僕は知らない。しかし、あの思い切った自己紹介からして、彼女には相当な自信があったのだろう。それが撃沈し、打ちのめされ。その上、とはいえ、一応は新人賞をパスして世に出ているプロが、実はずっと教室の隣の席にいましたよーっと。いま鳥川さんは、そういう状況なわけだ。

 もし自分が同じ立場だったら――想像だけで寒気がする。

 おのれ部長め、本当に面倒なことをしてくれた。鳥川さんの事情を知らなかったにしても、あんまりだ。なんのために世の作家たちがペンネームを名乗るのか、よく考えてみてほしい。

 そもそも作家とは、読者を喜ばせるためだけに己の内面を吐き出し、燃料とする職業だ。自分の中の甘さや純情、青くささ。なにかを愛しく思ったり、怒りに燃えたりする気持ち。あるいは、醜かったり汚かったりグロかったりする恥部。さまざまな思想、感情。性癖や変態性すら赤裸々に曝け出し、使。ときには心の奥底に沈んだ、無自覚のおりさえ汲むことも。作者や作品によって多寡はあれども、その献身こそが物語の核を形作る。読み応えや醍醐味を生む。それがない作品はゴミだ。

 業の深さゆえ、作家は読者に不快感を与えることが間々ある。場合によっては反感を買い、叩かれる。だから通常、身バレには細心の注意を払わねばならない。

 僕もラノベ作家として活動している件は、部長のような一部の近しい相手や身内にしか伝えていなかった。いずれ学校には報告する必要が出てくるのだろうけど、余計な手間が増えそうなので、できる限り先延ばしにしたいと考えている。

 僕は鳥川魚美とはちがう。作家であることを周囲にひけらかそうとは思わない。一時の承認欲求や自己顕示欲を満たすため、肝心の執筆作業に弊害が起きては元も子もないからだ。

 そういうのは、中学のときに懲りていた。

 なので現在、つくづく部長が恨めしい。こういうところがあるから来海緋衣子は油断できない。退部した先輩たちには一言も漏らさなかったのに。

 うっかり僕の正体をぶちまけたドジっ子は、こちらが睨みつけると、ソファの上で苦笑い。その隣の鳥川さんは佐藤椰子の新刊を手に、なぜか口角を上げたままフリーズしていた。笑っているのか怒っているのか、よくわからない。だけどイヤな気配だけは、ひしひしと感じる。

 反省や後悔はあっても、僕自身に非があるわけではない。そう思いたい。でも、もし鳥川さんが逆上したら、なにをされても不思議じゃなかった。このまま、ここにいるのは非常にマズい。

 だから試しに、

「僕ちょっとお腹が痛いから帰るね」

 なんて、ポツリと言ってみた。

 我ながらアホ丸出しだなあと思ったが、誰からも咎められはしなかった。鳥川さんに反応はなく、部長に至っては、「あ、そーなの? お大事にー」などと返してくる始末。おかげで僕は、無事に部室から出ることができた。

 しかしタイミング悪く、廊下で知った顔と鉢合わせてしまう。真面目ぶった、お固い女子。僕らのクラスの学級委員だ。

 言ってから、しまったと思った。意識せず声に出していた。

?」

 茶道部部室のドアに手を伸ばしかけていた彼女は、途端に眉を吊り上げる。そして僕の方へ、つかつか歩み寄ってきた。

「外では、その名前で呼ぶなって。何度言ったらわかる?」

「あ、ああ。ゴメン。つい」

 これじゃあ僕も、部長のうっかりを非難できないな。

 目の前の女子が親からもらった名は、佐藤メイプル。自称はカエデ。普段は冷めた風だけど、コンプレックスであるキラキラネームに触れると、すぐさま機嫌が悪くなる。

 一応、僕の双子の妹だ。

「こんなところで、なにしてるんだ?」

 そう訊ねると、楓は「はあ?」と嘲るような声を発した。

「茶道部員が部室の前にいるのが、そんなに珍しい? 記憶力だけじゃなくって、想像力も観察力も乏しいよね。作家とか言ってる割にさ」

「ぐう」

 普段は優等生を気取っているが、楓は僕の前では大体こんな調子だ。黒木田よりも愛想が悪く、カミツキガメより気性が荒い。きっと、双子なのに自分だけ変わった名前なのが気に入らず、僕が恨めしいのだ。正直、そういう不満は親にぶつけてほしかった。

「いまから部活に参加ってのが、遅いと思っただけだよ」

 さっき僕らが部室の前で揉めてから、ゆうに三十分は経っている。

「日誌を提出しに行ってたの」

 楓は溜息混じりに答えた。

「ああ、そういえば日直だったか」

 昨日は僕が務めたのだし、出席番号順から鑑みても今日はコイツの番だった。

「それだけじゃなくって、生徒会も。委員会の会議の準備だって。私はアンタとちがって忙しいの。好きなことだけやってるわけじゃないの」

「ああ、はいはい。偉い偉い」

 久しぶりに言葉を交わした兄に対して、この言い草。こちらも腹が立ってきた。

「さすがの優等生さまですね。……入学式でも新入生代表の挨拶、バッチリ決めてたよなあ。どこぞの入試首席者が辞退した挙句の、代理のくせしてさ」

 楓は眉をピクリと動かした。コイツには、この手の安い挑発がよく効く。

「ろくに勉強もしない、小説ばっか書いてる単細胞に、なに言われたって怒る気しないよ」

「……いま僕が書いているのはライトノベルだ」

 何度言っても覚えやしない。単細胞はどっちだ。

「どうでもいい。アンタ自体に興味ないから」

「そうかよ」

 もう一回、本名で呼んでやろうか。そう思って口を開きかけた瞬間、うしろから、勢いよくドアの開く音が響いた。

 つづいて女子の、「うおっ」という素っ頓狂な声。

「あっ」

 僕は己の迂闊さを恨んだ。廊下に出たことで安心して、逃げている途中なのを忘れていた。低次元の兄妹喧嘩に没頭していた。

 振り返って確認。やっぱり、あの子だ。

「やあ、鳥川さん」

 なんとか穏便に場を収めたい一心で、フレンドリーに呼びかける。「敵じゃないよ」と意思表示。

 けれど僕を追ってきたらしき鳥川魚美は、もはや不吉としか言い表せない怪しい笑みを浮かべていた。しかも笑っているのは口元だけで、長い前髪と眼鏡の奥の瞳は、かわいく言えばジト目。ズバリ言って三白眼。顔が整っている分、妙な迫力がある。

 彼女はゆっくり口を開いた。

「佐藤潮くん」

 不安が募る。なにを言われるんだろう。なにをされるんだろう。

 この身長と体格差だ。男と女だ。最悪もし殴られても、そんなに効きはしまい。だけど僕は楓にも部長にも、そして黒木田五十鈴いすずにも、シメられたことがあるんだよな。

 怯える僕に対し、鳥川さんのセリフは予想外のものだった。

「私を弟子にしてください!」

「……ええ?」

 どんな誹謗中傷が飛んでくるかと思えば。なにを言い出すんだ、この残念美少女は。

「あっ、いや。……ちがうんです。いまのは」

 彼女がハッとなって失言を取り繕おうとする最中、

「ねえ、鳥川さん」

 二の句が継げずにいる僕を押しのけ、楓が文字通り、割って入ってきた。その際、こちらの足をしれっと踏みつけていったが、僕には文句を垂れる心の余裕もない。

「あっ。……か、かかっ。かえ」

 鳥川さんは楓に話しかけられた途端、わたわた、もたもた。さっきまで纏っていた不穏な空気が緩んだ。

「カエデ。佐藤カエデ」

「……う、うん。か、カエデちゃ……カエデさん」

 そう言って、照れくさそうに俯く鳥川さん。一方、クラスメートに堂々と偽名を名乗った学級委員の態度も、僕とふたりきりだったときに比べ、随分と穏やかになっている。

「大丈夫? この人に、なにかされた? 怪しい飲み物でも飲まされた?」

「オイやめろ」

 ただでさえ、少し前に妙な誤解を受けたばかりなのに。

 ダメだ。コイツがいると絶対ややこしくなる。

「鳥川さん」

 僕は楓の肩越しに、件の美少女へ声をかけた。

「ひとまず部室に戻ろうか。落ち着いて話したいし」

 部室には口と頭の軽い能天気女子がいるけれど、この毒舌委員に口を挟まれるよりは百倍マシだ。

「う、うん。……えと、お腹は平気なんですか?」

「……ああ、もう大丈夫」

 仮病に決まっているだろう。いや、彼女なりの皮肉か?

 僕は数秒、腹痛を理由に帰宅することも考えたが、それでは楓のいる場に鳥川さんを残していくことになる。そんなのリスクが高すぎだ。いまの調子だと、なにを吹き込まれてもおかしくない。

 ふと、こちらの意図を察した楓が僕へ振り返り、犬歯を剥き出しにしてきた。素でこわい。肉親に向けていい表情じゃない。黒木田といい勝負の、凶悪なガン飛ばし。

「なんだよ。まさかお前、鳥川さんのこと狙ってんのか?」

 僕が小声で訊ねると、楓はビクッと身を震わせた。

「そそそ、そんなんじゃない。勘違いしないで。ただ、彼女をアンタと密室でふたりきりにするのが心配なだけ。学級委員として」

「……あー、そう」

 どいつもこいつも、僕をどんなやつだと思ってるんだ。

「安心しろよ。中にヒー姉もいるから」

「あ、そうか。……よし、それなら行っていい」

「なにさまだ」

 楓は実の兄なんかより、校内で無防備に脱ぐような危うい姉貴分の方を信頼している。微妙に納得いかないけれど、いまはコイツを排除できるだけでもよしとしよう。


「おー、おかえりー」

 緊急避難のため部室へ舞い戻った僕らをのんびり迎えたのは、もちろん無責任な年長者。ソファに寝転がり、佐藤椰子の本をパラパラ捲っている。お買い上げありがとうございます、とは言いづらい状況だ。

 僕は我が部の部長を無視し、彼女に背を向けてパイプ椅子に腰かけた。

「じゃあ、そっち座って」

「は、はい」

 鳥川さんにはドアに近い方の椅子を勧めた。そうしてお互い、長机を挟んで向かい合う。

「それで。さっきの、どういうこと?」

「いや……その」

 鳥川さんは頬を赤くし、俯き気味に視線をさ迷わせた。そして、もじもじ、ぐずぐず。パーカーのフードは外れたままなので、彼女がからだを揺するたび、ふたつ結びの房がぴょこぴょこ跳ねる。

 先刻は殴られても仕方ない、くらいに思っていたけれど。そもそも鳥川さんは、こういう内気な女の子だった。僕のまわりでは見かけないタイプ。

 やさしく接しよう。そう僕は自分に言い聞かせた。

「私が、どうっていうより。……まず、そっちですよね」

「へ?」

 彼女は声を震わせながら、僕の背後をスッと指差した。

「アレ。あの本。さ、佐藤くんが、プロ作家って話」

 反射的に振り返る。当然そこには、部長が手に持つ文庫本。

 視線を戻すと、鳥川さんは淡い色の唇をきゅっと結び、目に角を立てていた。楓ほどの邪気や敵意は感じられない、どこか隙のある目つき。だけど眼鏡の奥の瞳は、真剣そのもの。どう楽観的に見ても、彼女は怒っている。

 もう誤魔化しようがない。僕は観念し、溜息を吐いた。

「うん。実は、そうなんだ」

「どうして!?」

「うわっ」

 悲鳴のような怒声に、思わずビクつく。鳥川さんって、こんな大きい声が出せたのか。

「にゅ、に、入学。入学した日。私に、教えてくれてたらっ」

「……いや、言わないでしょ。初対面の人に」

 ヘラヘラ笑って、「はじめましてー。僕ラノベ書いてるんだー、凄いでしょー」なんて。高校入学早々、普通言わない。あり得ない。ただでさえラノベ作家など、世間的には日陰者もいいところなのに。

「そ、それは。そうですけど」

「でしょ? そんなの痛すぎるよ……あっ」

 しまった。目の前の女子こそが、似たようなことを実践した当人だった。

 鳥川さんは顔を顰めた。かと思えば、口角だけをわずかに上げ、微笑んでみせる。苦しげながら勇ましい、これぞ痩せ我慢ってかんじの表情だ。故障の痛みを堪えて本場所に臨む力士みたい。つまり見ていてハラハラする。

「いや、ゴメン。キミのことを言ったんじゃなくて。……ホント、悪気はないんだ」

 僕は素直に謝罪した。できる限り、にこやかに。ところが鳥川さんは下唇を噛み、小さく俯く。怒りのためか、うっすら頬が赤い。

「そうやって、私のことバカにしてたんじゃないですか?」

「え?」

「……入学してから、ずっと。隣で私を笑ってたんですよね」

「……そんなことはしてない」

「ホントに?」

「誓うよ」

 僕は鳥川魚美を嘲り、わらったことはない。

 この一ヶ月、僕が彼女に対し抱いてきた感情は、あくまで憎悪に近い憤りだ。あとは異性としての不純……げふんげふん、純粋な興味。それだけ。

「わ、わかりました」

 こちらの誠意が多少は伝わったのか、鳥川さんは一応、納得してくれた。

 しかし彼女は上目遣いで、

「じゃあ……あの日、どんな風に思いました?」

「――は?」

「私の自己紹介。か、カッコよかったですか?」

 などと、つづけざまに訊いてきた。

 不安げな様子で。でも、どこか色よい返事を期待しているようでもあった。その表情は愛らしく、とても魅力的。だけど、僕の本心はこうだ。

 ふざけるな。

 小説を自己満足の示威行為に利用するような人間の、なにがカッコいいものか。

 いつもそうだ。常識も節度も客観性も持ち合わせていない紛い物たちの身勝手な言動で、本物のプロ作家や、真摯に小説家をめざしている人間が迷惑を被る。足を引っ張られる。イメージダウンさせられる。叶うなら二十四時間、声を大にして主張したい。ニセモノは去れ!

 とはいえ僕だって、ここ数年それなりに場数は踏んできた。こんな毒々しい気持ちをそのまま吐き出せば、軋轢が生じることはわかっている。だから、なるべくやさしい言葉で応えよう。

「正直、痛い子だとは思ってた」

 すると鳥川さんは目を瞑り、両手で頭を抱えだした。

「う、うぅー。ぐうう」

 喉の奥から漏れるような唸り声。かと思えば髪をわしゃわしゃ掻きむしり、細い身を限界まで捩る。キャパオーバーを迎えたか。あるいは、フラッシュバックでも起こしているのだろうか。

 どちらにせよ急に悪魔憑きみたいなムーブをされると、相手が稀に見る美少女な分、余計にこわい。

「だ、大丈夫?」

「ミーちゃん? どした?」

 僕らが心配して呼びかける中、鳥川さんは次第に落ち着きを取り戻していった。

「す、すみません。……はい、大丈夫です」

「いや全然ダイジョブじゃなかったよ?」

 さすがの部長もドン引きだ。

「えっと。……ここ、半月くらい。あの日を思い出すと、たまにやっちゃうんです。人前では気をつけてたんですけど。……あはは」

「それ相当ヤバくないか?」

 少なくとも笑いごとではなかった。バッチリ心的外傷を負っている。

 僕の返答がトリガーになってしまったのか。アレでも、言いたいことを精一杯抑えたのに。

「なに、どゆこと?」

 すでに部長はソファから降り、僕の横で様子を窺っている。気になるのは当然だ。この状況を作り出した一因ながら、いまだ蚊帳の外なのだから。

「実は、入学式のことなんだけど――」

 僕はなるべく鳥川さんに障りのないよう気を配り、部長にあらましを説明した。

「フォローしてやれよ!」

「ひえっ」

 姉貴分の鋭い一喝に、僕は堪らず身を竦ませた。

「ミーちゃん、かわいそうじゃんっ。なに隣の席で一ヶ月もボサーッとしてんの」

「……はい。ごめんなさい」

 先月、元部員らと対立して以来の説教だった。いや、あのとき以上の苛烈な叱責。そして、ぐうの音も出ない正論だ。おそらく小八木先生も、僕に同じことを言いたかったにちがいない。

「シオちゃんのこと見損なったわ! クラスメートに陰で〈雑魚美ざこみ〉とか〈雑魚ハ◯ヒ〉とか〈開幕メガ◯テ女〉とか言われてたミーちゃんの気持ちわかる? 不登校になってないのが不思議だよ? 奇跡だよ?」

「いや、あの。そこまでは言われてません。……たぶん」

 猛り立つ部長の言葉を、鳥川さんは小声で否定する。しかし残念ながら、。それを当人が知る前に止めさせたのは、学級委員である我が妹なのだけど。

 僕は、楓とちがって。鳥川さんの隣にいながら、本当になにもしなかった。陰口に乗りこそしなかったけど、ただムスッと黙り込んでいただけ。

 そうだ。作家がどうこう以前の問題。僕は己の感情を優先して、気弱そうな女の子の窮状を傍観していた。

 指摘されて初めて、ようやく自身の悪徳を実感する。自分が情けない。恥ずかしい。楓が鳥川さんをこんな男と一緒にさせたがらないのも、頷ける話だ。

 それにしても、随分と例えが具体的かつ的確だった。もしかして部長は。

「ミーちゃん辛かったねー」

 部長の慰めに、鳥川さんは「は、はいぃ」と控えめな返事。そして再度、手招きに応じる。

 ふたりは僕を置いてソファへ引っ越した。部長は傷心の新入部員を抱き寄せ、「おー、よしよし」と頭をやさしく撫でている。されるがままの鳥川さんは無意識なのか、部長の豊満な胸の辺りに手のひらを這わせていた。非常に羨ましい。

 僕もそっちに座っちゃダメかな。三人がけだし、スペースは十分に余っていると思うのだが。

 いや、反省していないわけでも、疚しい気持ちで言っているわけでもなくて。ひとり固い椅子の上に取り残されているせいか、鳥川さんどころか幼馴染みにまで距離を置かれたような心境なのだ。なんというか、寂しい。具体的には人肌が恋しい。僕もぬくもりがほしかった。

「で? ミーちゃんはシオちゃんに、どうしてほしいって?」

 僕が不届きなことを考えているうち、部長は話を戻した。

「は、はい。あの……失礼します」

 鳥川さんは身を起こし、部長の愛撫と豊かな肉づきから離れる。なんて遠慮深く、貞操観念の強い美少女か。その慎ましやかな胸の内は、抗いがたい葛藤でいっぱいだったろうに。

 彼女は眼鏡の位置を両手の指で微修正してから、僕と部長の双方に向かって語りだした。

「さっきの。……弟子って言うと、大袈裟だったかもですけど。つい、はずみで言っちゃっただけなんですけど」

「うん? ……うん」

 部長が首を傾げながらも相槌を打つ。弟子入り志願については、さっきの廊下での出来事だから、まだこの人には伝えていなかった。

「佐藤くん、小説書いてるんですよね」

 鳥川さんは確認するような口調で訊ねてきた。

「まあ……うん。小説っていうか、ラノベだけどね」

 僕的に、そのふたつは別物だ。

「私も、実は。……小説、書いてるんです」

「いや知ってるけど」

 勘弁してくれ、また一からやり直しになってしまう。そんな気持ちもあって、つい声を尖らせてしまった。

 意思の疎通がままならず、お互いぎこちない。会話下手同士の弊害か。彼女にリラックスしてもらうため、おどけて「僕とキミは同クラなのだぜ?」なんて言ってみようかと思ったけれど、部長が睨んでいるので断念した。まあ不謹慎だし、やめておいて正解だ。真剣に話している相手を茶化すべきではない。

「あっ、あの。だから」

「うん?」

 鳥川さんは膝の上で、細い指をもしょもしょと組んだり揉んだりしていた。

「私も……だし」

「え?」

「だから、あの。私も、小説書いてるし。せっかくだからプロの人に、私の原稿を読んでもらえたらなあって。思って。……思いまして」

「……で?」

「えっ」

「プロに読んでもらったら、なんなの? キミの原稿の、なにが変わるの?」

「え、えっと」

「……シオちゃーん?」

 部長が甘い声でサインを送ってきた。抑えろと、それ以上はやめておけと。目でも訴えている。

 危ない。我知らずヒートアップしていた。

 僕にとっては地雷なのだ。小説を自己アピールに使うような相手と、同列扱いされることは。

 彼女のことを不憫に思っている。負い目もある。だけど小説に関してだけは譲れない。我ながら浅ましく、そして業が深かった。

「いや、ゴメン」

「そ、それでっ」

 僕の謝罪と鳥川さんの声が被った。

 彼女は咳払いした後、こぶしを握り、勇気を振り絞るようにして言う。

「あっ。あ、あ。頭打ちなんです、私の小説。ひとりだと、これ以上どこを直せばいいのか、よくわからなくって」

「……うん」

 ただの相槌だったが、僕に先を促されたと思ったらしい。彼女は早口でつづけた。

「新人賞の……選考をしてた編集さんに、アドバイスはもらったんですけど。自分的には、しっくり来なくて」

「なるほどね」

 国内最高峰と言っていい賞の最終選考ノミネートだ。やはり直接、連絡はもらっていたのか。

 その上での意見の不一致。食い違い。どんなに彼女が有望で、そして編集者が優秀だったとしても、そういうことはあるのだろう。

「だから、ほかの方の意見がほしいと思ってたんです。でも私、作品づくりについて相談できる相手、いなくって」

「そっか。事情はわかったよ」

 気持ちもわかる。はじめは弟子だとか言われて驚いたけど。要は彼女、アドバイザーがほしいということか。

「でも悪いけど――」

「待って?」

 僕の言葉を遮ったのは、しばらく黙っていた部長だった。彼女は怪訝な表情を浮かべ、僕らふたりの顔を見る。

「あー……ゴメン、話の腰折っちゃって。でも一応、確認さしてね? ……ミーちゃんがいいとこまで行ったのって、あの大きな賞なんだよね? 小説書かないアタシでも知ってるような、本格派の」

「は、はい」

 鳥川さんは気恥ずかしそうに頷いた。

「アレってさー、現役の作家センセーらも応募してきてるよね。もちろん、売れっ子とは言いがたい人ばっかなんだろうけど。何冊か本を出した上で、箔を付けようとしてるー、みたいな」

「は、はあ。そうかも、知れません」

「まあ、それはザラにある話だよ」

 商業小説の世界は厳しい。仮に新人賞を受賞し、首尾よくデビューに漕ぎつけたとして。胸を張ってプロ作家を名乗れるかと言ったら、微妙なところだ。そこはまだスタート地点に過ぎず、食べていける保証もない。

 特にこのご時世、書籍自体が売れないのだ。実力や熱意はあっても、世情の煽りを受けて芽を出せずに終わる作家など、山ほどいる。僕だって幸いデビュー作をシリーズ化してはもらえたけれど、いつ干されてもおかしくない。

 そこへ行くと、売れっ子予備軍というか。もっと跳ねたい、返り咲きたい、ビッグタイトルがほしい。そう意気込む勇猛果敢な商業経験者たちを押しのけ、この歳で最終候補にまで残った鳥川さんは、実はとんでもないことをやっている。相撲で例えると、幕下付け出しの力士が初土俵で優勝に肉薄したようなものだ。

 有望新人を前にして、部長は不思議で仕方ないという風に首を傾げた。僕みたく憤りを抱えているわけでもあるまいに、この人は一体、鳥川さんのなにが気に入らないのだろう。

「そんな立派な実績があんのに、シオちゃんが師匠でいいの?」

 僕かよ。

「えっ。ど、どういう。だって佐藤くんは、プロ作家なんですよね?」

 鳥川さんは、わけがわからない様子だった。

 一方、部長は重々しい態度で応える。

「ミーちゃん。シオちゃんは、プロのなんだよ」

「……あっ」

 鳥川さんはハッとなって口を押さえた。

「ふたりとも、いますぐ全国のラノベ好きに詫びてくれ」

 なんだよ、「あっ」って。

「いやー、もちろんラノベ自体が悪いわけじゃないんだけどさー。……ミーちゃん、まだシオちゃんの本、ちゃんと読んでないっしょ?」

 部長はローテーブルの上にあった文庫を掴み、改めて鳥川さんに渡した。

「ほら、『ルウちゃん大奇行』。この三巻だけで、ヒロインのパンチラシーンが三回もあんの。よくSNSでも、『活字媒体のくせにイラストレーターの力に依存しすぎ』ってイジられてんだよ?」

「えっ」

「や、やめろーっ!」

 堪らず僕は悲鳴を上げた。

 そうなのだ。

 心の内では、それっぽく『作家とは――』なんて想いを巡らせ、日々悶々としている僕だけど。その実、作風自体は低俗もいいところである。

「やっぱりライトノベルって、そういう内容ばっかりなんですか?」

 鳥川さんは拙作をパラパラ捲りながら訊ねた。どうやら彼女、ラノベそのものに疎いらしい。

 羞恥に身を震わす僕より早く、部長が答える。

「全部のラノベがそうってわけじゃないけど、フツーにある描写だねー。一般文芸しか知らない人には、抵抗あるかも」

 その意見には、概ね賛成。

「ターゲット層のちがい。つまり嗜好の差だよ。小説とラノベでは、読者から求められているものが異なる」

「は、はあ」

 純文学が世の人に芸術作品として愛でられているように。

 大衆文学が幅広い年齢層に受け入れられているように。

 ライトノベルは、おもに十代二十代の若い読者から支持されている。それだけ、ほかの活字本とは一線を画するエネルギーが込められているということだ。

 かつて僕は小説家をめざした。しかし、憧れの地には立てなかった。悔やんだ。悔しかった。そんな中、次善の策としてラノベを書いた。いまとなっては舐めきった話だけど、それが運よく賞に引っかかり、デビューできたのだ。この業界は。いや、人生は。なにが起こるかわからない。

 そして受賞後、そこで生き残るため勉強していくうち、僕はラノベが読者へのサービス精神に溢れた奥深いメディアであることを知り、驚愕した。いまでは、ラノベなんてとバカにしていた過去の自分を殴りたいくらいだ。

「一般文芸とライトノベルはちがう。全然ちがう。でも、そこに優劣はない。どちらも魅力ある、かけがえのない娯楽媒体なんだ」

 それが僕の、いまの結論。

 僕が作家を志すキッカケとなった、憎き魔女。今現在、もはや大衆文芸界の一翼を担いつつある才媛。あの人は僕の本気を知って以来、小説のイロハを叩き込んでくれた恩師でもあった。

万田まんだりん

 小学生男児を長期休みのたびに軟禁し、容赦なくシゴきまくったヤベー女。

 同時に、そこまで僕に期待をかけてくれた、唯一無二の師匠。

 そんな彼女は別枠として。一般文芸の作家たちも、ラノベの歴史を作ってきた先達も。僕にとっては、みな羨望と尊敬の対象だ。彼らのおかげで佐藤椰子は存在しているし、彼らの手がけた作品なくして、この地上に光はない。

「シオちゃん。しみじみしてるとこ悪いんだけどー……論点がズレてきてる」

「え?」

 僕は我に返って幼馴染みの顔を見た。

「いまアタシが問題にしてるのは、ラノベそのものじゃなくってさ。あくまでシオちゃん個人ね?」

「ぐう」

 部長のもっともな指摘に、僕は黙らざるを得なかった。

「まー、むしろシオちゃんの本、ラノベの中では文章力高い方よ? ストーリーもしっかりしてる。そういう意味じゃあ、ミーちゃんの力になれると思うけどー」

「……けど、なんだよ」

 身近な読者の有り難いお言葉の先を、僕は恐る恐る促した。

「読者サービス多めの割にエッチな描写が拙いわ、バリエーション少ないわで、よく『作者絶対童貞』ってネタにされて」

「ヒー姉っ」

 こちらの悲鳴に、部長はペロッと舌を出して応える。さては楽しんでいやがるな。

 僕は肩を落とした。そして、気まずげに様子を窺っている鳥川さんへ向けて言う。

「まあ、うん。……正直なとこ、僕に一般文芸で生き抜く力はないし。かと言って、ラノベ作家としての適性があるかも疑わしい」

 不器用で頭でっかち、宙ぶらりん。師匠に恩も返せぬまま逃げ出した、役立たずの腰抜けチキン野郎。そのくせ、あつかましく末席を汚す、木っ端に等しいラノベ作家。それが佐藤椰子だった。

「だから僕は、偉ぶって人の作品に口出しできるような作家じゃない」

 ましてや、承認欲求過多とはいえ。僕や師匠の掲げる〈本物〉の定義に当てはまらないとはいえ。下手をすれば鳥川さんは、金の卵かもしれない作家志望者。その作品に批評など、とても。

「ん?」

 アンニュイな気分に浸っている僕の前で、部長が鳥川さんに耳打ちしている。

「どうかした?」

「あ、いえ。……えっと、はい」

 何事かを囁く部長に向かって、鳥川さんは頷いた。そして僕の方を見て、

「じゃあ佐藤くんだと、の目利きはできないってことですか」

「……そうだね」

 ちくりと刺さる言葉。部長め。無垢な後輩に、なにを言わせてんだ。

「それは……畑違いなのに、無理を言ってすみませんでした」

 僕の謙遜をストレートに受け取った鳥川さんは、ぺこりと頭を下げる。

「い、いや。まあ」

 忸怩たる想いを抱えて同調しかけた瞬間、顔を上げた彼女と目が合った。その失望の眼差しが、僕の中のなにかを刺激する。

「でもさ!」

 胸の内に燻る、一欠片の燃え滓。それは矜持か、意地か、情熱か。

「言ってもプロだからね? 鳥川さんより経験あるし、助言くらいはできると思うよ」

 うっかり感情に任せ、僕はそんなことを口走っていた。

 鳥川さんは眼鏡の奥の瞳を輝かせる。しかし隣に手の甲をポンッと叩かれ、すぐさま真顔に戻った。

「いえ、いいですよ。悪いですよ。だってラノベって、小説とは別物なんでしょ」

「できるって言ってるだろ!」

「わっ」

「シオちゃーん、ボリューム落としてー」

「あ、うん。悪い」

 差別的な物言いをされ、ついカッとなってしまった。ちがうのだ。僕も同じことを言いはしたが、ニュアンスがちがう。ラノベだって凄いのだ。

「あの、その」

 鳥川さんは僕と部長を交互に見返し、不安がっている。

「僕が言いたいのは。ライトノベルを軽んじないでほしいってこと」

 僕のことはいい。でも、ラノベを舐めるな。よりによって作家志望者が、ライトノベルを侮るな。そんなバカは、むかしの僕だけで十分だ。

「え。私、そんなつもりは」

「ライトノベルは凄いんだ」

 僕は取り繕う彼女をぴしゃりと押さえ、持論を語った。

「ラノベほどエンタメ性に長けたメディアはないよ。とにかく、とことん読者の感性を刺激するものばかりだから。燃え、萌え、ファンタジー、SF、学園モノ、ハードボイルド。ジャンルもウリも、なんでもあり。古くから、作品によってはフォントをいじってインパクトを与えるなんて手法も見られる。ああ、これはもちろん反則的な奇手だけどさ。つまり創意工夫の幅が他所とは別次元。わかる?」

「え、ええ」

「よく引き合いに出される話だけど。文章力の平均値は、一部の例外を除けば圧倒的に一般の方が上。それは認める。でも、ちょっと考えてみて? 文章力の低さは敷居の低さ。平易な文章だからこそ、より多くの読者を楽しませることができるんだ」

「えと」

「ミーちゃん、適当に返事しとけばダイジョブだよー。こういうときのシオちゃんは、勝手にしゃべりつづけるから」

「は、はい」

 なんだか心ないことを言われたようだが、気にしている場合ではなかった。なぜなら完全にスイッチが入っている。厄介オタクの血潮が滾る。

「たしかに鳥川さんの挑んだ賞は権威あるものだし、たぶんキミ自身、相当に書ける人なんだろう。でも、ことエンタメ性において、キミは一線級のラノベ作家たちの足下にも及ばないんじゃないかな。だってラノベはエンタメの教科書だよ? 必読書だよ? それをろくに知らないなんて、不勉強だよ」

 勢い任せに、こんなことまで言ってみる。鳥川さんは少しムッとしたようだったけれど、反論してはこなかった。

 部長は「スゲー早口で語るじゃん」とケタケタ笑っている。

「ライトノベルって、そこまでのものなんですか?」

 真顔で訊く鳥川さんに、僕はしっかり頷いた。

「小説もラノベも、読者を楽しませてナンボでしょ。特にラノベはサービス精神旺盛で、そこに関しては――」

 僕は捲し立てた。あらん限りの言葉を尽くした。

 きっと鳥川さんには引かれているだろう。でも止められない。止めたくない。

 その衝動は、彼女に対する複雑な心情とは無関係だった。

 ただ、知ってほしかっただけ。小説は凄い。でも、ラノベだって凄い。それを伝えたかった。どちらも、僕の人生に光を灯してくれた存在だから。

 部長が鳥川さんの手を再び叩く。まるで、なにかの合図みたいに。

「わ、わかりました」

 鳥川さんは、こちらの主張を受け入れてくれたようだ。本当にわかってくれたのなら、僕は嬉しい。

「そこまで言うなら。明日、原稿持ってきますね」

「うんっ。……ん?」

「わーっ、よかったねシオちゃん」

 引っかかるものを感じた僕に、部長が畳みかけてきた。

「ミーちゃんが小説読ませてくれるってー」

「う、うん。……ありがとう?」

 あれっ?

 なんか、おかしい。立場が逆転してないか?

 これだと、まるで僕が鳥川さんに縋って、彼女の小説を読ませてもらいたがっているみたいじゃないか。

 ほうっと安堵した風な鳥川さんの横で、ひとり爆笑している来海緋衣子。しまった、乗せられた。この人お得意の、悪徳商法まがいの手口だ。

 しかし僕は苛立ちながらも、話を強引に覆そうとまでは思わなかった。

 鳥川魚美。鼻の折れた天狗。クラス一の爆弾女。自業自得のトラウマを抱える残念美少女。これまで僕は極力、彼女とかかわり合いになるのを避けてきた。けれど、彼女の書いた小説に興味がないと言えば嘘になる。

 だから、とにかく。そういうことになった。なってしまった。


 鳥川魚美の入部。そしてラノベ作家〈佐藤椰子〉による、彼女の原稿への批評。このふたつが文芸部内で確定した日の夜、あいにく僕には状況を整理する余裕などなかった。担当編集者に提出していた新作の初稿が、真っ赤になって返ってきたからだ。

 真っ赤とは、いわゆる『赤が入った』状態。過去一の自信作だった原稿には、誤字脱字や文法的間違いの指摘はもちろん、こと細かく記された修正案までもが、びっしり添えられていた。

 デビュー作以来の新シリーズ、その第一巻――となる予定の作品。入念な打ち合わせののち、心血注いで仕上げた原稿には、自分なりに手応えがあった。それがまさか、こうも無惨な姿で戻ってくるとは。

 。皮肉でも虚勢でもなく、心の底から有り難い話。僕のような小童の作品に、その道のプロたちが全力で当たってくださっている。暗中模索していた作家志望者時代と比べれば雲泥の差だ。

 もちろん師匠だって、頼めば快く添削してくれた。だけど彼女の場合、いつも悪口雑言のオマケつき。この人たちには、それもない。僕の知っているプロとちがう。やさしい。好き。

 商業小説もライトノベルも、けっして独力では作れない。というか成り立たない。デザインや印刷、装丁、営業、販売。それら以前の段階から、複数の人間の手が入る。なぜなら自作を百パーセント俯瞰して見ることなど、何者にも不可能だから。クオリティ向上のため、他人の意見は必須。毎回ゲラを受け取るたび、そう実感する。

 無論、原稿を滅多打ちにされるのは辛い。自信があった分、特に今回の反動は大きかった。けれど指示を参考に手直しすれば、よりよい内容になるという確信。その歓喜が苦痛を凌駕する。

 結果、遅い時間まで改稿作業に専念。師匠に鍛えてもらっていた時分、「徹夜はするなよ」と口酸っぱく言われたものだが、僕は不肖の弟子どころか落ちこぼれ。やれるときにやっておかねば、とても作家として立ち行かない。第一、目の前の赤い原稿をほっぽって安眠できるプロ作家など、この世にいるものか。そんなやつは作家どころか人間じゃない。

 しかし、どれだけ意志を強く持とうとも。たしかな喜びがあろうとも。作業は単純にしんどい。校正者による添削はともかく、特に担当編集者の意見が僕をさいなんだ。頼りにしている編集女史から、「佐藤さんの武器は文体ですけど、なるべく地の文は削りましょう」とか、本人も自覚している稚拙なお色気描写に対し、「この緩急差がいいですね。もっとページを使いましょう」とか。そういう矛盾めいたアドバイスをしこたまもらえば、僕でなくとも戸惑う。

 一応、向こうの言いたいことはわかっている。

「もっと読者を意識しろ」

 これに尽きる。

 地の文を減らし会話文を増やすことは、とっつきやすさと読みやすさに繋がる。そしてお色気シーンは読者サービス。作風を崩さぬ範疇でなら、多いに越したことはない。ライトノベルは若い読者層がメインターゲットなのだから、どちらも当然の方針だ。

 意図は明確。しかし時に婉曲的な、その道のプロからの助言。これらを汲み取り、血肉とし、そして今後に活かす。

 言うだけなら簡単だよな。

 プロの改稿作業はシーソーの連続だ。どこまで編集者の言葉を受け入れるか。あるいは、どこまで自分の直感を信じるか。この見極めが重要となる。もし一から十まで先方に従ったとして。結果、数字に繋がらなかったら、あっという間に失業だ。それはそう。だって経過はどうであれ、そう書くと決めたのは作者自身なのだから。全責任は作家側にある。

 ちなみに編集女史曰く、初稿の段階で校正の手が入ることは、このレーベル内では稀らしい。それだけ僕が気にかけてもらえているのか、あるいは信用されていないのか。そこはこわくて訊けなかった。結果を出せなければヤバい。それだけはわかる。

 つくづく思う。かつて憧れから目を背けて逃げ出した僕の、新しい居場所。ライトノベル業界は奥が深い。甘くない。だからこそ、やりがいがある。

 苦しいが、楽しい。そこにも矛盾はない。苦痛と愉悦が両立する。なんてイカれた世界だ。

 この世界に爪痕を残す。

 想い焦がれ、辿り着けなかった場所でやりたかったことを、今度こそ成し遂げる。それが僕の今現在の目標だ。


 徹夜が祟り、翌日は朝から、ひどく眠かった。疲れていても進捗さえよければ心は軽いが、まだ活路を見出せず苦戦している。だからこそ登校中も、作業の余韻で頭がいっぱいだ。

 こういうとき、高校まで徒歩五分のマンションは本当に助かる。おおまかにでも通学路を覚えれば、ぼーっとしていても足が勝手に連れていってくれるから。この点に関しては、部屋を貸し与えてくれた師匠に感謝だ。小学生の頃に何度か軟禁された現場でもあるので、そこは少し複雑だけど。

 やがて僕は校門を抜け、肩や首の強張りをほぐしながら教室へ入った。

「おう、ウシオ」

 まだ予鈴まで余裕はあったが、すでに左隣の席には黒木田が座っている。僕も自分の席につき、のんびり挨拶を返した。

「おはよう。珍しいな、こんなに早く登校してるなんて」

「うるせー」

 本当に珍しい。コイツは遅刻こそしないが、いつも時間ギリギリ。それも天賦の美貌が台無しの、眠気マックスな顔で教室へ駆け込んでくる。挨拶や受け答えだって、朝のうちは「あー」だの「うー」だの、ゾンビの呻き声みたいなことしか言ってこないやつなのに。

 しかもだ。心なし、今日は普段より化粧っけがあるというか。気合いが入っているというか。華美なアイラインや真紅のリップは、いつも以上に濃く深く、輝いて見えた。しっとりした長い濡れ髪は、鳥川さんのものに勝るとも劣らずつややかで、そして色っぽい。鼻腔をくすぐる清涼感ある香りに至っては、気を抜くと意識を持っていかれそう。

 思わずクラッときた僕は、マズいマズいと首を振った。

 油断すると、コイツを女性として意識してしまう。それはよくない。非常によくない。鳥川さんではないけれど、僕も黒木田にまつわる中二のときの深刻な失態を思い返すと、いまでも身を捩りたくなる。だから平静を保つため、勝手ながら黒木田のことは、常時ヤンキーとしてカテゴライズしているのだ。

 黒木田五十鈴は単なるガラの悪い友人。そう今日も信じ込め、佐藤潮。

「なあ。……昨日のことだけど」

「え?」

 黒木田は頬杖をつき、いかにも「そういえば」といった風に話を切り出してきた。澄んだ瞳は、なぜだか宙を泳いでいる。

 疲弊しきった頭で、僕はぼんやり思考を巡らせた。

 昨日? 学校でなにかあっただろうか。いや、あったと言えばあったけど。ありすぎたけど。それは文芸部と鳥川さんまわりでの案件だから、コイツには関係ないはずだ。

「昨日って?」

 僕がそう訊き返すと、黒木田は途端に顔を顰め、「ああ?」とチンピラ風味の声を上げた。こわい。こわいが、少し落ち着く。ホッとする。この沸点の低さ、いかにもヤンキー。

「なに和んだツラしてんだ」

「い、いや別に」

 黒木田は溜息を吐き、窓の外に顔を向けた。

「ほら、アレだよ。……お、お前のマンション、今日とか――」

「おっ、おっ、おっ、おはようござざいますっ」

 なにか言いかけていた黒木田の声をかき消す、ぎこちない挨拶。

 いつのまにか僕の右隣に、鳥川魚美が立っていた。登校してきたばかりらしく、ショルダーバッグのベルトをたすきがけしたままで、少し息が上がっている。気になるのは上気した頬と、眼鏡の奥で爛々と光る瞳。そして抱きかかえた、紙束入りのクリアファイル。

「あ、ああ。おはよう、鳥川さ――」

「コレッ、持ってきました。お願いしますっ」

 食い気味に紙束を差し出された。まず間違いなく彼女の玉稿だろう。少しヒヤッとしたが、表向きは文芸部員同士の原稿受け渡し。これだけで僕の本業に思い至る人間は教室にいないはず。

「ああ、うん。どうも」

 僕は内心、彼女の視線にどぎまぎしながらクリアファイルを受け取った。いつもオドオドしているのに、いざ人と目を合わせるときには躊躇しない子なんだよな。逆にこっちが緊張する。

 そんな僕らを、何人ものクラスメートが遠巻きに見ていた。気持ちはわかる。僕だって彼らと同じ立場なら、きっとそうする。教室内でこんなに元気よく話す鳥川さんは、初日以来なのだから。

 鳥川さん本人には、人目を憚る様子はなかった。彼女はただ、こちらだけを一心に見つめている。すっぽり被ったフードや長い前髪で視野と視界を狭めているため、注目されていることに気づいていないのかもしれない。昨日までの僕の視線は敏感に察していたくせして、随分と無頓着。そして不公平だ。面と向かって気持ち悪いと言われた心の傷は、一夜経ってもまだ癒えない。

 それはそうと、我ながら変態じみた感想で恐縮だけれども。ほんのりぬくいファイルの手触りを、どうしても意識してしまう自分がいた。誰にも責められる謂れはない、思春期の哀しいさがである。

「わざわざプリントアウトしてきたの? メールで送ってくれればいいのに」

 僕がそう言うと、鳥川さんはわずかに視線を落とした。

「いや、その。……佐藤くんとアドレス交換するのは、ちょっと」

「……それ、どういう意味で言ってる?」

 彼女の中で僕はそこまでの危険人物なのか? そんな相手に、なんで弟子入り志願してきたよ。

「あ。……いえ、その。ちがうんです。ウチのパソコンのメールアカウント、妹と共有してるから。だから、ちょっと。男子のアドレス登録しちゃうと、問題があるというか」

「ふう、ん?」

 家庭の事情か。まあ、そういうこともあるのだろう。方便でないことを願いたい。つづいて鳥川さんが、「あの子に知られると佐藤くんの身に危険の及ぶ可能性が」などと呟いているように聴こえたけれど、これはたぶん空耳だ。

 僕はファイルから取り出さぬまま、一番上の紙にざっと目を通した。やはり小説原稿。縦書きで、右端に記されたタイトルは『オーバーナイト・ハイキング』とある。その後は、ずっと本文。こちらの意見がほしいなら、できれば梗概も用意しておいてもらいたかった。だが、わざわざ指摘するほどのことではないか。書式や字間は、読みやすいようキッチリ揃えられている。

「ん?」

 ふと、用紙の隅っこに手書きの文字を見つけた。丁寧な筆跡で一言、〈斜陽産業〉とある。

 これはラノベに対して言ってる? それとも小説全般? いずれにせよ、僕は喧嘩を売られているのだろうか。

「どうかしました?」

「い、いや。なんでも」

 こちらが眉を顰める一方、原稿を寄越してきた当人は、きょとんとしている。

 落ち着け、きっと誤解だ。もしくは事故だ。さもなくば僕の疲れきった頭と目が見せている幻。鳥川さんは、こういうチクッとした嫌がらせをしてくる子じゃない。美少女はそんなことしない。

 さりとて、直に確認する勇気はなかった。

「じゃあ、たしかに。……これって最終選考に残ってたやつ?」

 昨日の会話の流れからして、十中八九そうだろうけど。そして、訊いている途中で思い出した。新人賞のサイトに掲載されていた、彼女の候補作と同じタイトルだ。いまと同様、そのときもネーミングセンスはないなという所感を持ったので覚えている。

 鳥川さんは自信の表れか、わずかばかり口角を上げた。

「はい、そうです。そこから、いくらかは直してありますが」

「わかった。読むのに少し時間もらうかもだけど、いい?」

 なにしろ自分の原稿や、高校生としての当たり前の勉強だってある。興味はあっても、彼女の作品にだけ、かまけてはいられない。

「もちろんです。……時間をかけて、私の小説にエンターテインメント性がないか、たしかめてみてください」

 腰は低いのに、まるで宣戦布告。僕は言葉に詰まった。

 昨日こちらが言ったことへの皮肉だな。あのときは反論してこなかったけれど、バッチリ気にしていたらしい。

 鳥川さんは不敵に微笑んでいる。初めて見る表情だ。あの驕った自己紹介のときでさえ、ここまでではなかった。胸の内にあるのは、自分の原稿に対する自信と矜持か。普段あんなにキョドキョドしているくせに、いまは自分が小説家になると信じて疑わない、強靭タフな挑戦者の目をしていた。触発され、なにかが僕の心の中で、ちりちりと燃えている。

 しかしクラスメートの目がある中、挑発に乗るわけにはいかない。僕は素っ気なく答える。

「了解。テスト明けに返すよ」

「は、はい」

 さらりと取り付けた期間は、二週間以上先。鳥川さんは少し落胆したようだったが、ここは呑んでもらおう。

 月末からは中間テストが始まる。この高校は入試成績次席の楓と、せいぜい中の上くらいの順位であったろう僕を同じクラスに割り振るようなボンクラ校だ。それでもテスト前となれば、僕の頭では、ある程度の勉強時間が必要だった。

 両親から提示された、マンション暮らしを認める条件。そのひとつが一定の成績維持なのだ。それに加え、新作の改稿作業はまだまだ半ば。しばらく僕には、他人の原稿に割く時間はない。

「では、よろしくお願いしますっ」

 鳥川さんは勢いよく頭を下げた。その拍子に、大きな黒ぶち眼鏡が床めがけてダイブする。足元でカツン、と硬い音。彼女は「ああっ」と悲鳴を上げ、素早く屈んで眼鏡を拾った。

「大丈夫? 割れてない?」

「は、はい。レンズ入ってないんで」

 あわあわ取り乱しながらの返事。あっという間に、いつもの鳥川さんだ。

 というか、

「え、伊達なの?」

「え、ええ」

 鳥川さんは俯き、フレームを軽く手で払いながら答えた。

 なんで伊達眼鏡なんてかけてるんだろう。サイズだって合ってないし。

「眼鏡、外せば? せっかくの魅力的な顔が台無しだ」

 などとキザったらしいことを本当は言いたかったけれど、そんな気安い仲でもなかったので、僕は「あ、そう」とだけ返した。やむを得ない。下手につついて、また蔑むような目を向けられたら立ち直れないし。

 そこで会話は終了。用件を済ませた鳥川さんは眼鏡をかけ直して席につき、僕も彼女の原稿を鞄の中へ仕舞った。

 ところが、

「あっ……鞄忘れた」

 右隣からの呆然とした声に反応し、僕は顔を向けた。お互い、自然に目が合う。鳥川さんは、にへらっと笑ってみせた。僕は確信する。たとえ眼鏡は似合っていなくとも、やはり鳥川魚美は抜群にかわいい。なにより、ときどき見せる引きつった笑みでなく、気の抜けた笑顔だったのが嬉しかった。彼女との距離が縮まったことを実感。いまだ確執はあるけれど、文芸部に誘ってよかった。小八木先生ありがとう。

「どうするの? 親に電話する?」

「いえ、走って取りに戻ります。家、近いんで」

 言うが早いか彼女は立ち上がり、教室から出ていった。

 今度こそ会話終了。様子を窺っていたクラスメートたちは結局、誰も割って入ってはこなかった。当然と言えば当然か。僕と彼女は教室内に話し相手のいないツートップ。すなわち会話下手コンビ。知らない連中が急に近寄ってきても、きっと鳥川さんは口ごもるし、僕も「はあ?」くらいしか返せる自信がない。それを周囲もわかっている。

 まあ僕には黒木田がいるんだけどね。

 ふと窓側を見ると、黒木田は先刻と同じく頬杖をついていた。いや、ちがう。さっきはどこか浮ついた様子だったのに、いまはなんだか、憮然とした面持ちになっている。

 瞬間、僕は背筋が冷たくなった。マズい。黒木田の前で小説の話をするのはよくなかった。しかも考えてみれば、僕はコイツとの会話をほっぽって鳥川さんと語らっていたのだ。

「ゴメン。さっき、なに話してたっけ」

 悪友の機嫌を計りがてら、僕は朗らかに声をかけた。しかし相手はふくれっ面だ。

「もういい」

 険のある、温度の低い返事。

 ああ、やってしまった。今後、鳥川さんと小説や文芸部について話す必要があるときは、なるべく教室を避けよう。

 予鈴直前、息を切らした鳥川さんが教室に駆け込んできてからも。授業の合間の休み時間になっても。今日はそれっきり、黒木田は僕に話しかけてこなかった。昼休み、弁当の梅干しだけは投げて寄越してきたけれど。


 その日の放課後。僕はノックした後、念のため少し待ってから、慎重に部室のドアを開けた。

「ざんねーん、今日は着替えてませんでしたーっ」

 底抜けに明るい声が中から響く。ソファでくつろいでいるのは文芸部部長、来海緋衣子。本人の言葉通り、今回は最初から制服姿だ。

「別に期待してない」

 文芸部の活動日は月水金。本日は木曜だが、事情により、こちらから彼女を呼び出していた。

 僕は戸をきっちり閉め、長机やテーブルを過ぎてソファの前へ。そして部長の隣に腰かけた。向こうが中央の位置から微動だにしないので、自然、袖が触れ合うくらいの距離になる。

「ミーちゃんは? 来ないの?」

「ミーちゃん? ああ、そうか。いや」

 部長は昨日、会ったばかりの鳥川さんに、そんな愛称をつけていたっけ。

「誘ってない。火木は休みって伝えてあるんでしょ? たぶん真っ直ぐ帰ったよ」

「ありゃー、そっか残念。まーいっか、後でLINEするし」

「……僕をのけ者にして、ふたりがID交換していた事実はともかく」

 地味にショックだけれども。

「ヒー姉さ。鳥川さんのこと、初めから知ってたでしょ」

 僕は単刀直入に問い質した。

 僕が隣の席だとかの詳細は初耳だったにしても。この人は鳥川魚美の惨状を、昨日の時点で把握していた。少なくとも、当人さえ知らない陰口の内容を掴んでいた。

「あーぅ、バレちゃってたか」

 部長は両手を掲げるオーバーリアクションとともに、あっさり認めてみせた。

「そりゃー二年の間でも、ちょっとは話題になってたからね。新入生にこういうこと言ってた子がいるんだーって」

「ああ、そっか。なるほど」

 極めて限定的な交友関係しか持たない僕には、思い至らなかったけれど。クラスの輪に留まらず、鳥川さんの噂はもっと多くの生徒間で広まっていたのか。

「いつから知ってたの?」

「えーっと。……シオちゃんが、アイツら追い出した後くらいかな」

「アイツら?」

「ほら、文芸部の」

「……ああ」

 部室でたむろしていた先輩たちか。部長が鳥川さんのことを知ったのは、彼らの退部後。つまり四月後半か、今月に入ってから。どうやら噂が浸透していったペースは、かなり遅いようだ。あの自己紹介はインパクトこそ凄まじかったが、やはり作家志望者自体への世間的関心は薄いものなのだろう。

「で、メイちゃんに訊いてみたら、同じクラスだーって言うから」

「楓に?」

 佐藤カエデを自称する、佐藤メイプル。アイツを本名由来の愛称で呼ぶことが許されているのは、この学校でこの人だけだ。

「僕に訊いてくれたらよかったのに」

 途端、部長は顔を顰めた。

「だってミーちゃんは作家志望っしょ? だったらシオちゃん、どこがキレるトリガーになるか、わかんねーし。万田センセー仕込みの独善的倫理観マジウゼえ」

「ぐう」

 ちなみに部長は、色々あって僕の恩師を嫌っている。

「で、メイちゃんにミーちゃんのこと教えてもらってるうち、面白いけどヤベー子っぽいなーって。だから昨日シオちゃんが連れてきたとき、超ビクッたもん。あー、例のパーカーの子だーってさ」

「いや全然ビビってるかんじじゃなかっただろ。……それに、楓の言うことなんて当てにならないよ」

 アイツのことだ。独断と偏見まみれの人物評にちがいない。

「んー、それはたしかに。……つーか、あんまりメイちゃんが庇うから、逆にミーちゃんのこと警戒してたとこあんだよね。ほらメイちゃん、真面目な上に面食いじゃん? そのせいか、すぐコロッと騙されるしさ」

「……ああ、うん。あったね」

 僕は楓の歴代の恋人たちを思い浮かべた。どいつもこいつも、顔はいいが一癖も二癖もある女子ばかり。

「そこを加味したミーちゃんのイメージってさー。アタシ的には、気弱なのに急に飛びかかってきそうなかんじだったんよ。言ってみればシオちゃんタイプ。あ、直に会うまではね?」

「僕を普段どんな目で見てるんだ」

 身に覚えがあるため、どうしても語気は弱くなった。

「それで、実際に会った感想は?」

「んー……フツー? あ、たぶん眼鏡外すと、もっともっとスゴくかわいい」

 その辺はすべて同意見なので、僕は軽く頷いた。鳥川魚美は普通の子。きっと初日のイカれた挨拶は、はっちゃけようとして失敗しただけ。そして黒ぶち眼鏡は似合っていない。

「けど近くで見たかんじ、アレはわざとゴツいフレーム選んでんのかもね」

「へ? なんで?」

「……まー、女の子には色々あんだよ」

「ふうん」

 意味がわからない。シャイだから人に顔を見られたくないとか、そういうことかな。なんにしろ勿体ない。

「まあ、わかった。そこはいいよ。でも」

 僕は言葉を区切り、彼女の目を見た。

「なんで、?」

 部長の喉が、こくりと鳴った。

「僕がラノベ作家って。アレ、故意に教えたよな」

 昨日までは取って付けたような仕草に騙され、うっかり口を滑らせたものと思い込んでいたけれど。時間を置いて振り返ると、この人はあのとき明らかに、自ら進んで暴露していた。

「あー……ゴメン」

 またもや部長は即座に認める。しかし先程より、ずっと気は重そうだ。

 僕は無言で彼女の言い分を待った。この件について、少し怒っていたから。

 別に、絶対の秘密ではない。その上、バラした相手は完全無欠のぼっち女子。吹聴されるリスクは低いだろう。それでも、大事な幼馴染みに信頼を裏切られた気分だった。

「けどアレは、ホントに悪気があったわけじゃなくって。……わざとっていうより、気づいたら舌が止まんなくなってたっつーか」

「……それにしたって迂闊すぎるよ」

 そうなじると、彼女は僕にしなだれ、頭をこちらの肩へコテンッと倒してきた。

「ヒー姉?」

 透けるような蜂蜜色の髪が溶けて流れて、袖にかかる。そして黒木田のものとはまた別の、馥郁ふくいくとした香り。さらには二の腕に伝わる、あたたかくて柔らかくて幸せな感触。ふいに喰らった至近距離からの絨毯爆撃で、意識が遠のきそうになる。

「自慢したかったの」

「……自慢?」

 僕はぼんやり訊ねた。

「シオちゃんのいる教室で。作家志望者って、ひけらかしてるような子に。……会う前から、内心イラッと来てたのかもね。それで、『ここにもっとスゴいのがいるぞー』って言ってやりたくなって」

「あー……それは。どうも」

 ただでさえ頭がふわふわしてきたところ、気恥ずかしさや申し訳なさが相まって、まともに返事ができなかった。

 師匠である万田凛という例外を除けば。この人は、小説家志望者だった僕を一番応援してくれていた人だから。

「でも僕だって別に、褒められたものじゃないよ」

「そう? アタシは好きだよ。いま書いてるシオちゃんのラノベも」

「……ありがとう」

「じゃあ、許してくれる?」

「……いいけど」

 部長はこちらの袖をやさしく掴んだ。つづいて、上目遣いに僕を見る。

「ありがと」

 潤んだ双眸。輝く髪。眩しい小麦色の肌。ふっくらした唇。澄んだ芳烈な香り。それらがゼロ距離にまで迫る現状は、まるでラブシーン突入直前。

「ヒー姉」

「動かないで」

 痺れるような声色せいしょく。それだけで僕は微動だにできなくなった。

 ほかに誰もいない部室。閉めきられたカーテン。壁一枚隔てた先には、楓を含めた茶道部員。同じような状況は、いままで何度もあった。だけど、こんな空気は初めてだ。

 緊張、興奮。期待感。そして背徳感。膝が震える。胸の鼓動が騒がしい。丹田まわりが熱くなる。一体なにが始まるんです?

 部長は掴んでいた袖を軽く引いた。次いで、よじ登るようにして、唇をこちらの耳元へと近づける。湿った吐息が耳朶に触れ、僕は堪らず身震いした。そのくせ怖気づき、自発的な行動を取ることができない。

 やがて伝わる、ぴちゃっという、ぬめった音。彼女は僕の外耳に舌を這わせていた。生涯初の感触は柔らかく、あたたかく。そして少しザラついている。

「ひっ、ヒーね……ひい」

 僕はされるがまま。それでいて全身を揺すっていた。衝動の持っていき方がわからなかった。

 青天の霹靂。今日このまま、イケるところまでイケちゃうんだろうか。本気でそう思った。この人は僕をいつも弟扱いするけれど。中一の春、あっさり袖にされたけれども。もしかして、ワンチャンある?

 しかし次の瞬間、ガリッという硬質な音が、耳どころか頭の奥にまで響いた。

「いってえ!」

 甘噛みではない、マジの噛みつき。思春期男子の淡い期待を粉砕する一撃だ。凶悪ボクサーの反則みたいなやつ。

「いっ……な、なにすんの」

 僕は立ち上がり、彼女から距離を取る。手で耳を押さえて確認。かろうじて血は出ていなかった。

「お仕置きだよ」

「お、お仕置き?」

 さっきの潤んだ瞳が嘘のよう。部長は白けた顔で僕を見ていた。

「シオちゃんのことは応援してる。昨日のことは悪かったと思ってる。……でもさ! それでも、ミーちゃんのこと少しも助けてこなかったってのは。お姉ちゃん、ホントにガッカリだよ」

「……ああ」

 また、その話か……などと、うんざりはしない。僕は一ヶ月以上、かよわい女子のピンチをすぐ隣で放置してきた。自分なりの理由があったとはいえ、姉貴分に失望されるのも、責められるのも当然だ。

「反省はしてる」

 みっともない。不甲斐ない。重々承知。だから言い訳はしない。

「まー、気持ちはわかるんだけどね」

 意外にも部長は、あっさり普段の軽い調子に戻った。この人のことだから、てっきり説教が始まると覚悟していたのに、拍子抜けだ。〈お仕置き〉で気が済んだのだろうか。あるいは、僕に同情しているのか。

「それでも、ちゃんと悪かったと思ってるんならさ。償い代わりに、しっかりミーちゃんの手伝いしてやんなよ?」

 僕はおずおず、再びソファに腰を下ろす。

「わかってる。今朝、鳥川さんから原稿も受け取ったし」

 都合により、締め切りは少し先にしておいたけれど。

「あー、メイちゃんから聞いたわ。なんか朝っぱらからイチャイチャしてたって。原稿の話だったんだ」

「……あの面食い毒舌リーク女」

 朝のやりとり、楓にも見られていたのか。

「まー面食いっつったら、シオちゃんも負けてないけどね」

「そそそ、そんなことはない」

 身に覚えがありすぎて、声が震えてしまった。

 部長はにんまり、意地の悪い笑みを浮かべる。

「シオちゃん、クラスでは〈顔のいい女としか話さないクズ男〉って有名らしいじゃん」

「……完全に初耳なんだけど」

「これもメイちゃん情報だよ」

 メイプルあの野郎。

「だからアイツの言うことなんて――」

「いっつもスズちゃんとばっか話してんだって?」

「ぐっ」

 スズちゃんというのは、もちろん黒木田五十鈴のことである。名前にコンプレックスを持つ楓と、気難しい黒木田。その両者に愛称で呼ぶことを認めさせているのだから、来海緋衣子の人望は底知れない。実態はこんなんなのに。

「今朝はミーちゃんとイチャついて。で、部活の顧問は担任のコヤギちゃん。放課後は、しょっちゅうアタシとふたりきり。メイちゃんは妹。情報通りじゃん。ヤバッ、こわっ」

「ぐうう」

 ちゃっかり〈顔のいい女〉枠に自分も入れているところが、いっそ清々しい。まあ、その通りだけど。しかし妹までカウントするのは勘弁してほしかった。

「もうちょいさ、まわりの空気読むなり、性欲抑えるなりしときなね? 男女ともに嫌われるよ?」

「……年頃の女子が、気安く性欲とか言うな」

 ドキッとしちゃうだろ。

「あと、別に話し相手を顔で選んでるわけじゃない。たまたまだよ」

 部長はカラカラ笑い、僕の弁明を受け流す。

「でもウケるよねー。シオちゃんなんて、コヤギちゃんみたいな大人の女性からしたら、確実に守備範囲外っしょ。そんで昨日、ミーちゃんには気味悪がられて。メイちゃんには元から嫌われてて。残りのふたりには、中学時代にフラれてやんの。なのにナンパ野郎扱いされるとか、マジかわいそう」

「……本当にそう思うなら、この話やめてくれ」

 そもそも鳥川さんに気味悪がられたのは、半分くらい部長のせいなんだよなあ。

「スズちゃん元気? お互い気まずくない?」

「だ、黙れ」

 そういうアンタはどうなんだよ、とは訊けない。訊けるわけがない。

 げんなりする僕に対し、部長は満足げに微笑んだ。

 ああ、ここまでが〈お仕置き〉だったわけか。

「さて、今後の文芸部の活動についてだけど。当面はミーちゃんのバックアップね。昨日決めた。アタシが決めた」

「……僕はいいけど。その場合、ヒー姉はなにを?」

「もちろんアタシは、シオちゃんが暴走したときのストッパー。……わかるっしょ?」

 そんなことを真顔で言われたものだから、僕は少しムキになった。

「こっちだって、いつまでも子どもじゃないんだよ。もう感情のコントロールくらいできる」

「いやいやいや。昨日もだけど、小説絡みだとソッコーで悪いスイッチ入るじゃん。全然ガキじゃん。童貞じゃん」

「最後は関係ねえ」

 先刻どぎまぎさせられた上で、そこを弄られるのは精神的に来る。キャラキャラ笑う彼女にいつか吠え面をかかせてやろうと、僕は固く心に誓った。

「まー、とにかく。もうミーちゃんも、アタシのかわいい後輩だからね。いじめたら承知しねーぞ?」

 冗談めかして警告してくる幼馴染み。僕は苦笑した。

「大丈夫だよ。僕は女子を泣かせたことは一度もない。女子に泣かされたことは何度もあるけど」

「……自慢げに語ることじゃないよねえ」


 部長と別れ、マンションへ帰り着いたのは午後六時過ぎ。僕が部屋のドアを開けた瞬間、タイミングを見計らっていたかのように固定電話が鳴り出した。ディスプレイに表示されたのは、〈佐藤菓子かこ〉。この部屋の持ち主であり僕の恩師でもある、万田凛の実名。しかし、これには出なかった。なぜなら、時は五月半ば。大相撲夏場所の真っ最中だったからだ。彼女の推し力士が数日前から休場していることはチェック済み。部長以上に傍若無人な師匠のことだ。うっかり電話に出たら、憂さ晴らしの無理難題を吹っかけてくるに決まっている。だから、いまのところはスルーが無難。もし大事な用件であれば、かけ直してくるだろうし。

 師匠か。

 飲むゼリーで栄養補給を済ませ、パソコンを立ち上げている最中。ふと、鳥川魚美作品への批評に関し、思いついたことがあった。

 いままでのやりとりから推し量るに、たぶん鳥川さんは結構だ。

 入学初日の僕の自己紹介を覚えていたっていう話を鵜呑みにするなら、記憶力はいいのかもしれない。授業中の小テストでも、淀みなく鉛筆を走らせているし。

 だけど大概の言動が浅はかすぎる。迂闊すぎる。

 きっと、お勉強はできるけどってタイプじゃないかな。一方で要領が悪く、融通が利かない。結果、人の話をすぐ真に受ける。額面通りに受け取ってしまう。

 いかに有望であろうと。このタイプに僕の担当編集さんのような気の利いた助言をしても、十全には伝わらない気がする。もっと師匠みたいに。いや、そこまで凶悪でなくても。率直に、委曲を尽くして問題点を指摘した方がいいだろう。

 一時のアドバイザーとはいえ、僕は他人の作品を批評するなんて、師匠からの課題を除けば初めてだ。だから、恩師のやり方を真似するくらいで丁度いい。

 よし。自分の改稿作業と中間テストの後。原稿を読み終えたら、鳥川さんには万田凛式のコメントを送ろう。

 このとき僕は、純然たる善意でそう決めた。

 まさか、そのせいで数年ぶりに幼馴染みからシメられることになるとは思わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る